65嫉妬
「あらぁ?ジークヴァルト様ではありませんこと?」
「…っ、ハストン伯爵夫人…」
「まあまあ、こんなところでジークヴァルト様にお会いできるなんて、思っておりませんでしたわ。
あんまり驚いたものだから、思わずお声をかけてしまって、失礼を致しました」
「…いえ、偶然ですね」
ハストン伯爵夫人とはシーズン中の舞踏会で踊った以来だ。
この庭園への彼女の誘いを断ったが、別のパートナーを見つけたのだろう。
あらためて冷静に周りをみわたすと、思った以上に人が歩いていた。
伯爵夫人に声をかけられてかえって良かったかも知れない。
ジークヴァルトはこの伯爵夫人のことは年上の異性の友人といった位置づけで好感を持っている。
デートに誘ってくるのは彼女の挨拶のようなものだ。
今も彼女の誘いを断ったことを気にするふうでもなく、エマに向かってにこやかに挨拶をしている。
「ジークヴァルト様、ほんの少しだけお話しできるかしら?」
彼女の何か含んだ言い方はジークヴァルトの耳に入れておきたいことでもあるのだろう。頷くと、エマを近くの休憩スペースに座らせた。
「エマ、申し訳ないが、ここで飲み物でも飲んで少し待っていてくれないか。すぐに戻る」
別の女性と席を外すことをどう思うだろうかと気不味く思ったが、エマは素直に頷いた。そうなると、我が儘を言ってくれてもいいのだがと拗ねたくなる。
花壇の一角、エマから20メートルほど離れたあたりまでハストン伯爵夫人に連れてこられた。
見通しもよく、日除の下のガーデンチェアに座るエマが、言った通り、ウエイトレスにお茶でも頼んでいるようだ。
「ここにはもう何度か来ていますのよ。今日も来てよかったわ。ジークヴァルト様にお会いできるどころか、あんな可愛らしいお嬢さんにお会いできたんですもの」
「…何か私にご用があったのでは?」
「あの方が『エマ』さん、ね?あっと言う間に噂になっていますわよ。
お抱えの仕立て屋がそれとなく噂を流しているようね。あそこの女主人は顧客の情報を漏らすような人ではないわ。
差し詰め、『エマ』という女性は貴方の保護下にいる、だから手出しするなと誰かへのメッセージなのかしら?」
「…ええ。少々訳ありでして」
(やっぱり、何も話すつもりはないようね。)
仕立て屋の女主人のおかげで、社交界の女性たちが憧れるジークヴァルトの屋敷に女性が保護されている話は、すでに貴婦人や令嬢たちの間では噂になっている。
女性の正体について、国外の貴族令嬢では?という線が有力だが、実際エマに会ったことがあると言うハビ子爵家のメアリー譲は、エマはパン屋で働く平民だと主張しているそうだ。
(先ほど挨拶した時は平民とは思えなかったけれど…)
その女性とデートの定番になっているこの庭園に来て、あのジークヴァルトからキスをしかけようとするのを目撃したのだ。これは単なる『保護』だけではなく『本命』で間違いない。
(誰から、何から守っているのかしら…。もし、『エマ』と結婚なんてことになれば、社交界でどんな扱いをうけるか想像できているのかしら。)
本人から最新情報を聞き出そうと思ったけれど、少しの時間も惜しいほどのご執心の様子。ジークヴァルトの機嫌を損ねないようにさっさと教えたほうがいいようだ。
「でもね、それで逆に煽られる方もいるのよ?」
「え?」
「芙蓉。彼女も今日ここに来ていらしてよ。タイミングが悪いわね」
「芙蓉…エレノアが?」
「ええ。彼女が名前呼びを許しているのは貴方だけというのは有名な話しでしたわね。
それに、気付いていらっしゃる?
まわりの女性方も興味津々ですわよ。ジークヴァルト様のお隣の女性はどなた?って。
さっきエマさんにキスしようとしてらしたでしょ?
女性の嫉妬は恐ろしくてよ。お気をつけになって。
それをご忠告したかったの」
エマの座る方へ視線を向けながら、そういった伯爵夫人が、「…あら?」と怪訝な声で言った。
✳︎
ジークヴァルトが伯爵夫人と肩を並べて小道を歩く、その後ろ姿だけで絵になる光景だ。
(伯爵夫人…本物の貴婦人だぁ。綺麗な人、三十代前半くらいかな?)
