雪原に別つ 4
部屋に巡らせた障壁を解き、シキは立ち上がる。
「……ロザリー?」
少し大きめにシキが声をかけると、一拍間を置いて、ロザリーが部屋の扉を開けた。
シキは己の――というより、ヨルゲンの力を信頼している。故に、思ったよりも近くにいたらしい彼女に何かしら話を聞かれたかも、という不安は全く無かった。元々、彼女にも説明する予定はあるのだ。それが前倒しになった所で、シキが困ることは微塵も無い。
「締め出してごめんね。ちょっと、整理をつけてたから」
「いいえ」
ロザリーは首を振る。
元々は女官だという彼女は、他の御偉い方に仕える侍女を見たことはないが、あまり謙ることが無いようにシキは思った。
仕草や言葉は控えめだが、毅然としていて気品がある。立派な姓といい、元はそこそこ上位の貴族出身なのだろう。残念なことにシキはリシュタンベルジェル家を知らないが、知った所で態度や待遇を変える気はさらさら無い。ただ、女官として、侍女として傍にいてもらうだけである。
「……私は今、どういう扱いになってる?」
「要観察――いえ、要軟禁、と言えば宜しいでしょうか。とりあえず、目が覚めてもこの部屋からはお出しにならないようにとの宰相様からの仰せです」
「宰相……ゼル…じゃ、なかった。アンゼルム、って人か」
彼には悪いことをした、とシキは顔を歪めながら頭を掻いた。
あの時、ヨルゲンは邪魔をすれば殺すつもりで手を出したのだ。つもり、というより、アンゼルムを殺すことは決定事項だった。理性を失い、本能と狂気だけになってしまっている彼には躊躇も無く、慈悲も無く、とても容易いことだ。丁度良くコンラートの割り込みがあったことと、運良く暗殺犯が尻尾を出してくれたことが重なり、ヨルゲンの興味は薄れてくれた。
「まあ、あれだけやらかしてしまったからね……そうもなるだろうさ」
惨劇を作り出したのは、紛れも無くシキだ。実際はヨルゲンがやったことだが、他者にその違いが判るはずも無い。
『あの男は好きません……我が君の首に傷を負わせました』
『我輩も同意見だ。いささか攻撃的で短絡的に過ぎる』
不機嫌そうにリーリヤとカレヴァが唸るのを聞き、シキは苦笑した。
「ふたりにも通じるものがあると思うけどなあ。ふたりだって、私が曲者に襲われそうになったらああするんじゃない?」
『威嚇など手緩いわ』
『首を掻っ切らねば気が済まん』
「ほら、余計物騒だ」
シキは笑う。が、再びあの無表情に近いそれを、僅かに苦しげに歪ませた。
――狂っていた。
一遍の躊躇も迷いも無い、ただ殺すためだけの殺戮。
楽しくはない、嬉しくもない、悲しくもないし、嫌でもない。
彼は確かに嗤っていた。しかし、可笑しくて笑ってなどいなかった。
彼は、痛烈に、叫ぶほどに――独りに、なりたがっていた。
そのためには、盾突く者、斬りかかる者、関わろうとする者、邪魔をする者――全てが、要らなかった。
だから、殺してゆくのだ。消してゆこうとするのだ。
ただひたすらに、独りを望んで。
ロザリーは、考え込んでしまったシキを見やる。
眠っている間は身動き一つ無く、本当に死んでいるようだった。稚い顔で眠り続けていた少女は、今、酷く憂いを帯びた顔をしている。先程の自嘲めいた色を含んだ発言も、まるで姿形とちぐはぐで、つり合いが取れていない。
ロザリーは、シキを優しく控えめな少女だと思っていた。実際は自分よりも年上なのだが、この世界の常識が根こそぎ抜けている彼女は子供のようでさえあり、実質一日も傍に控えてはいないのだが、そんな性質を好んでさえいた。
なのに、これは。
この翳りは、何なのだろう。
一週間寝たきりを続けたシキの頬は元々のふっくらとした肉が削がれ、顔の線は男のように細くなってしまっている。全体的に女性らしい肉が落ち、少女と言うよりはむしろ少年のようだ。羽織られた外套の隙間から覗く腕も、元々が細いのに更に枯れ木の様相を呈していた。物言いさえ、どこか最初と違って男性的で、投げやりなように思える。
