ハリエニシダの森 5
今回は襲撃者視点です。
まだまだ伏線を張り続けなければ…
竜の封印までも解き放たれ、起きている。
フェルディナントも予想はしていたが、まさか二百年の時を拘束されすぐにでも戦闘状態に入れる竜など見たことが無い。
いや、そもそもその様な長きに渡り封印されていた魔獣などこの目の前の紫竜しか存在し得ないのだ。
――流石は、魔使か。
精巧な作り物めいた顔を僅かに歪ませ、フェルディナントは舌打ちした。
魔使とは、魔法使いや魔女が一生を共にする獣だ。
彼らは魔獣であることが多く、その力や寿命さえも共有する。特に魔法使いの力が強ければ強い程、彼ら魔使もその力を著しく増長させるのである。
大陸を東西に横断する臥龍山脈の麓、北の大国アルフリーグズと鉄鋼工業国ラピウス、そしてフェルディナントが在する中立国フラフィアの国境付近の大森林には、二百年の遠い昔に大陸全土を巻き込んだ戦争を起こした魔法使いが封印されている。
その名は忌み名とされ今は発音、綴りすら禁忌とされていた。
この度、いきなり封印が解かれたという凶報が王都のフェルディナントへ届き、軍用の翼竜で、急ぎに急いで半日がかりで森の端まで駆けつけた所――翼竜では大きすぎて森の中の目的の場所まで降り立つことが出来ないのだ――、絶望的な景色がフェルディナントの視界に広がった。
以前一度だけ見た景色は、まるきり変わってしまっていた。
封殺の魔方陣を模した巨石郡は見事ばらばらに崩れ落ちていて、多少規則性が見られるだけの、ただの石ころにまで堕ちていた。一番大きな石塔でさえ、軋む隙間も無く張り巡らされていたはずの鎖はぼろぼろに朽ち果て空しく風に漂っている。
「まさか…ドワーフが鍛えたはずの妖精鉄が、こんな……」
背後で彼の従騎士が呆然としながら呟いた。
永遠にも劣る時間、邪悪を封印し続けるための鎖は、金属の練達に長けた大地の妖精ドワーフに鍛えてもらった特別な鎖だと聞き及んでいる。
が、この有様はどうか。
ただの朽ちかけた遺跡ではないか。
「奴を探せ!!」
ばさりとマントを翻し、少数精鋭と選び抜いた騎士たちにフェルディナントは怒鳴るように命令した。
「報告を受けて一日、目撃情報も無い今、奴はまだ森から出てはいないはずだ!」
「は!!」
右の拳を左胸に当てる略式敬礼を行った騎士たちは、まるで最初から示し合わせたように散った。
「――どこにいる」
この二百年、力を殺がれ続けまともな力など残っていないはずなのだ。
例えそれが稀代の魔法使いであろうとも。封印が解けた理由は解からずじまいだが、おそらく彼を捕縛すれば解かるだろう。
そして忌々しげに眉を寄せたフェルディナントの耳に、あの泣きたくなるような雄叫びが届いたのはそれから数秒後のことだった。
それは、ただの少女にしか見えなかった。
年の頃は十三か十四、彼の下の弟たちと殆ど変わらないような外見だ。ただ、この国では酷く珍しい漆黒の髪と瞳は不安げに揺れており、それだけが気にかかった。
が、あの伝承通りの紫竜と黒い魔鳥と共にいるということが、フェルディナントの目指す獲物であるとはっきりと告げていた。
――逃がすか。
彼らが安堵した瞬間を狙い、フェルディナントは草むらから飛び出した。棘だらけのハリエニシダが服に引っかかるが、気にしない。彼がきにするのは、今やこの少女を捕縛できるか否か、であった。
真っ直ぐ少女だけを狙うと、当たり前のように紫竜が彼女を突き飛ばし、逞しい前足で彼の剣を受け止めた。
ぎりぎりと爪と鱗を削るが、多少苦しそうにするだけで、竜自体には何のダメージも与えられていないらしい。
「ちっ」
舌打ちし、同時に襲い掛かってくる黒く鋭い爪の一撃を避ける。
間髪を入れずずらりと並んだ歯で噛み付かれそうになるが再度必死で避け、今まで培った膂力で一気に跳躍した。
低くなった竜の頭と首を眼下に、掌の内で回し大地に突き立てる形をとった剣をまっすぐに少女に向ける。
