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茨の王  作者: 山臣
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ハリエニシダの森 1

苦い葉を潰したような青い匂いと、その正反対に甘く熟れた香りにシキは目を覚ました。

「う、あ」

かすれた呻き声を吐いて、固まって軋む身体を無理矢理起こす。

白く霞む瞳を傷つけないように掌で擦ると幾分か明瞭になったようで、薄く瞼を開くと、深い青と緑が網膜に飛び込んできた。


――空、だ。


忙しない日々の中、見上げてもいなかった空は酷く澄んでいて、まるで現実感が無かった。

そして周囲の木々も、まるで針葉樹の森のように緑が濃い。何処までも何処までも続く暗い森は、光を拒んでいるようで冷たく、けれど柔らかくも見える。


しかし驚くべきは、シキの背後に構えられた芸術の如き巨岩の存在だった。

大理石のように白く、短剣のように先端は鋭い。それらが、一番巨大な物の周囲に一見無秩序に、けれど規則性があると理解できるストーンサークルのように配置されている。それはまるで何かを奉っているようにも見え、その証拠に錆付き鈍色の輝きを失った太い鎖が幾重にも巻き付いている。それらは時々風に揺られて、きい、きいと奇妙に耳障りな音を立てた。

大地に突き立った岩山。森の中にぽつんと聳え立つ剣のような山――どことなく奇ッ怪な光景であるとシキは思う。


辺りの下草は長く、あちらこちらにふさふさと繁った低木がある。その多くは、木全体に淡い緑色の棘がびっしりと巻かれたような、攻撃的な外見だった。黄色い花をぽつぽつと枝先に咲かせたそれは茨のようで、触れるものをきっと誰彼構わず傷つけるだろう。おそらく、ハリエニシダだ。

そのハリエニシダの隙間で、時折赤い実をつけている物もある。おそらくワイルドベリーだろうなとシキは頭の中の動植物図鑑を引っ繰り返しながら眺めた。かく言うシキの横たわっていた繁みもベリーのなっている低木で、観察した様子ではラズベリーに酷似している。

はて、日本国内にラズベリーなど自生していただろうかとシキは首を傾げた。

シキの住む町に、山ではなく平地の森などあっただろうか。というよりも先程は終電というからには夜であったはずで、まさか寝ている間に朝になってしまった訳でもないだろう。

今はしっかりと太陽も出ている、朝か昼なのだ。

「……うん?」

繁みから起き上がってしばし呆けながらつらつらと思考して――シキの顔が引きつった。


――何故、森にいるのか。




シキは終電に乗って着いた、駅のホームにいたはずなのである。

そしてつい己の不手際で本をホームと電車の隙間にぶち落とし、駅員に迷惑をかけたはずなのである。


そこでふと遭遇した恐怖体験を思い出し、シキはひっと肩を竦めた。

直ぐさま全力で周囲を見渡し、立ち上がる。


――いない。


あの赤い瞳も、生白い腕も、歪んだ笑みも、どこにも見当たらない。ただただ、暗いハリエニシダの森が広がるばかりである。

しばし首を巡らせて、深く長い溜息を零し、シキはその場にへたり込んだ。

とりあえずは周囲の繁みに隠れている様子も無く、物音も気配も無いから大丈夫だろうとシキはふんだ。剣道で鍛えた感覚の鋭さは彼女の自慢なのだった。

服から漂う青い草の匂いに顔を顰めつつ、不安を拭えぬまま、肩に掛けていたスポーツバッグを抱きしめるように抱え込む。



「――ここ、どこ?」



目下の問題は、当然の如くそれであった。





ここが何処であるのか、推測でも全く解からない状況というのは空恐ろしいものがある。

しかも、もしかしたらここが地球という天体ではないのではないかという危険性も孕んでいる。

つい先程シキが見上げた空には、月が何と二つも浮かんでいたのだ。

地球の衛星が月以外に存在し得たかどうかなどはシキは知らないが、おそらく無いに違いはあるまい。そもそも聞いたことが無い。しかも大きさが相当違う。

彼女が知っている月という天体にしては、それら二つの星星は遥かに大きいのだ。

シキが高校時代から使っている携帯電話に、電波は届いていなかった。しかも電池パックに相当のダメージを蓄積している彼女の相棒は、しばらくすると泣きたくなるような電子音を響かせてその動きを止めた。これでどれ程時間が経過したのかも分からなくなってしまい、シキは再び溜息を落とした。

これは夢か、と思い頬を殴ってみると頬と拳の両方を痛め、あの棘だらけのハリエニシダに手を突っ込んでみると手が傷だらけになったのでおそらく真実、現実だろうとシキは思った。