だからこそ余計に、シキの全体に射す翳りが露になっている。
――まるで、違う男が目の前にいるような錯覚をロザリーは感じた。
「……リーゼロッテ様や、フェルディナントたちはどこに?」
床に目をやり、傍らに寄り添うリーリヤたちを撫でながら、シキは唐突にロザリーに問う。
「――今、は、皆様方はばらばらかと。女王陛下は執務室にいらっしゃるでしょうし、軍にいらっしゃる殿下方は兵舎か練兵場――宰相殿は自分の執務室だと思われます」
「ありがとう。――渡りをつけるには、やっぱりリーゼロッテ様、からかな」
言うが早いか、シキは、右足の爪先だけを上げると、たん、とその場で踏み鳴らした。
すると、爪先から僅かばかりのところで、石の床から細い茨が一筋だけするりと伸び生えてきた。そのまま茨はシキの目の高さぐらいまで成長すると、先端に大輪を予感させる黄色い蕾を一つだけつける。
それに驚いたのは、ロザリーだった。
正直な所、シキの茨には血の記憶しか無い。元々魔法が使えないという話でもあったし、予想外の出来事にロザリーが一瞬身体を強張らせると、シキは気が付き、大丈夫だよと事も無げに笑った。
「さあ、咲きな」
シキの言葉に反応し、大きな黄色い蕾は、まるで映像を早回ししたようにざわざわと自身を震わせて回転しながら花弁を開いた。
「っ、」
ロザリーが一瞬息を呑む。
――その花の中央に嵌められていたのは、生々しく光る目だった。
占いに使用されるような水晶玉に似た大きさだが、色は薄く白濁しているし、何より黒い虹彩がある。きょろきょろと花弁ごと動く目玉をシキはそれなりに可愛らしいものだと思ったが、ロザリーの方は違うようで、少し落ち込んでしまう。
シキは躊躇無く、花目玉に触れた。
その瞬間、目玉はすっと白濁が抜け、その透明な球の中に暗闇を映し出した。同時に、目玉と花弁の境目から細い職種のような茨がずるりと這い出してきて、シキの手に絡み、肌を傷つけることなく袖の中に消えてゆく。シキは目を閉じ、意識を集中した。
「……執務室は、何階、だっけ。ここより上なのは、確かだし……警備の多い所……そう、そこだ」
ロザリーの方からは花目玉の様子は見えず、特に変わりはない。
しかしシキの頭の中では目まぐるしい勢いで映像が切り替わっていた。
そこは廊下であったり、どこかの部屋の中であったり、侍女たちが固まり何かの話をしている様や、兵士たちの直立不動の姿勢。実に様々な景色が瞼の裏に浮かんでは消えていき、目当てのものを探すした。花目玉の根は固い石の床深くに潜り込み、対の花目玉を床や壁、天井から発芽させては景色を取り込んでシキの頭に直に叩き込む。言うなれば、シキは画像を処理する脳髄であり、花目玉はそれこそ目、城に潜る茨は視神経だ。
「――ああ、いた」
あの気高い女性の姿を、シキは捉える。
彼女はこの賓客室よりも三階層上の、例の執務室ににいた。
シキがぱちりと瞼を開くと、腕に絡む茨はひとりでに解けて、また花弁の内に収まった。
始まりと同じようにまたシキが床を、たん、と踏み鳴らすと、花目玉は爬虫類の瞼のような膜を下ろして目を閉じた状態にし、床に溶け込むように消えていった。
「ロザリー、――そうだな、私の目が覚めたことを、ツェーザルに伝えてくれないかな。ああ、ツェーザルは下の階だね。今はもう練兵場に続く回廊あたりにいる、また上に来るのかもしれない、階段を上ってた」
「どうして、それがお分かりに?」
「……見たからね、分かるさ。魔術は、そういうものなんだね」
「全く、これは酷いよ。とても便利で、楽で、強力で――手に余る」
シキは自嘲めいた笑みを浮かべた。
己で強く思い浮かべるだけで、魔術は発動する。本来なら呪文を唱え、言葉の力を借り、己の魔力で発動させるものを――順番を間違えばすぐ自滅してしまうこともあるそれを、自分はこれまで使ったことも無かったのに、もう使いこなしてしまっている。
これは、身の内で眠るヨルゲンの力だ。昏く、毅く、どこまでも地を這うような、しかし鮮烈な力。
