神に愛された姉と、母に愛された妹
お前の母は酷い女だったのよ。
そう、繰り返し孫に言い聞かせてきた。
母が恋しいと泣く孫に、何度も、何度でも、娘のことを悪しざまに罵ってきた。
「お前の母は、聖女様を虐げ、王太子殿下を誑かした末に神罰を受け……両目を潰されてしまったのよ」
「お前もあんな母親のことは忘れて、真っ当に生きるのよ。分かったわね?」
「――駄目よ、絶対に駄目! 聖女になろうだなんて、そんなことを夢見るのはおやめなさい!」
逃げるように各地の村を転々としても、噂話はどこまでもついて回った。
神の忠実なる下僕たちは、どこに行っても私たちを監視してくる。
だから私は――言い聞かせるしかなかったの。
……お前の母は、酷い女だったのよ。
孫は、黙って聞いていた。
うなずきもせず、問い返すこともなく、あの子と同じ青い瞳で静かに私の顔を見つめていた。
……ええ、思い返しても、あの子たちは本当に正反対の姉妹だったわね。
姉のアメリアは、いつもどこかぼんやりしていて、遠くの何かを見つめているような子だった。
家族との会話も少なく、親しい友人も持たず、日がな一日、神の教えを繰り返し読んでは祈りを捧げてばかり。
手はかからなかったけれど、正直、何を考えているのか分からない子だったのよ。
一方の妹、リリーナはというと――明るくて、愛嬌があって、人に好かれる術をよく知っていた。
愛らしくて、華やかな場所がよく似合い、誰とでもすぐに打ち解けてしまう。……そんな自慢の娘。
だから、つい私はリリーナの方ばかりを見てしまったの。
だって、素直に甘えてくれるリリーナが、やっぱり可愛かったんですもの。
いやね、勘違いしないで頂戴。アメリアのことだって、大事に育てたつもりよ。
もちろん愛していたわ。世間で言われているような差別なんて、一度もした覚えはないもの。
同じ食事を与え、同じ服を与え、同じ教育を施してきたんですから。
でもね。私は、思うのよ。
一寸の狂いもなく姉妹を平等に愛せる親なんて、この世に一体どれほどいるのかしら――って。
それにね、リリーナは努力家でもあったのよ。教養や礼儀作法を身につけるため、誰よりも熱心に学んでいたの。
アメリアの方は……そうね。神に救いを求める人々へ、常に平等に手を差し伸べていたわ。限られた時間しか教会に顔を出さないリリーナのことを、どこか冷ややかな目で見ていた気もするわね。
我が家は代々、神に仕えてきた家系だけれど、今の時代では信仰なんてすっかり形骸化しつつあるように思えるわ。
信仰の深さよりも見栄えや格式ばかりが重んじられるこの世の中では、『聖女』なんて、もはや名誉職のようなもの。
それでも、今代の聖女に選ばれたのはリリーナで、王太子殿下の婚約者となったのもまた、あの子だったの。
歴代の聖女と比べれば聖力は乏しかったかもしれない。でも、誰からも愛される人柄こそが選ばれた理由だと聞いて、私は本当に誇らしかったのよ。
もちろん、アメリアのこともないがしろにしたわけではないの。だけど――あの子自身が名ばかりの名誉職には興味を示さなかったのよ。
本人がそれを望むのなら、仕方ないじゃない。王室に入ることを拒んだのも、神に仕える時間を削られたくなかったからでしょうし、私はその意思を尊重すべきだと信じていたの。
……それが、あの子にとっても最良の道だと、本気で思っていたのよ。
けれど、ある朝のこと。ふたりが口を揃えて「不思議な夢を見た」と言い出したの。夢とも幻ともつかぬ、神託めいたものだったらしいわ。
【もし、隣人の子が今まさに命を落としかけていたとしたら。お前は、自らの子の寿命を半分差し出せるか?】
光に満ちた神域の中で、そんな声が脳に直接響いたそうよ。
……ばかばかしいと思ったわ。自分の寿命ならまだしも、わが子の寿命を差し出すだなんて。それはつまり、私にとっては、あのふたりの命を削るということでしょう?
