炎の都へ 4
たった一度の羽ばたきで舞い上がったリーリヤの体の上で、シキはぎゅっと目を瞑り、身体を丸めた。
高い場所は嫌いではない。が、シキは遊園地のジットコースターや他のアトラクションで感じるような、あの臓腑が腹の中で持ち上がるような一瞬の揚力が大の苦手だった。
今の今まで忘れていたその感覚を思い出し、シキの顔はさっと青ざめる。飛ぶということは、揚力が存在するということだ。浮き上がり、また重力に支配されるあの瞬きの間の感覚。飛ぶという初めての試みに心が浮き足立ってそれを、忘れていた。
ばさり、とあのしゃらしゃと擦り鳴る紫の羽根が羽ばたく音が聞こえ、シキはぐっと歯を食いしばった。
しかし、覚悟していたこととは裏腹に、その気持悪さはほとんど感じなかった。
強い風を身体全体に感じ、しかし次に目を開けた時には、そんな厭な感覚など忘れるほどの光景が広がっていた。
――青。
空の青、湖と川の青、そして草原と森の青。
特に森や平原は緑、というには、青、という称し方が殊の外似合うとシキは呆然としながら思った。水平線というものをシキはほんの数度しか見たことが無かったのだが、なるほど、星が丸いから水平線が丸く見えるというのは本当のことだったのだとひとり納得した。と言っても、この世界が本当に丸い惑星だという証拠は無いのだが。
木に登った時には見えなかった輝かんばかりの光景が、シキの目を釘付けにする。
先頭を飛ぶのはフェルディナントの駆るゼルマで、次にリーリヤ、その遥か後方にツェーザル率いる騎士たちの飛竜が続く。リーリヤが己の力をかなり加減しているのはシキにも分かったが、それでも余裕そうに先頭を飛ぶゼルマは、やはり良質な竜なのだろう。それともそれを駆る者の力量か。
吹き荒び髪を乱す風は爽やかで、シキは丸めていた背を伸ばし、肺一杯に香りを嗅いだ。清涼な水と、青臭い草と、豊かな土と、高所独特の鋭く澄んだ匂い。自然目を細め、笑う。
『気持いいでしょう、我が君?』
「うん!」
リーリヤが僅かに首を曲げ、シキに尋ねる。それにシキは全力で頷いた。
風を切る感触がシキの精神を高揚させる。ごうごうと耳元で鳴る風の音が聴覚を麻痺させるが、それ以上に身体全体の感覚は鋭敏になった。行けない場所など無いのだと、今にも叫びだしたいくらい、シキはその高揚感に酔いしれる。
一種恍惚としたようなシキの表情に、人知れず振り返ったフェルディナントは僅かに口元を歪めた。
――あんな顔も、できるか。
顔を合わせた数分、緊張した、苦々しげな顔しか見ていないフェルディナントにとって、それはちょっとした驚きだった。いかにも子供らしい、晴れ晴れとした顔は仲間内では鉄面皮と称されるような男にも僅かばかりの癒しを与える。
貴族の社交界などに引っ張りまわされ、でなければごつくむさ苦しい男達と訓練に明け暮れるような日々を過ごす彼にとっては、素直な笑みなど、しばらく見ないで久しい。また己も、何のてらいのない笑顔を浮かべることも殆ど無くなってしまった。元々表情筋の豊かではない男である。笑うと言っても僅かに口角が上がる程度だ。
なのに、フェルディナントはシキを見ると自然にそう、口元が緩む。
しかしそうであっても、フェルディナントは、まだ完全にシキを信じたわけではない。
ツェーザルにも言った通り、シキは何らかの形で、『あのヨルゲン』と関わっている可能性があるのだ。何をしでかすか全く解からない。いつ爆発するか、どんな威力を持つのか全く解からない爆薬、と言っても過言ではない。
扱い方を違えれば――世界が、滅びかねない。
それでもフェルディナントは、心のどこかでは、そんなことはないと断言できてしまう。
それが何故かは分からない。
しかし、確実に思っている。
自分がいる限り、そんなことはさせない。
――今度こそ、助けるのだと。
一瞬風の塊にぶち当たり、フェルディナントはふっと我に帰った。
――何を考えていた?
後方を見やると、シキを乗せた紫竜は上手く気流の間に乗り難を逃れたようだった。時折ある風の塊は、空を征く者達にとっては単なる強風程度に過ぎないが、それに乗る人間にとってはかなりの衝撃波になることも無いではない。
平気そうなシキの顔に、フェルディナントはほっと息をついた。
と同時に、眉を寄せる。
――助ける、だと?
降って湧いたような奇妙な考えに、フェルディナントは軽く頭を振った。
今度、ということは以前がある、ということだ。しかし、フェルディナントには以前など無い。何より先程出会ったばかりなのだ。お互いがどんな人間かも知らぬのに、不可思議である。
しかしその謎も、誰かに拭い去られるように、久しぶりに舞った空への開放感で消えていく。
前方を見やり、目当ての景色を認めると、フェルディナントはゼルマと共にリーリヤの隣へ並んだ。
「見ろ!」
然程大きくはないが低く明朗とした声は、シキの耳に確りと届いた。
フェルディナントの指差す、やや下の方向に顔を向け、シキの目が見開かれる。
平原と点在する湿原、鬱蒼と茂る森の終わり――黄金の麦穂の海の果てに、その巨大な都はあった。
森や水の青とは対照的に、そこは石の白と土の赤が支配していた。
草原差を誇るように中央に陣取る白亜の城を幾重にも囲む城壁。城壁と城壁の間には、粘土のような赤茶の屋根、黒や茶で縁取られた、白や黄の鮮やかな壁を持つ家々の群れが整いながらもひしめき合っている。東西南北、縦横無尽に走る街道と理路整然と並ぶ建物がその都の巨大さを更に際立たせている。
一番外側の重厚な壁の円周がどれくらいになるのか、シキには想像もつかない。ただただ、途方も無く大きかった。
「我が祖国フラフィアの王都――フィアライシスだ」
ぽかん、と口を開けたままのシキを見て、フェルディナントは声も出さず笑った。
ようやく都へ到達です。
長かった…これからもまだ長いですが。
作中でも数時間しか経ってないって…何事……orz
どうやらフェルの方も何か事情がありそうです。