炎の都へ 6
隙間無く敷き詰められた石造りの廊下にシキたちの足音が響く。
こつこつという音は冷たいが、それも等間隔に設けられた明り取りの窓から差し込む柔らかな光によって相殺される。
あの森の肌寒さと沈んだ色合いでそうとは感じなかったが、どうやら季節は春らしい。冬が明けたばかりの、まだ冷たさの残る淡い春。石造りの城は酷い寒さだというが、言われるほど酷いとはシキは思わなかった。温かくはないが、冬風吹き入る身を切るような寒さ、というものは感じない。全く穏やかであった。
「ひっ!」
――時々、引きつった息を呑む音が聞こえる他は。
廊下の角を曲がったり階段を上がったり下がったりすると、その度リーリヤの姿を認めた女中たちが競って腰を抜かしかけるので、フェルディナントやツェーザルは勿論、シキもいい加減うんざりしていた。
確かにリーリヤは、通常の感性を持つ一般人であったなら恐ろしさの対象である。人に仕える下等種の翼竜でさえもそうなのだから、魔獣であるリーリヤは相当であろう。カレヴァはといえば、一番に目に入るのがリーリヤなので然程目立ってはいない。しかし彼も普通の獣とするならば相当に巨大な分類であるから、やはり驚かれる。
窮屈そうに羽根を折りたたみ、時折壁にぶつけてしまうリーリヤの姿が哀れにも見え、シキは少し眉を寄せた。
「私たちはどこに行くのですか?」
フェルディナントはちらりとシキを見やると、また目線を前方に戻した。ツェーザルは元から視線を逸らしていない。
「王の執務室だ」
「――王?」
何を好き好んで、王に会いたいというのか。
シキは強烈な後悔が身を苛むのを感じた。
理由は解からないが、それは酷く嫌だった。それこそ、すぐリーリヤに背に跨り窓を破って飛び出してしまいたいくらい。
「行かない、というものは」
「却下だ」
「……ですよねえ」
嗚呼いっそ、この男の頭をリーリヤの顎で噛み砕いてしまえれば。そんな恐ろしい想像さえ出来てしまうほどには、シキは嫌なのである。
いつの間にか石畳ではなく真紅の絨毯が敷かれた廊下に来ていた。ここまでどうやって来たかシキはさっぱり憶えていないが、記憶にある限り、今までに歩いたどこよりも人がいなかった。壁や天井の装飾も、色味や材質は華美ではないが見事なものだった。モチーフとしてはアーチが多い。白い石の柱が並び、天井に向かってアーチを描き、所々植物のモチーフも掘られているようだ。城というよりは、豪奢になり過ぎないが美しい中世の教会や礼拝堂めいた雰囲気を持っていた。
森を歩いた土塗れの靴で踏んでいいものかシキは気になったが、騎士ふたりはずんずんと先を進んでいく。故に、シキもそれに続く他無かった。
石畳の廊下とは雲泥の差がある広さの廊下で、リーリヤはようやく翼を伸ばせたようだった。と言っても、羽ばたくことなど出来はしないのだが。
「ここだ」
フェルディナントに差された場所は、小さくはないが然程大きいとも言い難い観音開きの扉だった。重厚そうな黒い木の扉。取っ手といい表面といい、金と銀の装飾が眩いが、悪趣味だと感じるほどではない。思うに、見た目の華々しさよりも機能美を追求した建築なのだろう。好ましいものではあるが、シキの今の気分を打開するにはいささか力不足でもあった。扉の両側に待機した、帯剣し、槍を手にした妙に威圧的な直立不動の兵士たちもそれに拍車をかけていた。
――嫌だ。
嫌だ、嫌だ、とんでもなく嫌だ。
権力そのものと見えるなど、正気の沙汰であるものか。
そんなもの、冗談じゃない。
「緊張などしなくてもいい」
渋い顔をして止まってしまったシキを見てフェルディナントが語りかける。
これがそう見えたなら自分も大した役者だと、シキは嘲笑した。
これは嫌悪だ。
理由など無い。
ただ、人の上に立つ者が煩わしく、憎かった。
まるで、心の底から沸き立つように。
――私は、どうしてしまったんだろう。
シキの心が現状を拒否をしても、時間は待ちはしない。
フェルディナントが獅子の形したノッカーを4回鳴らした。その音だけが静寂の満ちる廊下に響き渡って、妙に耳障りだった。
「入れ」
低く通る、太い声がした。
しごき屋で知られた高校時代の教師がこんな声をしていたとシキは思う。通常の生活で、常に大きな声を出していると知れる声だった。
それにはいともうんとも返さず、フェルディナントは扉を開けた。ぎい、と軋む音にシキは顔を顰める。