考えるまでもないと思いながらも、まだ子を持たぬふたりがどう答えたのか尋ねてみたら、あの子たちはそれぞれ、まったく違う答えを返してきたの。
リリーナは迷いなく言ったわ。「私の寿命の大半を差し出すわ。親なら当然のことでしょう」と。
私にとってもそれは模範解答に思えたけれど――アメリアは、まるで別のことを言ったの。
「それは駄目よ。人はみな、等しくあるべきだもの。たとえわが子であっても、神の意に反することは許されないわ」
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも厳格で……私は何も言えなくなってしまったの。
でも今にして思えば、あの敬虔さこそが、真の意味で『聖女』と呼ばれるにふさわしかったのかもしれないわね。
アメリアは翌日には何百年ぶりかの神の啓示とやらを受けて、真の聖女はアメリアであると、大教会から正式に発表されてしまったの。
それは、あまりにも突然のこと。
誰よりも神に近い存在として、あれよあれよという間にアメリアは王都で絶大な支持を集めるようになっていったわ。
そんな中でも、リリーナと王太子殿下の間には育まれた愛があったのでしょうね。どれほど周囲が「真の聖女とこそ結ばれるべきだ」と騒ごうとも、王太子殿下は自らの意志で、リリーナとの婚約を継続すると発表なさったの。
身を引こうとするリリーナを引き留めて。私にも改めて挨拶をしてくれて。アメリアにも誠意をもって接してくれたわ。
彼女の聖性を認め、その立場を最大限に尊重する。
もし望む者がいるなら、しかるべき形でその婚姻を手配しようと。丁寧に申し出てくださったの。
アメリアは王太子殿下の言葉に静かに頷き、恭しく頭を垂れていた。
……けれども、納得していなかったんでしょうね。
アメリアじゃないわ。
……神が、よ。
アメリアは神に選ばれし者。ならば彼女こそが、誰よりも敬われるべき存在であるべきだった。
神の寵愛の証を、世界に示さなければならなかった。
――そうでなければ、ならなかったのよ。
最初は、リリーナを聖女に指名した、あの穏やかな教会長様だった。
誤った聖女を選んだ罰だったのかしら。
落雷に打たれた大樹の下敷きにあって、頭が潰れてしまったの。
次は、あの子たちの祖父――私の父だった。
私以上にリリーナを溺愛していたあの人は、ある夜、舞踏会からの帰り道で、小さな水溜りに突っ伏して死んでいたわ。
一度目は、ただの天災。
二度目は、不幸な事故。
でも、三度目が起きたとき、誰もが口を噤んだわ。
アメリアを尊重すると言いながらも、王妃の座を与えなかったのが悪かったのかしら。
ついには、リリーナと真実の愛を誓い合った王太子殿下が――狩猟祭の最中に馬から振り落とされ、半身不随となる事故に見舞われたのよ。
神罰だと、誰かが言い出してからはあっという間だった。
アメリアは冷遇されていたに違いない。そうでなければ、神があれほどまでに怒りを示すはずがない――。
根も葉もない噂がまるで真実のような顔をして、街から街へと囁かれていった。
アメリアは神に選ばれた。
リリーナは神に見放された。
それだけのことだった。
それだけで、すべてが反転した。
「お願いよ、アメリア。皆に誤解だと伝えてちょうだい。貴女の言葉なら、きっと皆……」
「ごめんなさい、お母様。これも神の試練だというのなら、私にはどうすることも出来ないの」
アメリアは困ったように首を振るだけで、何もしてはくれなかった。
まるで世間で実しやかに囁かれる噂は正しいのだと言わんばかりに。それでも慈愛に満ちた目で私を見下ろすだけだった。
次なる神罰を恐れた王と民は、私たちを王都から追い出した。
家名は抹消され、財産は接収され、屋敷には鍵がかけられ。
私も官職を解かれ、すがる先もなく、僻地の村へと追いやられた。
村での暮らしは、想像以上に過酷だったわ。