目を見開いた少女に、僅かばかり心が痛んだ。
殺せぬなら、仕方ない。しかし殺せれば、それも良し。
生きていても死んでいても、この世にあってはいけない存在なのだ。
少女を庇うように広げられたもう一匹の魔使の黒翼に目測を誤りそうになりながらも、やがて来るその一瞬を待った。
――しかし、その一瞬は来なかった。
「なっ……!」
いきなり少女の足元が裂け、あのハリエニシダに似た、しかしそれよりももっと凶悪で邪悪なものが弾けるように顔を出したからだ。
「ぐっ!」
一直線に向かってきたそれを、空中で辛うじて避ける。緑色のそれは、恐るべき太さと逞しさを備えた――茨だった。
表面に細い針のような棘を生やしていた茨は、フェルディナントが攻撃を避けたと知ったが早いか棘を急激に膨らませ、まるで獲物の串刺しを望むように棘を成長させた。
「ちっ…!」
『我が君!!』
悲痛な竜の叫び声に、まるで鞭のように打ち付けてくる棘だらけの茨と格闘しながら少女がいたであろう場所を見やる。
が、そこに少女は無く、ただただ大きな緑色の球体が存在していた。
しかし球体といえどもつるりとした質感は見受けられない。何故ならそれは、全て地面から生えた茨の塊だったからだ。
『我が君、我が君、我が君、シキ!!ああああああああああ!!!』
何て絶望的な声だ、とフェルディナントは知らず眉を寄せた。あれはまるで、主を失った声というより――母親が、我が子を失くした声ではないか。
『吾が君!!くそ、やはり名の力か…!』
魔鳥が憎たらしげに吐き捨てた。
『おい、人間!』
魔鳥が心底忌々しいという風な声でフェルディナントに向かって怒鳴った。
『その剣をしまうのだ!吾が君は誰も傷つけぬし、誰も殺さぬ――貴様らが手を出さぬ限り、吾等もけして手を出さぬ!!』
「魔獣の言うことが、信用など出来るか!!」
『早く剣をお仕舞い、若造!!』
血を震わせるような一喝が、魔鳥とフェルディナントの間に轟いた。
魔鳥も彼も一瞬ぽかんと口を開け、呆然としてしまった。
『貴様も国に帰れば身分ある身であろう!無傷で帰りたくば、即刻その剣を仕舞え!!』
――これが、二百年生きた竜族の力か。
言葉にひしひしとした力を感じる。これはそう――フェルディナントが感じたことの無い、畏怖。
「――……」
フェルディナントは、勢いを弱くした茨の前に――剣を置いた。
すると、茨は急速にフェルディナントに興味を失ったかのように離れ、大地に突き立てた剣に絡みつき、赤子の手を捻るように、跡形も無く折ってしまった。
フェルディナントも武人である。その魂ともいえる剣が一瞬にして粉砕されたのを見て、口元を引きつらせた。
『我が君――ああ、我が君』
紫竜が卵に縋りつくように棘だらけの球を抱きしめる。
『どうか、どうか、返事を――もう、敵はいません。あなたを傷つけるものは、もうおりません』
最後は泣き出しそうな声だった。
それからしばし時を置いて、外側から徐々にではあるが茨が力を失い、しおしおと枯れていく。まるで玉葱の皮を細く剥いていくように、少しずつ球が小さくなっていく。
やがて、人一人入っていられるほどの大きさにまでなると、茨の隙間から、そっと小さな白い手が覗いた。
明らかに安堵の吐息を漏らした竜と魔鳥は、まるで卵から雛が孵るように目をきらきらと輝かせている。
やがて、小さな少女が、茨の隙間から僅かに顔を出した。
まるで邪悪さなど感じない、怯えて泣き出しそうな、そんな顔。
黒曜石のような、しかし星の如く輝く煌く瞳。
「――だれ?」
彼女の言葉はフェルディナントには理解できなかったが、何となく、拒絶されているのではないということだけは分かった。
そしてそのことに、奇妙な高揚を伴っていたことには、彼自身気が付きもしなかった。
恋ですね、分かります。
次回、彼が誰だか判明すると思われ。