ハリエニシダの森 3
「ミド、ガルド?」
聞き覚えのある名に、シキは混乱しそうな頭を抱えながらカレヴァに訪ねた。
間違いでなければ、それは北欧の神話にある世界の名だ。邪神ロキの子、大蛇ミドガルズオルムによって囲われた神代の大地。
『そう、女神ダナーンが御創りになられたこの大地こそミドガルドである。女神はとうに神のおわす御庭アースガルドを離れ、このミドガルドの大地、生きとし生ける者の地母として君臨しておられる。吾らは魔獣と呼ばれはしているが、吾らは自らのことを女神の一族、トゥアハ・デ・ダナーンと呼ぶ』
「トゥアハ・デ・ダナーン……」
どこかで聞いたことがある、シキは呆然としながらただカレヴァの言葉を聴いていた。全く耳慣れぬ音なのにどこか懐かしく身体に染み渡るのは何故だろう。
『ダナーン神は吾等の始祖、全ての精霊と魔獣たちの母であらせられる』
「神様が、ご先祖さま?」
『正確には彼女の子等の。吾等が先祖は、古フレスベルグと呼ばれる、神の庭を守り大罪を犯す者の魂を喰らう大鷲。その中で黒翼を受け継ぐカラドリウス氏族が吾等の一族である』
――神話が混ざっている。
シキは脳内の辞書を総動員しつつ、口元に手をやって呻いた。
シキの世界――地球と、ミドガルド。これが夢でないのならば、この二つはどこかでリンクしているのだろう。
「…さっき、私をワタリビトと呼んだけど」
『ああ』
カレヴァは、いつの間にか私にすぐ傍まで来て頭を垂れていた。
『世界と世界の間を渡った者を、我々はワタリビトという。吾が君は別の世から来たのであろう?ならば、ぬしはワタリビトである』
「……そういう人って、多いの?」
『然程。が、少なくもない。だがたいていの人間は、すぐ狼なり三頭獣なりに襲われるゆえ、元の世に戻った者がいる、とは終ぞ聞かぬ』
「…襲われ……」
厭な想像をして、シキは身震いした。
「――何で、私が……」
『きっかけなどは、吾も知らぬ』
「そう、だよね……」
きっかけというならば、あの腕以外に相違ないだろう。
あの腕の持ち主が何なのか、何故シキをこちらに引っ張りこむ必要があったのかはシキにも全く理解できないし想像もできない。
ぼんやりとしながら、シキは何度目かわからない、痛覚による確認を己の頬で試していた。
「…痛い……」
やはり別の世界か、そうなのか。そうだよな、そうでなかったらこんな馬鹿でかい山脈や喋るでかい鴉なんかいないよな、仕事が嫌過ぎて見た幻覚だとちらりと思ってたよ、あはははははは。
若干壊れ気味に笑って、そういえば、とふと感じた疑問をシキはカレヴァにぶつけてみる。
「吾が君、って、何で?」
初めて会話を交わした時から呼ばわれ続けた呼称は、馴染む一歩寸前で疑問に変わった。
『吾が君は、吾が君であるが?いや、吾が君であって、吾が君でもないというのか……吾にはあまり変わらぬことだが』
「だから、意味が解からないんだけど?私はそんな偉い者でもないし、貴方のことも知らないのに、貴方は私を知っているみたいだった」
カレヴァはシキの問いを聞くと、僅かばかり項垂れて、ぽつりと呟いた。
『……やはり何も、ぬしは知らぬのか』
「え?」
『吾は待った。待っていた……気の遠くなる程の時間を』
それはシキが今まで聞いたことが無いほど寂しげな、酷く虚ろで悲しい声だった。
『見つけた時、ぬしだ、と思った。命を終え、産まれ、また終え――それでも待った。既に確かな記憶は遥か遠く……ただ、ぬしだけを、吾が君と呼ぶためだけに輪廻を超えて』
カレヴァは更に深く項垂れると、膝の上に置いたシキの手にその額を擦りつけた。
冷たい羽毛の感触は、それでもどこかぬくもりを持っていて、どことなく懐かしいと思う気持が胸の内から溢れ出てくる。
『おそらく彼女を除いて――きっと、誰よりも、吾はぬしを待っていた』
――彼女?
シキが口を開こうとすると、いきなり地が轟くような雄叫びが木々を震わせた。轟々と、嵐の夜に吹き付ける風の音にも似た叫び。
『降りようぞ』
有無を言わせぬ調子で、カレヴァはその大きく逞しい足でシキの肩を掴むと、シキの様子も伺わず空中に躍り出た。
一瞬の滑空に、出すはずだった悲鳴も飲み込んで、シキは蒼白な顔で木々の間に降り立った。着地はゆっくりと鮮やかだったが、何の前触れも無く空中に放り出されるような感覚に陥らされたシキにはそんなことはどうでも良かった。
「こっ、こわっ、怖いわあああ!!」
『吾が君は怖がりなのか』
「私はカレヴァのように空を飛べるわけじゃないから!」
『…人間とは窮屈で不便な生物よ』
神妙に頷いたカレヴァに心底呆れつつ、シキは周囲を見回した。
先程の心を揺るがすような雄叫びはもう聞こえない。
――その代わり、シキのすぐ目前に、それはいた。
まるで小さなトラックのような大きさだと、シキは思った。
赤みの強い、深い藤の花の色をした羽毛のような、しかし鎧のようにも見える鱗は細かな傷だらけで、まるで木切れを彫ったように荒い線たちが目立つ。
それでも輝きを失うことの無い大きな鱗は大地を踏みしめる四肢を胴鎧のように覆い、逆三角形の優美な曲線を描いた頭から長く伸びた首と尾の先まで装飾品の如く整然と配置され、どこもかしこも美しい。
長い鼻先、その下の真っ赤な口からは象牙色の鋭い牙がずらりと並んでいる。
しかし何より優美なのは、陽光のような金色の瞳と、体躯と同じ藤色の大きな翼だった。
木々の間を駆け抜ける青い匂いの風が翼を揺すり、しゃらしゃらと涼しげな音を立てる。
――竜。
伝承の中でしか見たことの無かった竜が、シキの前にいた。
身動ぎひとつ出来ず、シキは竜の前で立ち竦んだままだった。カレヴァはすぐ隣の杉の枝に止まり、シキと竜を見下ろしている。
『……待ちかねたな、リーリヤ』
カレヴァが言うと、竜は、シキの傍までゆっくりと歩いてきた。
その長い首をおそるおそる伸ばし、シキの頬へ己の頬を当てる。硬い質感は、けれど金属のそれではなく、しっかりと生きている温度をシキに与える。
『――我が、君』
雨ではない雫が、シキの肩に落ちた。
――この、全く覚えが無いのに、懐かしい感覚は、何なのだろうか。
『長い間、お待ちしておりました――我が君』
竜の流す涙の温かさに、シキはたまらなくなって目を閉じた。
これでシキの従者(not人間)がふたり登場。あと一匹出る予定です。
3/19、ダナーン神の設定を一部変更しました。リサーチ不足で申し訳ありません。
6/18、気に入らなかった部分の文体を修正。
2011/2/15、ちょっと改稿。