狂乱の晩餐会 5
闇が詰まっているようだと、フェルディナントは思った。
シキの顔にさっと射した影は、まるで夜に似る程濃かった。その中で浮き上がるような、上目遣いの、やけに見開かれた瞳は元々の黒瞳が血の色に覆い隠されてしまっている。
具合が悪そうに頭を数度振り、かと思いきや無垢そのものの目で傍らの雌竜と肩に乗る魔獣とを見やる。数度瞬いて、今度はリーリヤから離れてふらりと前に歩み出た。
顔は伏せられたままで、背も丸まってしまっているために、小さい身体が余計に小さく見える。
既に跡形も無くなってしまった毒酒の――シキの意見を取り入れるとすれば、だが――痕跡を無表情に見つめ、シキは不機嫌そうに眉根を寄せた。口元を歪め、ただ呻く。
『我が君……我が君、どうか、返事を!』
追い縋るようにシキの左腕にその鼻先を擦りつけ、叫ぶリーリヤを、シキは振り返らない。
シキの肩の上で戸惑うようにカレヴァが羽ばたき其処を離れても、風や羽根が頬を荒々しく撫ぜても何の反応も返さない。
何者も映さない瞳はただ見えない闇だけを映していて、見ているこちらの背が凍りそうになってしまう。
この一日、フェルディナントが見つめたシキの面影はもうそこには全くと言っていい程見られなかった。
外見は幼いが、成人しているという少女ではない。
大人びて、しかし年相応に感情も見せる、彼の腕に大人しく抱かれる少女ではない。
もっと根本的に、人間かと聞かれると、是とも言えない何か。
その、ひとではない彼女の瞳が、ゆらりと揺れて――
リーゼロッテを、見た。
「………っ」
ひゅ、と女王の息を呑む声がフェルディナントの耳に届いた。おそらくはツェーザル、ロザリーにも聞こえてはいるだろうが、フェルディナントは気にも留めなかった。
母親として、玉座に座るものとして、いつでも毅然とし強者たらんとする彼女のそんな声を聞いたのは産まれて初めてだった。彼の記憶の中の母王は絶対的な支配者であり、間違っても、こんな少女に恐怖を感じるようなそんな女ではない。しかし、現にリーゼロッテは怯えている。震えるでも泣くでもないが、確かに怯えているのである。
女王を見る瞳を、ほとんどシキの真前にいるフェルディナントも見ることができた。
困惑。
疑念。
憧憬。
羨望。
込められているであろう感情のおおよそはそんな所であったが、ありとあらゆる相反する感情が鬩ぎ合い、打ち消し合い、酷く複雑な色を――その血色の瞳に宿していた。
「……ジーク、リンデ?」
囁き歌うようなシキの声が、緊張で無音の広間に響き渡る。
そこに動くものは存在せず、主を守るための兵士も、騎士も、王族すらも無音の内に閉じ込められたまま、動きを止めていた。
しかしその中で、視線を向けられたリーゼロッテとフェルディナントだけがその呼び名に肩を震わせる。
リーゼロッテの方は分からないが、フェルディナントはシキの紡いだ名に、恐ろしいまでの懐かしさを感じたからだった。
「……ジーク…」
囁く声に、感情は窺い知れない。
「シ、」
フェルディナントは思わずシキに向かって手を伸ばしていた。
しかしその硬い掌が彼女の肩に届くかと思われた瞬間、ぐる、とシキが瞳だけをフェルディナントに向け、ぼそりと何事かを呟いた。その一瞬、心臓をぎゅうと握り締められるような胸の痛みがフェルディナントを襲った。彼が経験したことの無い、焼け付くような、破裂するような鋭い痛みに、フェルディナントは床に膝をつく。
「っぐ、ぁっ…!」
「フェル!?」
ツェーザルが駆け寄りフェルディナントの傍に膝をつくと、興味を失くしたようにシキは彼から視線を外した。
元の黒瞳など影も形も無い紅い瞳が、再びリーゼロッテを捉える。
「……君はまだ、そこにいるのか」
哀れむような、そんな声だった。
血と唾液に濡れた手を、シキはリーゼロッテに向けて伸ばす。
――ィン。
グラスを叩いた余韻のような金属音が響く。
シキの手は女王に届くことなく、空を掻いた。
昏い目でリーゼロッテを見つめる彼女の喉元には、男の腕ほどの幅がある大剣と、少女の指ほど細く鋭い剣が前後から突きつけられていた。
正確に言うなれば切っ先ではなく、その刃の中ほどがシキの細い首に触れるか触れないかの危うい境界を彷徨っている。まるで鋏に捕らえられているようだと、何事も出来ず立っているしかできないロザリーは思った。
大剣を掲げているのは褐色の肌の男――赤花師団司令官のコンラート・フュルスト・バッハシュタインであり、細剣――レイピアを直ぐにでも食い込ませそうな勢いで彼女の首に当てているのはフラフィア宰相であるアンゼルム・パァルツグラーフ・ユーベルヴェークだった。
「……陛下から離れろ」
今にも獲物を食い殺さんとするような凶相で、アンゼルムが唸った。コンラートは何も言わないが、ただじっとシキの動向を探っている。二人が二人とも、シキの動作如何によってはいつでもその刃を血で濡らすことを厭うてはいなかった。