中にいたのは3人だった。
一番手前にいた、黒髪を短く刈り込み、髭の剃り跡も新しい中年の男はどうやら騎士のようだった。フェルディナントと同じ格好をしているが、フェルディナントを逞しいという言葉で表すならば、彼は剛健頑健といった言葉が似合いだ。この中では一人だけ褐色の肌をしている。おそらく入室の際の声は彼であろうとシキは予測する。
次にその奥、樫の木の磨かれた机の前に佇む男は随分と優男風であった。しかし体躯が華奢なだけであって、その面は凶悪そのものであると言ってもいい。ぎょろりとした三白眼は元より、細い眉、無表情に引き結ばれた唇。こけかけた頬には血の気が無い。はっきり醜男と言えそうなものだが、しかし全体を見るとそうとも言えず、どこか鋭さを含んでもいて、奇妙な男だ。
「帰ったか」
その影から、凛とした女の声がした。
少女などではない、熟れた女だとすぐわかる、しかし甘さなど含まない声だった。
すっと凶相の男が身を引くと、きらきらとした光がシキの視界を奪った。実際には視界を占めるのは一部分だったが、背後の巨大な硝子張りの窓から差し込む光と相まって、そう感じてもおかしくは無かった。
繊細、という種類ではない。が、豪放、という部類でもない。あえて言うならば闊達。そういう部類の美を女は持っていた。年齢はよくわからない。
光の所為で金にも見える銀の髪がさらりと揺れる。高く結われた髪には牡丹に煮た真紅の花が一輪飾られていて、それに合わせたらしい紅玉と翡翠の連なる飾りが頭を彩っている。レースなどはあまり見当たらないすらりとした印象のドレスがよく似合っている。
造りのいい豪奢な椅子に深く腰掛け直し、彼女は持っていた鵞ペンを机に置いた。
「黒花師団司令官、フェルディナント・アマデオ・ホーエンツォレルン少将――只今帰還致しました、陛下」
「同じく黒花師団参謀長、ツェーザル・ブルクグラーフ・バルヒェット中佐。御前に参上致しました」
略式である敬礼――右の拳を左胸に当てるそれを行い、二人の騎士は彼女を見据える。どこか挑むような眼差しでもあった。
陛下、という敬称にシキは目を向いた。
やはり、という気持ちは見た時にはあったが、改めて聞くと納得する。
彼女こそが、中立国フラフィアの現国王、第47代国主――リーゼロッテ・ニコラ・ホーエンツォレルンなのだった。
「ご苦労であった。――さて、ツェーザルからもう話は聞いておる」
見れば、彼女の方には小さな隼が乗っていた。が、その目は異様に赤い。
「可愛らしい魔使を連れておるの、ツェーザルよ」
「は、我がバルヒェット家に古くから依り憑くものであります」
「バルヒェットは魔術師の血族であったな。よくやってくれた、例を言う」
「王命によりますれば、当然のこと」
「ふむ、健気なこと。――そこな娘よ」
急に彼女の視線がこちらへ来たのに、シキは一瞬呆然としてしまった。まさか自分に話を振られるとは。
「は、はい」
「私はこのフラフィアの王、リーゼロッテ・ニコラ・ホーエンツォレルンとゆう。女が王で驚いたか?」
くすくすと笑う。存外少女らしい仕草であった。
「いいえ。……偉大な女王がおられたと聞いていましたから。それに、私の世界では女王は珍しくはありませんでした」
ヨーロッパの支配者であったイギリスは近年は女王の多い国だ。それにオランダ、北欧にもいることはいた。
「ほう、それは面倒が少なくて良いものだな。――ヴァルブルガ様、あの方は傑物であられたものだ。私も見習いたいものよ。して、その魔獣たちはそなたのものか」
「はい、一応は」
「何とも美しいものよ。竜も鳥も、毒を含まぬ美しさというものは素晴らしい」
ほんの少しだけリーリヤの気分が浮上したらしい気配がシキの掌越しに伝わった。褒められるのは嬉しいらしい。そこに世辞も入っていなかったようだから尚更だ。カレヴァはあまり興味は無いようで、知らんぷりを決め込んでいる。
「陛下」
凶相の男がたしなめるように口を挟んだ。
「そう急くな、アンゼルム」
うんざりしたような顔でリーゼロッテは手を振った。
「シキと言うそうだな、娘よ」
「はい」
「滞在を許す。采配は追って下そう――異界からの流浪の身、今はゆるりと城で休まれよ」
「陛下!」
悲鳴のような大声に、リーゼロッテの肩の隼が機嫌が悪そうに目を細めた。
「五月蝿いぞ、アンゼルム」