シキは思う。彼の崩壊の原因は、きっとこの魔力の強さにも一端がある。人が負うにはあまりに――これは強すぎる。持ち主すら、滅ぼしかねない程に。
「私は、今からリーゼロッテ様に事の次第を説明しに行くよ。ロザリーは、ツェーザルに」
クローゼットから衣服の一式を抜き出し、シキはまだ少し覚束ない動きで着る。
途中でロザリーが手伝ってくれたので、思ったよりは楽に脱ぎ着することができた。
「フェルディナント殿下には――いえ、その前にシキ様はこの部屋からお出にはならないようにとの仰せが……」
ロザリーは少し困ったように眉を寄せた。
「……まあ、確かに、出たら混乱するだろうね。どの程度情報が場内に回ってるのかも判らないし」
「あの場に居た者たちには緘口令が出されております。ただ、刺客の話は出回っておりますが」
「どうかな、人の口に戸は立てられない……ま、それなら部屋を出ずに移動すればいいだけさ」
「え?」
ロザリーは首を傾げる。部屋を出ずに女王の所へ向かうとは、どういうことだろうか。
シキは
「ロザリーは、気にせずツェーザルの所へ。私は、ここから行くよ――そうしたら、ロザリーもリーゼロッテ様の執務室へツェーザルと一緒に来ていい。フェルディナントたちは、執務室に一緒にいたからね。リーリヤたちも、外から来な」
「シキ様、」
ロザリーの疑問を感じた声には答えず、シキは目を閉じる。
ヨルゲンの魔法は、泉から勝手に沸いてくるようにシキは思い出せる。流石に呪文の詠唱が必要なものも、ごく少ないがあるにはある。長く唱えるもの、反対にほとんど要らないもの。
今回のそれは、実質必要が無いものだ。しかし、いきなり行使してロザリーを驚かせるのも悪い気がして、わざと何をしているか理解できるように明確な発音でもって魔術を使う。
【 開け、旧き蛇の円環
長き尾を解きて仮初の王を迎え
契約の地へ導け 】
ゆらりとシキの髪が風に煽られたように揺らめき、煙が途切れるようにその場で掻き消えた。
ロザリーは目を剥いたが、そこにはもう彼女のふたりの魔使しかおらず、それも開いた窓からすぐに宙へ舞って去っていく。
「――……」
ひとつ息を吐いて、ロザリーは踵を返した。
彼女の主が言ったように、こちらへ向かってきているだろう騎士を探しに。
シキが姿を現した瞬間、一瞬でその場の空気は凍りついた。
書類に署名をしていたリーゼロッテはおろか、その場に護衛として立っていたフェルディナントやコンラート、執務の補佐に当たっていたアンゼルムも――誰も彼もが、いきなり煙のように現われたシキに注目した。
少し高い位置から飛び降りてきたかのように床にふわりと着地し、辺りを見回す。いくつもの視線に、居心地悪そうにシキは俯いてしまう。見知っている者の何もかもが敵と思えてならないのは、【彼】の臆病さが精神に滲んでいるからだろうか。
「シキ!!」
一番最初にその場の空気を破ったのは、フェルディナントだった。
しかしフェルディナントがシキに駆け寄ろうとすると、コンラートがフェルディナントより前に出て、彼を左手で制する。問うようにフェルディナントがコンラートに視線を送るが、コンラートは全く微動だにしない。
「コンラート、」
「……お前は今、冷静に、なれていない」
ぐ、とフェルディナントが言葉を噤む。
「……まずは、色々とご迷惑をおかけしたことをお詫びします」
シキはぺこりと頭を下げた。
視線を受けたくなくてそのまま頭を上げたくない衝動に駆られたが、無理矢理にでも背を伸ばす。リーゼロッテの方を向くと、リーゼロッテは手を止め、鵞ペンを置いたところだった。すぐに彼女はシキの方に向き直り、その強靭な意志を感じさせる瞳から視線をシキへ送る。が、気圧される所か、シキは何も感じなかった。
見る者が見れば、彼女の視線は凶悪だ。虚偽を許さず、何もかもを暴いてしまわれそうになる、武人のそれ。しかし、今のシキにとって彼女はただの女性でしかない。その役職ゆえに尊敬も出来るし、女性の魅力を最大限に纏うリーゼロッテは、尊ぶべき存在だ。しかし、やはりその役職のために、シキは彼女を好きになることはできない。――シキの中の【彼】が、王というものを苛烈なまでに憎んでいるが故に。