しかし、そんな状況であってもシキの瞳は揺らがない。
ただ、見開かれた目はリーゼロッテを見つめている。
――正確には、リーゼロッテを通した誰かを。
「……ジーク」
「貴様、いい加減に……!」
「ジーク、きみは」
「 ―― ど う し て ぼ く を 殺 し て く れ な か っ た ? 」
絶望に満ちた声だった。
死の底を這いずるような嘆きに満ちた、少女のものなのに随分と低い声が、シキとリーゼロッテたちとの間に響く。
「お前は……何者だ?」
リーゼロッテは気丈に、シキに――シキの姿を借りるなにかに問いかける。
「ぼく……?ぼく、が、誰か…?」
落ちんまでに見開かれた目から、ぼろり、と雫が零れた。
頬を伝った雫はシキの首にひたりと当てられた剣にも落ち、それを目前で見たコンラートは僅かに眉根を寄せる。見たことが無いほど透明な、しかし負の感情を溢れるほど詰め込まれたそれは、逆にこちらの気が狂ってしまいそうな美しさがあった。
「ふは、」
しかし突然、自らの作り出した静寂を、シキは笑い声によって破った。
「っははは、は、ひひっ……く、あはははははっ」
狂いの笑い声だと、フェルディナントは思った。
「ひひっ、くふ、はは」
天を見上げる、その口元以外に、床に蹲るフェルディナントには見えない。歯を剥き、塞き止める物を持たない狂った笑い声は広間に響く。
この世に属さない、ひとのかたちをした怪物の、笑い声が。
『あ、』
人の言葉ではない、力持つ獣の言葉がフェルディナントの耳に届いた。次いで、ぽた、と石の床に水が落ちる音を聞く。
和らいだ胸の痛みをおして彼がリーリヤの方へ顔を上げると――紫の雌竜は静かに泣いていた。
硬い鱗の隙間を透明な涙が伝って零れ落ち、床に小さな小さな水溜りを作る。
『………吾が君!』
カレヴァが叫ぶ。半ば慟哭のようなそれは、広場に響きこそすれ、シキの耳には届かないようだった。
『見ろ――吾等を!』
シキは笑い続ける。
今、彼女の世界には誰もいない。
何もいない。
ただ、空虚な絶望だけがその瞳に満ちている。
『見ろ、……見てくれ、吾が君』
カレヴァの瞼が伏せられる。
隠された紅い輝きは、今のシキと同じ色を抱いているのに全く違う印象がある。
『――どうして、吾等を見ない。吾等はいつもぬしの傍にあった………吾等にはぬししか要らなかったというのに。離れぬのに、決して裏切らぬのに、何故――耐えられぬくせに、いつも独りでいようとする!』
黒い魔鳥の叫びは、真実、嘆きそのものだった。
『吾等では、足りぬか――吾等が、傍にいるだけでは………駄目なのか』
急に笑うのを止め、シキはぐるりと広間の隅に顔を向けた。
固定された二つの剣が、急に動いたシキの首を浅く傷つける。突然のシキの動きにアンゼルムが身じろいで剣をシキから僅かに離した。
その瞬間、予測出来ないほど素早い動きで、アンゼルムの病的なほど細い首をシキは掴んだ。顔だけは広間の隅へ向けられたままだが、その右手に込められた力は少女のものではなく、成人した男の全力に匹敵するものだった。
「ゼル!!」
あまりの疾さに反応の出来なかったコンラートが、事態を把握して叫ぶ。
しかし彼の、少女を斬らんとする剣の軌跡は完結することなく終わりを迎えた。構えた剣がシキに向かって振り下ろされる瞬間、シキは笑った。
コンラートの方などまるで見てもおらず、喋りもせず、魔法を使用するような所作も無いのに――コンラートの強靭な剣が、真っ二つに弾け折れた。
一瞬、コンラートは混乱した。普段は、過ぎるほど冷静な男である。しかし何の圧力も、衝撃も感じず、剣がまるで自分の意思で持って弾けたように、爆ぜたのだ。訳が分からなくなるも無理は無い。
アンゼルムがシキに首を絞められたのはほんの一瞬で、コンラートの剣が弾けると同時にその首も解放された。直後、どんと勢い良く押され尻餅をついたアンゼルムは、潰されかけた気管を押さえげほげほと咳き込む。一瞬と言えども、その負荷は大の男一人を涙目にするには十分な痛苦だった。
重たい金属の破片が床に落ちる耳障りな音にもシキは興味が無いようで、にたりと歪めた笑みはさらにえぐみを増す。
「――おまえたちか」
見開かれた紅い目はたった一点を見つめ――驚愕に目を見開いていた、一組の男女を捕らえた。
ああああああああ進む気配が見えないいいいいいい(落ち着け)
次で終わるはずです……次で……
タイトル通りかと云うと頷けるような頷けないようなorz
感想を送ってくださった方、本当にありがとうございます!
すっごい嬉しいです・・・本当泣けます
すごく好き勝手進めてるテンプレ話を読んでくれるなんて、皆様に感謝してもし切れません。