ハリエニシダの森 7
突如亀裂が入るように開けた視界に、シキはゆっくりと目を開いた。
あの茨の花の光とは比べるべくもない外界の白い光がシキの瞳を眩しく侵す。光に目が慣れた頃、シキは茨に手をかけ、そっと顔だけ茨の外に出した。
周囲には、枯れて白茶けた茨の残骸が大量に横たわっている。無事緑色を湛えているのは、壁として機能していた茨のほんの数層だけだった。随分大きな茨の壁を作っていたものだ、とシキは他人事のように感心した。
安堵の光を溢れさせているリーリヤとカレヴァを視界の端に収めて、シキは少し離れた場所に立つ呆然としている男を見やった。
「……だれ?」
改めてきちんと見た感想といえば、女性に黄色い声を上げられそうな部類である、ということぐらいだった。
きりりと引き締まった口元、通った鼻筋は高く、全てを射殺すような鋭い目。特にこの森の色に似た深緑の瞳はまるで作り物、硝子細工めいた精巧さだ。白銀の髪といい、無駄な肉の無い長身の体躯といい、アングロサクソンとまではいかないまでも割と浅黒い肌も、アジア系などではない。強いて言うのならゲルマン系だろうか。シキもそれほど人種には詳しくないため、そんなあたりしか付けられない。
シキのか細い声に、男の瞳はあの毅い光を取り戻した。
一瞬その右手を左側の腰元にやったが、そこにあるはずの何かが無いことに気が付いて、男は何とも言えない表情をすると、深い溜息をついた。
シキが彼の視線を追うと、そこにはばらばらに砕けた光り輝く鉄の破片が散らばっているだけで、他には何もない。しばらくして、シキはそれが自分の命を奪おうと暴れた彼の剣であることに気が付いた。枯れた茨が巻きついているところを見ると、きっとあれらによって砕かれてしまったのだろう。然程気にしている様子は無いものの、やはり罪悪感がある。たとえ自分の意思でやったものではないにしろ。
男が近寄ってくると、リーリヤとカレヴァがシキを庇うようにシキの前に立ち塞がった。
「――――――?」
男が何か言葉を話すが、シキには全く理解できなかった。音は拾えるが、リーリヤたちのように意味までは理解できない。
『やはり人間にはバベルの言葉は使えぬか』
カレヴァが忌々しげに呟いた。
「バベル…?」
『天地創造の言葉のことです。バベルの言葉はダナーン神がお与えになった言葉、争いを嫌う女神はお互いの意思を正確に伝えられるよう、力持つ言葉を我々にお与えになったのです。だからこのバベルの言葉を操る者は何者とでも会話が出来、意思を伝えられるのです。しかし人間という種族は遥か昔にこの言葉を捨て、自らの言語を持つようになってしまいましたが』
「ああ……だから、リーリヤたちの言ってることはわかるんだ」
『そうです。この男は大陸東部の訛り……おそらく、プラタバムかフラフィア国の出身でしょう。……あの特徴、覚えがあります』
酷く苛ついた顔をするリーリヤに、シキは不安げに男を見た。
丸腰の男は、もう危害を加えようとはしないだろう。
だが、この男は、シキの心を酷くざわつかせる。
「――――」
また、男が何か言う。
『はっ、それこそ人間の言葉など信用できるものか』
カレヴァとリーリヤは男の言葉がわかるらしい。少しばかり羨ましく、シキは三人の会話を聞いていた。
「……――――、――――――」
『……虚偽ならば、ぬしを八つ裂きにするぞ』
「――――!…――――――」
『……その誓いが真であるなら』
カレヴァとリーリヤが同時に頷いた。
『『汝が剣を折り我が主に伏すというのなら、我等トゥアハ・デ・ダナーンの貴き御血と拝受せし肉と魂に誓い、その行いを許す』』
古より伝わる宣誓の言葉だと、誰に教えられるでもなくシキは思った。
魔獣はその血の来し方に誇りを持つ種族である。彼らの唯一絶対とも言える女神の名において宣誓を行うことは、絶対に裏切らぬ、裏切れぬと言っているようなものだ。と言っても、魔獣が自らの宣誓を破るということはまず十割方ありえない。何しろ彼らは、何より女神の血筋を重んじる種族なのだから。ゆえに魔法使いは魔獣を好んで下僕や配下、もしく魔使として契約をし、手元に追くのである。
カレヴァとリーリヤがシキの前からゆっくりと退いた。
全く話が見えないシキは、おろおろと二人を交互に見やった。驚いているうちに男はさっさと目の前までやってきてしまい、さらに動揺してしまう。
「――――」
訳すのならば、失礼、といった所だろうか。
男はシキの両頬をその無骨な手で包み頭を固定すると、自分の剥き出しの額をシキの額に押し付けた。
自慢ではないが、異性経験などほとんど無いシキにはそれだけで混乱する事態だった。しかも興味は無いとはいえ、一般的には美形と評される男との接近である。一瞬で思考が暴走し、身体が固まった。
しかしそんな接触は一瞬で、触れ合った額がいきなり燃え滾るように熱くなったかと思うと、すぐに男は離れた。
「な、なに…!?」
額が焦げたのではないかと勘ぐって、シキは自分の額を擦る。しかしどうもなってはいない。
「――意思疎通の魔法をかけた」
驚いて、シキは男を見上げた。
耳慣れない音は変わらない。が、明らかに違うのは、その音に意味があるということ。
「言葉が、わかる……」
「そういう魔法だからな。……貴様なら、何も考えず使えるのではないのか?」
探るような目つきに、シキは恐ろしくなって後ずさる。しかし――魔法と言っただろうか、この男は。
「魔法なんて、使えない」
「使っただろう」
男は枯れて地に伏した茨たちを指差す。
「分からないです、そんなの。私のいうことは聞くけど、魔法なんかじゃないと思います」
「ふん」
男は鼻を鳴らして、乱れていた真紅の外套を纏い直した。
その様は随分と傲岸不遜で、もし出来うるならば一生係わり合いになりたくないとシキが思うようなタイプだ。
貴族のような上品な立ち居振る舞い、しかし剣の鞘を腰に下げるその姿は少し乱暴そうでもある。腕が立ちそうだ。
「あの、貴方は…?」
おずおずとシキがリーリヤの陰に隠れながら問うと、男はまた人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「私は、フェルディナント・アマデオ・ホーエンツォレルン。中立国フラフィアの黒翼騎士団団長を務めている」
「騎士団…?」
貴族のようだとは思ったが、シキの思った通りお偉い様らしい。
「えっと、私は」
「お前の名など誰もが知っているわ」
吐き捨てるように、男――フェルディナントが言う。
「稀代の無唱魔術師にして史上最大の戦犯者、 ヨルゲン・ファーゲルホルム。……あの茨こそが何よりの証拠だ、『茨の王』」
少々進展しました。
別に転生ってわけではないんですけどね。
割とフェルは動かしやすいです。名前が面倒くさいだけで。(何で決めたし)