紙で皮膚を切ったようなじくじくとした痛みが手の甲を侵して、シキは口元を引きつらせた。





何となく、拓けた場所が妙に不安だったので、今シキがいる場所は元いた岩遺跡も見えない森の奥だ。奥というには周りが既に奥地だが、シキの観点から見ればそこは森の奥だった。

「…探すか」

安眠テディベアの如く抱えていたスポーツバッグを地面に置き、シキはごそごそと中身を引っ掻き回してみた。

特に用事は無いが、困った時の何かを入れておくのは彼女の癖だ。それが例え鼠捕りであろうと、麻縄であろうと、墨汁であろうと、入っている時は入っているものなのである。

とりあえず、現在位置、もしくは地理がどうなっているかだけでも調べられれば儲け物だ。――しかし、それにはまず、装備を整えなければならない。

「アーミーナイフ…まあ使えるか」

ナイフ、ノコギリ、ドライバーなど様々な物の代用になるアーミーナイフはシキの長年の相棒だ。

「救急セットは…正露丸、包帯、ピンセット、絆創膏ね、よし。筆箱、ノート、水筒は…よし、半分残ってる。鮭とばとビーフジャーキーか……おやじか。買っておいて食べるの忘れてたんだな、非常食扱いで」

時折自分に突っ込みを入れつつ、中身を確認していく。

「後は……おおぅ」

何でこんな物入れていたんだむしろ何故買ったんだと自分で自分に警告したくなる代物は、大振りのサバイバルナイフだった。

私はいつ何処にサバイバルに行く気だったのだ。うっかり職務質問など受けなくて良かった――家族や警官と気まずい思いをするのは極力避けたい事態である。

「まあ……これは役に立つな」

後はマッチとライター、手袋代わりの軍手、読みかけの週間雑誌といった程度だった。

軍手をはめ、スポーツバッグのチャックを確りと閉じて肩から掛けると、シキは立ち上がった。

大して緩くもないジーパンのベルトを確認し、素早くサバイバルナイフを下げる。立派な皮製の鞘は、ようやく使用してもらえる喜びでもあるのか妙につやつやと輝いていた。

最終チェックとして、シキは己の姿を見やる。

黒いジーパンに、同じ色のハイネックと灰色のカーディガン。カーキ色の厚手のアーミーコート。買ったばかりのスニーカー。繁みに転がっていたためか、葉や細かな枝、蜘蛛の巣などがついていたが、どこかが破れているだとかそういう不具合は無い。

コートのポケットに手を突っ込むと、定期入れ代わりに使用している、自動車学校で記念に貰った桃色のカードケースが出てきた。

役に立つとも思えないが、一応開いてみる。見慣れすぎた己の顔とその名前――大和、茨貴。

シキだなんて名前そのものが珍しいのに、茨だなんて不可解な字をよくつけたものだ。

シキ本人は珍しい故に気に入ってはいるのだが、如何せん奇妙で、学年最初の出席などまともに呼ばれた思い出が無いのが小さな傷だ。

「さて」

周囲を見回し、シキは一本の樹に目を留めた。

広葉樹もあるが、この森は――この一区画だけなのかもしれないが――圧倒的に樅や杉のような針葉樹が多い。太陽光さえ通さない濃い緑こそがこの森の冷たく薄暗い、しかしどこか懐かしい空気の元なのだろう。その樹も例に漏れず巨大な杉で、伐採用に枝落としもされていない太い幹は、瘤や太い枝の多い広葉樹ほどではないが登りやすそうではあった。

「腕は落ちてないかなあ」

田舎育ちここに極まれり、と内心シキは笑った。


ごつごつした木肌は存外に登りやすく、折れる心配もしなくて済んだので登ること自体は楽だった。あの聳え立つ岩の方が遥かに高所と言えるが、あそこを登れる自信はシキには無い。それに、ロッククライミングなど経験したことも無い。

久しぶりの重労働に息が上がるけれど、妙に楽しくもあった。昼も夜も休憩も無い、残業ばかりの生活でこんなに身体全体を動かしたことは無かったし、休日だって疲れて出かける気力も無い。童心を取り戻したような気がして、シキは嬉しかった。

――しかし、小さな疑問がささくれのように心に引っかかる。


ここは何処なのかか。

何故、ここにいるのか。

ただそれだけが、脳髄の端を占拠して手を止めさせたがる。


しかし終わりというのは物事を続けていれば来るものだ。

ようやくシキは細い梢の先まで辿り着き、目の前の光景に口をあんぐりと開けた。




杉は登れない自信があります。

あんなまっすぐな樹に登れるシキは凄いですね。それにしてもサバイバル。

2011/2/15 ちょっとつけたし改稿。

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