ハストン伯爵夫人は物腰が本当に貴族的、つまり上品で優美といった印象だ。
(あんな二人が歩いていたら、気安く声なんてかけれないって。
オーラが違うっていうの?
それに、なんていうか…こう…そう!とても親密っ!て…いう………)
自分で言って気付いた。
ーーーあなたなど到底叶わないほど美しく素晴らしいご婦人方やご令嬢方と親しくお付き合いされているのよ?
(アルベルト様の屋敷に行った時、メアリーちゃんが言ってたじゃない。)
それに、自分でも
ーーーあの人に、恋人の一人や二人や三人いても不思議じゃない………
って思ってたのに、どうしてそんなことも忘れていたのか。
(あの伯爵夫人も彼を名前で呼んでた。既婚者も守備範囲なんだ…)
経験豊富なジークヴァルトにとって、エマへのキスに特別な意味などない。
ーーー「こんな気持ちになったのは、初めてなんだ」
ああ言ったのは、本当に言葉通り。あの時そんな気分になっただけなんだ、きっと。
(はあ~私ってば、何をキャーキャー騒いで悩んでるんだか。)
「貴女がエマさん?」
白いガーデンテーブルにほっそりとした手が置かれた。
桜色の爪は美しく磨いて整えられ、白く長い指には大きな一粒石の宝石が輝く指輪。細い手首を飾るダイヤモンドの華奢なブレスレットが光をキラキラと反射させている。
エマが手元から視線をゆっくり上げていくと、細い腰、腰まであるゆるく波打つ金髪、豊満な胸元と目に入り、そしてその女性は圧倒的な美貌でエマを見下ろしていた。
「エマさんよね?」
光の加減で青もしくは碧にも見える魅力的な瞳の目元を細めて微笑みながら、小首を傾げる仕草は同じ女性でもドキリとした。
「はい、そうですが…」
どうして名前を知っているのかと思ったが、女性のあまりの美しさに気圧されながらエマは頷いた。
「私…、三華楼ってご存知かしら?つまり娼館。そこの三華の一人で『芙蓉』を名乗っているエレノアと言います。
ジークヴァルト様にお話があったのだけれど、最近お店に来て頂けなくてお会いできないの。
エマさんにご伝言お願いしてよろしいかしら?」
豪奢な金の髪を揺らしながらあどけなくそう言う。
(娼館…ああ、そっか、ジークヴァルト様がね。この人も名前呼びなんだ。ふーん。最近行ってないから会えないって…
嘘つき。
ジークヴァルト様ならすぐそこで伯爵夫人と立ち話してるじゃない。)
こうして遠目でみてもジークヴァルトは目立つ。
庭園にいる女性たちもジークヴァルトに気づくとちらちらと目を向けていた。
「いいですよ。何ですか?」
エマがくっと顎を反らしエレノアを見上げると、エレノアは目を驚かせた。
綺麗な顔が少し幼くみえて可愛らしい。
「あら、あなた意外と気が強いのね?」
今度は意地悪に片方の口角を上げた。そんな表情にも小悪魔的な魅力がある。
しかし、動じないエマにエレノアの唇が歪む。
(娼館のトップに上り詰めた絶世の美女。綺麗で可愛くて魅力的な女性…
ジークヴァルト様は、そんな人にこんな顔させて。
社交界じゃ、貴婦人やご令嬢たちが憧れて恋をする。
ジークヴァルト様を素敵だと思うのは生理現象みたいにやめられなくて、人としても素敵だと思う私もやっぱり彼女たちと同類、それはもう認めよう。)
彼の女性関係がだらしないわけじゃない。まわりの女性たちが彼を放っておかないだけ。
(つまり、こんっなモテる男、私みたいな小娘には手に余るってことだ。)
「それじゃ、これを」
そう言いながら小さなバッグから封筒を取り出したエレノアは、白い数粒の錠剤を手のひらにざらざらと出した。
「ごく最近作られたんですって。
まだ内緒なんですって。
ジークヴァルト様が調べていることと関係があるのかと思って手に入れたの」
