ハリエニシダの森 6
おそらく、その時誰より驚いたのはシキ本人であっただろう。
いきなり突き飛ばされたかと思ったら、現れた銀髪の大男に襲いかかられ、刃を向けられる。
天から落ちてくる鋭い刃に、ほんの数秒で死を覚悟した。いや、覚悟というよりは、本能的に悟ったと言ってもいい。
――死。
産まれてから感じたことの無い、その暗く苛烈な感情は、シキの中の何かを爆発させた。
心の奥からぞろりと這ってくる黒い触手が神経を逆撫でする。同時に、一気に視界が真緑に染まり全ての色と音とを遮断した。一瞬の出来事に思考がついていけず、シキの身体は固まったままだ。けれど、不思議と精神は冷静だった。何が起きているのか判らない、けれど取り乱すことは無い。心と身体がばらばらになってしまったかのように。
シキの周囲にあるのは、ただただ丸い、茨で囲まれた奇妙な緑色の空間だった。
日光さえも遮断しているはずなのに、そこは不思議と薄明るい。見回してみれば、薄い黄色の花があちこちに咲いている。それらがぼんやりと光っているのだ。目の前の茨の壁にそっと触れてみると、ちくりと肌は刺すものの、シキが怪我をすることは無い。血も滲まず、ただ痛覚だけを僅かに刺激するだけだ。外敵を寄せ付けず、けれど出ることも叶わない――まるで、堅牢な鳥篭。
「なに…」
何故だろう――妙に、眠い。
欠伸さえも浮かばないほど、シキの瞼はどんどん重たくなっていった。その場にぺたりと座り込んで、目を擦る。きっと膝を抱えてしまえば、そのまま寝入ってしまいそうなほど眠たかった。それほど茨の世界は心地よく、シキを安楽に誘う。
けれどこのまま眠ってしまえば、もう醒めないのではないかともシキは思えた。予感とも言うべき不安が、ひたひたとシキの中を満たす。
――起きなければ。
眠い。眠いけれど、眠ってはいけない。
そうすればもう、取り返しがつかない。
――何の?
『我が君!!』
はっと目を見開いて、シキは顔を上げた。
あれは、リーリヤの声だ。悲痛な、引き裂かれんばかりに痛々しい喚き声。
あの美しい藤の花の色の、猛々しく優しい母のような雌の竜。
あれは、私の――そう、「ぼく」の。
『我が君――ああ、我が君』
泣き出しそうな、いや、もう涙さえ零していそうな情けない声に、少しだけシキの口が弧を描く。
あんなにも強靭な外見をしているくせに、あの竜はこんな声も出せるのか。
『どうか、どうか、返事を――もう、敵はいません。あなたを傷つけるものは、もうおりません』
――敵。
シキはぼんやりと霞む頭で記憶を辿る。
嗚呼、そういえば、と自分にいきなり襲い掛かってきて刃を向けた男がいたのを思い出した。あれがもういないとなると、リーリヤかカルヴァが『始末』でもしてくれたのだろうかと、普段ならば有り得ない考えに行き着いて、シキは思わず首を振った。始末――そう、片付けること。殺したということ。
敵とは全て殺すものだ。自分に歯向かう者ならば、人間であろうと魔獣であろうと、世界であろうと。
――そう言ってたのは、誰だっただろう。
ずきりと痛む頭を抱えて、シキの顔が歪んだ。
早く、あの悲しげに吼える竜と鳥の元へ帰らなければ。きっと待っている。
不思議と、念じればこの茨を従うのだということだけはシキにも理解できていた。だから後は、ここから出たいと茨に向けて願うだけだ。
「帰して――早く」
私を、あのこたちのところへ。
しかし早く早くとどれだけ念じても、その速度はのろのろとして酷く遅く、まるでシキをここから出したくないと駄々をこねる幼児のような緩慢さだった。
シキとて、できればここから出たくはない。外界には恐ろしいことがあると、戻ればどうしようもできないことが沢山あるのだと肌で感じている。
ぴりぴりとした緊張感が、駄目だ駄目だと思いを押しのける。
けれど、シキは行かなくてはならないのだと自分を叱咤した。例え危険があろうと無かろうと、彼ら二人が出会ったばかりであろうと、何か奇妙なことに巻き込まれようとしていたとしても。
――茨の世界から、飛び立たなければ。
「……リーリヤ」
わたしの爪、わたしの牙。
わたしの意思を抱いて天翔ける紫電の竜。
「カレヴァ……」
わたしの目、わたしの翼。
わたしと共に荒野を征くわたしの黒い使者。
ならば。
――あの男は、何なのだろう。
伏線貼るの楽しいです。たいしたことはありませんが。
次回から少しずつ話が進むんじゃないかと思います。