私たちを待っていたのは温かい庇護ではなく、遠巻きの視線だけ。
働こうとすれば「神の怒りに触れる」と追い払われ、娘が祈りを捧げれば、「何を今さら」と唾を吐かれた。
それでもリリーナは、身重の身体でどんな仕事にも手を出した。
つまずきながらも、泥にまみれながらも、神に見捨てられた身を呪わず、ただ懸命に生きようとした。
その姿が、どれだけ愚かしくも誇らしく見えたことか。
「ごめんなさい、お母様」
何も悪くない娘が、何度も私に頭を下げる。
「私は、神に愛されなかった」
私は何も言えず、ただリリーナを強く抱きしめることしかできなかった。
きっと、私が悪かったのよ。
ふたりを、平等に愛することができなかったから。
だから、私を呪えばよかったのに。
私こそが諸悪の根源だと、そう断じてくれればよかったのに。
――難産の末に生まれたお前は、泣き声も弱く、目も開かなかった。
医者は言葉を濁し、神父はただ静かに首を振ったの。
私たちは――そう、あの子も、きっとそれを「神の怒り」だと思い込むしかなかったのだと思う。
あの子もそれを悟って、ただ泣きじゃくるだけだった。
「ごめんなさい、お母様。心のどこかで姉様のことも、あんな問いかけをしてくる神のことも軽んじてしまっていたんだわ」
その夜、リリーナはひとりで祈り、そのまま戻ることはなかった。
私に残されたのは……奇跡のように目を開いたお前だけだった。
神に感謝はしなかった。
この子に光を与えたのは、リリーナが振り絞った最後の力に違いないのだから。
神に愛されたアメリアは、神の御名のもとに、今や数えきれないほどの奇跡を起こしているそうね。それはとても誇らしいわ。
でも、リリーナがいまどこでどうしているのか――それは、私にも分からないの。
何の力も持たない私は、ただお前に「母は酷い女だった」と繰り返すしかなかった。そう言い聞かせて、自分たちを守る術にしていたのよ。リリーナが村を去ってようやく周囲は落ち着いたのに、もし私たちが彼女を庇う素振りでも見せたら、村人がまたいつ牙を剥くか分からなかったから。
神の目から逃れられると思って? そんなこと、出来るはずがないじゃない。たとえあの出来事のすべてが偶然だったとしても、それを証明する手段はどこにもないのだから。
……今日も、お前は元気に外へ出ていくのね。いいことよ。
でもね、しつこいと思うかもしれないけど、もう一度だけ聞いてちょうだい。
愛する我が子を悪しざまに罵ることが、お前から母を奪ってしまった私にできる、唯一の贖罪だから。
――お前の母は、本当に、酷い女だったのよ。
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神に祈りを捧げながら、ふと、あの子のことを思い出す。
そう。リリーナは、教会に通う私の背中を見て、よく不思議そうに問いかけてきたものだった。
「どうしてお母様に愛される努力をしないの?」と。
あまりにまっすぐな瞳で見つめられるものだから、不思議と嫉妬なんて感情は湧かなかったわ。
勘違いしないで。……私だって、愛されていたのよ。
ただ、貴女よりもほんの少しだけ、天秤が浮いていただけ。
だから、私は努力したのよ。
母の一番にはなれないと分かっていたから。父に――神に愛されるための努力を。
そういえば、貴女は何の含みも無くこうもよく言っていたわね。
「母様の愛が、時々重たいわ」って。
その気持ち、今ならわかる気がするわ。
父の愛はとても大きくて、時に重たいの。でも私は、それを疎ましく思ったりはしない。先回りされてしまうこともあるけれど、それは私を見守ってくれている証なのだから。
私はその愛を拒むつもりなど一切ないの。むしろ、与えられる愛に応えることしか私にはできないのよ。
……あら。それって、あの頃の貴女と、同じことを言っているかもしれないわね。