一九九一年の四人①
いつも通りの時間に家を出はしたが、乗った電車は本来の目的地とは逆方向。通勤ラッシュとはいえ鈍行だからそこまで混んでいなくて、窓から大小高低様々な建物をぼんやり見ているうちに、俺は横浜駅に着いた。
学校をフケるのは初めてだ。
人混みを掻き分けながら駅の外に出て、特に何も考えずに歩き出す。時々すれ違うサラリーマンの視線を感じるが、この辺って学校ないんだっけ?
横断歩道を前に、一旦足を止める。このまま進んで行けば、桜木町方面に辿り着く。桜木町駅の近くでは〈横浜ランドマークタワー〉なんて名前のビルを造っているらしいし、周辺ではそれ以外にも次々と開発工事が進んでいる。最近は地価や株価が下がりまくっているそうだが、それは大丈夫なんだろうか。大丈夫だからこそ開発が続いているのか?
さて、このまま桜木町方面に行こうか。それとも更に足を伸ばして、中華街や〈港の見える丘公園〉まで行ってもいいな。信号が青に変わる前に決めてしまいたい。
「結局今年は海に行かなかったなぁ~」
「あ、そうなの?」
隣に並んだ若いサラリーマン二人の会話が聞こえてきた。
「彼女と行くって言ってなかったっけ」
「そのつもりだったんだけど、彼女が夏風邪引いちまったから延期になってそのまま。しかも俺が〝夏風邪はナントカが引くんだよな〟って、ちょっとからかったら機嫌損ねっちまって、今もまだ怒ってるから参ってんだよ」
「あーあ!」
そりゃあんたが悪いだろ……。しかし、参っているとか言う割には隣のリーマンと一緒になって笑ってるし、反省はしていないのだろう。
信号が変わった。
改めて、何処に向かおうか。
……海、か。
というわけで、数十分歩いて俺がやって来たのは、海沿いの大きな公園〈臨港パーク〉の北側。
この公園、確か二、三年くらい前に出来たんだっけな。公園っていうから小さい子供向けのアスレチックや砂場なんかがいっぱいあるのかと思っていたが、ちょっと違った。芝生広場や石畳の歩道がメインで、ジョギングや犬を連れて歩くのにも良さそうだ。
よし、とりあえず一周してみるかな。
広い園内を、時々海の方も見やりながら歩く。平日だし、まだ九時過ぎかそこらだからか、そんなに人はいない。
俺みたいに制服を着たやつは……いた。カップルみたいだ。ベンチに座って身を寄せ合って、何やら囁き合っている。学校行けよ。いや俺もか。
「私が作った料理には何でもケチつけるのよ、あのババア。味が濃いだの、具の切り方が下手だの、硬いだの……」
「社長来るのって来週だっけ? あの人が来ると仕事進められなくなって困るんだよな」
聞き耳を立てているわけじゃないが、すれ違う人たちの会話が自然に耳に入ってくる。
「お昼はどうする? あたし、いい喫茶知ってるんだけど……」
「あ、もしもし? 小林です! お世話になります! はい、ええ、今ちょっと外出しておりまして……」
携帯電話で喋っているサラリーマンもいる。便利でいいよな、あれ。持っている人はまだあまり見掛けないが、俺が社会人になる頃にはもっと普及しているはずだ。それとも大学に通う頃にはもう主流だったり?
〝大学? 自分の好きにしなさい。ただしお金はないからね、まー君が医大に入るんだから〟
……疲れた。ちょっと休むか。
再び北側に戻ってきた俺は、更に端の方へ向かい、石段の最上段に腰を下ろした。俺の他には女性が二人、下段に並んで座ってお喋り中。
〈臨港パーク〉に向かって歩いていた時よりも、体が若干汗ばんでいる。気温が上がったんだろうな。そよ風が心地好い。磯の香りも、まあ悪くない。
ぼんやり海を眺める。見えるのは客船やコンテナ船、新港埠頭のハンマーヘッドクレーン、そして奥の方にそびえる斜張橋・横浜ベイブリッジ。ベイブリッジはここと同じくらいか、そのちょっと後に出来たんだったな。
横浜はどんどん変わってゆくんだ。いや、横浜に限らず、世の中全体も。
俺はどうなる?
これといった夢も目標もなく、本当に心許せる相手もいないような俺に、果たして明るい未来なんて待っているのだろうか。
「サボタージュかい?」
ふいに聞こえてきた横文字が、自分に掛けられた言葉だと気付いたのは、声の主がすぐ横に来たからだ。
「今日は学校の気分じゃない?」
顔を上げると、おっさんが一人。背は俺より低くて、一七〇ちょいか。太ってはいないけど痩せてもいない。ちょっとボサっとした短い黒髪は、染めていないのか所々に白やグレーも目立つ。服装は黒いパーカにジーンズ、スニーカー。サラリーマンではなさそうか?
「あー……いや、その……」
おっさんの声に咎めるような響きはなかったが、それでも俺の頭の中では、あらゆる言い訳──授業は午後から、創立記念日で休み、体調不良で早退──が浮かんだ。
「余計なお世話だろうけどさ、余程の理由がない限りは辞めない方がいいと思うよ」
言いながら、おっさんは俺との間隔をちょっと空けて腰を下ろした。
「私はね、長年勤めた会社が先々月にいきなり倒産してから、未だ無職のままだ。なかなか次が決まらない」
「……それは大変、ですね」
「うん、それなりに大変。以前から上手くいってなかったカミさんは娘連れて出て行っちゃったし、家と車のローン残ってるし」
「大変過ぎる」
おっさんは小さく吹き出した。いや笑い事か?
「で、きみは何故ここに?」
「……俺は……」
根掘り葉掘り聞かれるのは好きじゃない。ましてや見知らぬおっさんに。
でも何故だろう、この人にはあんまり抵抗がなかった。むしろ、ちょっと話を聞いてもらいたくなってきた。
「俺は……何か人生が虚しくなって。明日を迎えたくなくって」
おっさんの目が見開かれ、唇が僅かに震えた。さて、どんな綺麗事を言ってくるか。それとも説教か、はたまたその両方か。
「同じだよ。私も同じだ」
俺たちのやり取りが聞こえたのだろうか、下段に座っている女性二人がこちらに振り向いた。
俺たち四人の出逢いは、こんな変わった感じだった。
もしここで出逢っていなかったら。俺がおっさん──ケンさんとの会話を拒否して、この場を離れていたら。そもそも俺が学校をフケていなかったら。
果たして〝あの現象〟は起こっていたのだろうか。