「五月蝿くもなります!」
目を見開いた凶相の男――アンゼルムは、怒りと驚きの混じった奇妙な顔で彼女に抗議し出した。
「何を考えておられるのです!あのような得体の知れないものの滞在を許すなど、御身に危険がありましたら」
「何のために近衛やお前たちがおる」
「陛下が進んで危険に身をさらされるのでしたらお庇いするにも限度があるのです!」
「アンゼルム、私は面倒なことが嫌いなのだ。国家間の姑息で陰険なやり取りでもう頭が痛い。この借りてきた猫のように大人しい、しかもこの世界の理も解からぬ娘が私を害する、国を害するという壮大な世迷言を生真面目に気にしている余裕は、私には無いのだが。――フェルディナントが大丈夫だという、ならばそれは安全という以外には在り得ぬのだ。のう?」
ちらりとリーゼロッテがフェルディナントを見た。嫌そうに顔を顰めたフェルディナントは応とも否とも言わなかった。
この女王のフェルディナントに対する信頼は相当なもののようだった。
「……フェルディナント」
今まで一度も口を開かなかった褐色の肌の男が、緩慢な動作でフェルディナントを見た。
「何だ」
「……その娘、本当に害はないか」
どの言葉をどう伝えようか、常に模索しているような口調だった。声の質と奇妙な差がある。
「ああ」
「……なら、いい」
そのまま、ふい、と男は顔を逸らしてしまった。
ツェーザルの服の裾を引っ張り、シキは無言で説明を求めた。きちんと察する辺り、ツェーザルも中々勘がいい。
「コンラート・フュルスト・バッハシュタイン。赤花師団司令官、バッハシュタイン侯爵家の長男だ。彼がアンゼルム・パァルツグラーフ・ユーベルヴェーク。この国の宰相で、王領地伯ユーベルヴェーク家の出身だ」
「は、はい…?」
「……覚えられないなら後でまた教えてやるから、首を傾げるな」
生粋の貴族ならともかく、一般庶民でしかなかったシキには家名や格などすぐには覚えられない。
「行くぞ」
いきなり抱き上げられて、シキは目を向いた。見れば、フェルディナントの顔が間近にある。森の中でされたのと同じ格好だった。
「でも、まだ」
女王と宰相はまだ言い争っている最中だった。礼儀的に良いのだろうか、とシキは困った。
「これ以上あいつに払う礼儀は持っていない」
一国の女王を「あいつ」呼ばわりするのだから、大概フェルディナントの肝も据わっている。いつものことなのか、不敬とたしなめそうなツェーザルも呆れた顔をして黙っている。
「相変わらず口が悪いな」
リーゼロッテがおかしそうに笑った。アンゼルムを見やれば、疲れたような無表情であった。言い負かされたらしい。
「十分だ、お前には」
「自分の母親に向かってそれはないだろう」
ぽかん、と口を開けたシキの目の前で扉はばたんと閉まった。
分厚い扉は、もう中の様子も音も廊下に漏らすことは二度と無かった。リーリヤもカレヴァも器用に気配を殺して出てきたようで、ふたりの姿を認めたシキはほっとした。
シキを抱えたまま廊下を歩き出したフェルディナントに、シキは訊ねる。
「…おかあさんが、女王様?」
「母親と思ったことは無い」
忌々しげに歪められた顔はそれでも整っていて、神は二物どころか三物も四物も大盤振る舞いするのだなあとシキはぼんやり思った。
「……女王様、何歳?」
とても子供がいる風には見えなかったのだが。
「……さあな」
心底気味が悪いというように、フェルディナントとツェーザルは非常に似通った表情を浮かべた。
久しぶりの更新でした。
今回は一挙に3人登場です…これで動かしやすくなればいいんですが……
以前フェルディナントを「黒翼騎士団の団長」という風に書きましたが、正式名称は「黒花師団司令官」という身分が正式な身分です。
師団というのはこの時点では軍隊で一番でかい単位の部隊です。このなかに旅団、聯隊、大隊、中隊、小隊などを詰め込むわけです。歩兵、騎兵、銃兵が主。
後々出てきますが、「黒花師団」の「第一旅団」内「第6騎竜兵聯隊」が通称「黒翼騎士団」と呼ばれるものでして、ここが事実上の黒花師団の頭、トップなわけです。
一般には「黒翼騎士団」の方が通じてしまうので、フェルディナントはこう自己紹介したわけですね。
アレ?と思った方がおりましたらすいません。
あと軍隊の運用や名称や設定は都合よく変えていますので、現実のものとは異なります。