「……リーゼロッテ様は、お怪我はありませんでしたか」
「――ああ、私には掠り傷一つも無い。ようやく目覚めたようで安心したぞ、シキ」
そこまで言って、リーゼロッテはふと疑問に思う。
――名を呼ばれた。
リーゼロッテが最後に名を呼ばれたのは即位前、もう遥か彼方、昔のことである。即位後は女王様、女王陛下と呼ばれることが主で、名自体を呼ばれることはほとんど無かった。そもそも彼女は生まれた時から皇太女として定められ、己の家族以外から名前を呼ばれる機会が酷く少なく、ただ、殿下と呼ばれれば己だと、そう思っている時期もあったのだ。
しかも、この眼前の少女は、初対面からはずっと女王様、陛下、と謙った物言いであったのだ。違和感を感じるのも尤もである。
そのことに耳聡く気付いたのはリーゼロッテだけではなく、傍らで身構え、今にも愛用のレイピアを抜きそうなアンゼルムもだった。
「……貴様、陛下を愚弄するか」
噛み付きそうな凶相に、リーゼロッテは溜息を吐く。
「構わぬ、アンゼルム」
「しかし、この娘はあの時陛下を傷つけようとしたのですよ!」
そんなことを思った事実は一欠片も無いのだが、シキはあえて黙る。何も知らぬ他者が履き違えるのは覚悟の上だ。
「……痛めつけられたのを恨むのは解かるが、シキの説明を聞いてからでも遅くはないであろ?――我々は刺客が吐くべき言も失い、何もかも解せぬまま、一節が経つのだからの」
暗に非難されているような気がして、内心シキは溜息を吐いた。
あの、気分の悪い毒の匂いを撒き散らしていた二人が刺客である、ということはシキも判っていた。毒の匂いに中てられて目覚めた【彼】だって、判別はしていたはずだ。が、あの狂った【男】に、刺客は生かして捕らえるべき、という配慮が思いつくはずも無い。ただ自分の目の前を這う害虫を叩き潰したかっただけで、【彼】は他者のことなど何も考えてはいなかった。
「……リーゼロッテ様の言う通り、お話しますよ。あの時の事、眠っていた間、――分かったことを」
シキは窓辺に目をやると、不意に目を細めた。
「……【 開け 】」
その瞬間、高い天井に似合うほどの高さと大きさを抱く美しい窓の鍵と押さえが外れ、音も無く、ひとりでに開いた。
バルコニーに続く窓からは、待ちかねたようにぐるぐると喉を唸らせる宝石のような鱗を持つ紫の雌竜と、死の使いとも評される巨大な漆黒の翼で滑り込んできた魔鳥が部屋に入ってくる。彼らは真っ直ぐシキへ向かい、その傍らに侍った。
「……私が説明できることは、多分…とても、少ないですが」
リーリヤの首を撫でながら、シキは呟く。
「話しますよ、――『茨の王』のお話を」
――あの、雪の荒ぶ広野を想う。
助けるよ、兄さん。
あなたがもう、独りで傷つかなくてもいいように。
あなたがもう、狂わなくてもいいように。
だからわたしは、今はあなたをおいてゆく。
リーゼさんの言っている一節、というのは現実での一週間(7日)です。
世界ミドガルド(世界は世界であって、神様のすむ世界と人間のすむ世界を分けて考えているだけです。神の場所はアースガルド、人の場所はミドガルドで、世界そのものに名前はありません)では、公暦が一年間420日で、ひと月は五節(5週間)、現実でいう「月」は色分けで名前はあります(白の月、黒の月など)。
まだ出てこなくていい設定ですが、後々作中で出てきます。メモ代わり…
次こそ説明できるといいな…orz
11/23、呪文にルビ振ってましたが取っ払いました。
そして文法ご指摘ありがとうございましたあああああ
戒厳令×→緘口令○ です。アホですね、俺は死ねばいいと思います。
できるだけ厨二病にはならないような呪文を考えたつもりですが、これはちょっとと思いましたら、ご指摘していただけると幸いです。