一九九一年九月最後の水曜日
※小ジャンルが「空想科学」ですが、科学要素ほぼありません。
「もう限界だ」
いつもの渋い掠れ声で独り言のように呟いたケンさんの顔は、実年齢──サバ読んでなければ四五歳らしい──よりずっと老けて見えた。石段からゆっくり立ち上がり、俺に背を向けるようにして見据える先には、あの忌々しくて憎たらしい〝真っ黒な化け物〟。芝生広場の木陰を四つ足でうろうろしていやがる。
「ケンさん?」俺の声も掠れていた。ケンさんの地声とは違って、不安と、恐怖のせいで。「あんた……何考えてます?」
ケンさんは答えず、石段を一段上った。それからよく晴れた空を仰ぐと、ゆっくり息を吐き出し、
「すまないが、私はそろそろ降りるとするよ」
俺が一番聞きたくなかった言葉を、俺の方を見ずに口にした。
「駄目だ! 何馬鹿な事言ってんだよ!」
俺は慌てて立ち上がると、ケンさんの腕を掴んだ。それだけじゃ足りない気がしたから、石段を二段上ってケンさんの正面に回り込み、両肩を掴んで揺さ振る。
「しっかりしろよ! あんたらしくもない!」
「正直に言うとね、私は早い段階から、この繰り返しに嫌気が差していたんだ」
ケンさんの顔に自嘲気味な笑みが浮かぶ。俺は言葉を失った。脳内に浮かんだ言葉は──〝死相〟。
「初めのうちは君たちと同じで、素直に喜べていたよ。でもね、何度も何度も同じ朝を……この一九九一年九月最後の水曜日を迎えるうちに、絶望感と孤独感に苛まれるようになった。仲間である君たちの存在があっても変わらなかった」
仲間。そう、俺たちには他にも仲間がいた。でも今はこの通り。しかもひょっとしたらこの後、とうとう最後の一人しか残らなくなるかもしれないという危機的状況だ。
「……ヤダなぁ~ケンさん! こんなに可愛くてか弱い俺を独りぼっちにさせるつもり?」
俺は努めて明るく、生来のお調子者みたいに振る舞った。
「次は会う場所変えましょうよ! ほとんど毎回ここに来るから飽きちゃうんですよ。前にケンさんが言ってたマリンタワーとかどうです? ていうか俺、腹が減ったんですけど! そうだ、前にケンさんが言ってた定食屋に──」
「カズ君」
ケンさんが俺の肩を優しく叩き、弱々しく笑った。ああ、やめてくれ。本当に今にも死んでしまいそうじゃないか。
「ケンさ──」
「私の勘だが、きみならこの状況を……ループを抜け出す方法を見付けられるんじゃないかという気がするんだ」
「……だったら! だったら一緒に!」
ケンさんは無言で首を振った。
「……っ、ふざけんな! そんなの許さねえからな!!」
こうなったら、半殺しにしてでも止めてやる……!
俺は右の拳を握り締めた。とりあえず顔を一発やってみよう。こちらが怪我をしない殴り方なら、中学の時に木島が教えてくれた。あいつ元気かな。今頃何の授業を受けているんだろう。いや、今はそんな事どうでもいい。
「ケンさん……歯ぁ食い縛ってくれ!」
言うや否や、俺は拳をケンさんの左頬に叩き付け──られなかった。しかもどうだ、俺の方が尻から石段に叩き付けられてしまった! 何故ってそれは、ケンさんが俺を思い切り突き飛ばしたからだ。
「ケンさん!!」
俺は痛みを堪えながら、芝生広場の方へ走り去る最後の仲間を、密かに父親のように慕っていた男の名前を叫んだ。
「ケンさん!! 駄目だ!! やめろ!!」
近くを歩いていた老人や小さな赤ん坊を連れた母親が、俺の声に反応して振り向く。
ケンさんは、木陰から出ようとしていた真っ黒な化け物の目の前で足を止めると、ゆっくりと両手を広げた。通行人たちには、ケンさんが体操でもしているようにしか見えないだろう──何せあの化け物は、俺とケンさんにしか認識出来ないのだから。
「ケンさん……!!」
俺も何とか起き上がって走り出した。でも、全然間に合わなかった。
真っ黒な化け物は無抵抗のケンさんに飛び掛かり、四肢でしがみ付くようにして捕らえた。そして、クソッタレのっぺらぼう顔を、ユリの花を一気に咲かせたみたいにパカッと開くと……ケンさんを頭から一気に丸呑みにした。
「あ……あああ……」
悲鳴を上げる事も出来ず、俺はへたり込んだ。通行人たちの、頭のイカれた奴でも見るかのような視線。その中にはケンさんが跡形もなく消滅する瞬間を目撃した人間もいるはずだが、やっぱり誰も反応しなかった……ナツエさんとナコさんの時と同じように。
「ケンさん……馬鹿野郎っっ……」
真っ黒な化け物が、もぞもぞと地を這いながら近付いてくる。ああ、しまった。俺があいつの存在を認識している事に気付かれっちまった。
「……この野郎……」
俺は涙の滲む目で仲間たちの仇を睨み付けると、覚悟を決めて再び立ち上がり、叫びながら突進した。黒い化け物も、待ち切れないとばかりに速度を上げる。
まだ腹八分目ってか? 俺だってさっきから腹が減ってるんだ。ケンさんと定食屋に行きたかったのに。今日も、次の今日も、その先の今日も。
せめて一口は齧ってやらなきゃ気が済まねえ!!
俺と真っ黒なクソ野郎が、地面を蹴って互いに飛び掛かったのは、ほぼ同時だった。