錠剤をみながら淡々としゃべりだしたエレノアが、
「あ、でも飲めばどうなるかは分からないのだったわ。
そうだ、いま飲んでみせてあげるわね」
と、嫌な笑顔をエマに向けたかと思うと、次の瞬間手のひらにある錠剤をガッと口へ押し込んだ。
「ッ!ダメッ!!」
エマが慌てて立ち上がりエレノアの手をバシッ!と叩いてはらったが、間に合わなかった。
エレノアは口に放り込んだ錠剤をガリガリと噛み砕いた。
その形相は狂気じみていてエマはゾッとした。
✳︎
ジークヴァルトがハストン伯爵夫人の怪訝な声でエマの方をみると、エマが急に立ち上がり大きな声を出してエレノアに手を上げた。
バシッと鈍い音の後にエレノアが前屈みに崩れ落ち、人が倒れたとワッと周囲から声が上がる。
ジークヴァルトは、走り出した。ハストン伯爵夫人から忠告をうけた矢先に、もう遭遇してしまっていた。
エマが人に手をあげたことが信じられなかった。だから、彼女を非難するような声が出てしまった。
「エレノアッ!、エマ、どうしてっ」
見上げたエマは、冷静な目で自分たちを見下ろしていた。
「すぐ医務室へ行きましょう」
「医務室?」
腕の中のエレノアは顔面が蒼白になり冷や汗がふきでていた。様子がおかしい。
すると、エレノアは弱々しく「この人が…」と言ってエマを指差した。
周囲がざわつき疑惑の目がエマに向かう。
だが、エマは淡々と
「私は、なにもしていません。ただ彼女が薬を飲むのを止めようとしただけです」
と言って背を向け歩きだした。
医務室には医師が常駐していたが、エレノアのような急患は扱ったことがないのだろう、患者をそっちのけで胃洗浄だ毒消しだと器具を探して慌てている。
診察室のカーテンの少し開いた隙間からベッドの上でエレノアが腹部をおさえて体をくの字にして苦しんでいるのが見えた。
エマの言う通り何か飲んだのだ。
そんな中、エマがすっとカーテンの中へ入るとエレノアの横に立ち、胸か腹のあたりに手を置くのが見えた。
撫ぜているのか何なのか、エマの背中で手元は見えなかったが、彼女が手を動かすたびにエレノアの顔色が良くなっていき苦しみも和らいでいる様子だった。
ものの五分もすると、エレノアは完全に苦しみから解放され、穏やかな顔をして眠ってしまっていた。
「もう大丈夫そうですね。ジークヴァルト様、もう帰りませんか?」
エマは振り向くとそう言って、医務室を出ていく。
ジークヴァルトはエレノアを一度振り返ったが、振り切るようにエマの後を追った。
帰りの馬車の中でエマはエレノアとのやり取りを話してくれた。
彼女が手に入れた薬をジークヴァルトに渡してほしいと言われたと。そして、薬は止めようとしたが間に合わず彼女が自分で飲んだと。
そして、なぜそんなことをしたのかは分からないと。
分からないわけがない。エレノアから娼館のことを聞いたはずだ。そして、まるで人々の不審を招くように指をさされ、陥れられかけたのに。
もし、彼女が死んでいれば、指を差されたエマに全ての疑惑がいっていた。
ジークヴァルトはエレノアの気持ちには気づいていたが、自分にとって彼女はあくまでも情報提供者だ。
彼女もその関係で納得していた。
エマへの言葉が見つからない。
「……薬を調べたいので頂いてもいいですか?」
「…え、あ…ああ」
エレノアが持っていた封筒を向かいに座るエマに手渡す。
(庭園では俺の腕をとりあんなに楽しく過ごしていたのに、今は果てしない溝ができたようだ…)
「エマ、今日は一人にして悪かった。
俺のせいで嫌な思いをさせてしまった」
謝り項垂れるジークヴァルトに手元の封筒を見ていたエマが「大丈夫です。嫌な思いなんてしてませんから」と微笑みかけてくれたが、何故かとても空々しく突き放されたように感じた。
いい知れない焦燥感に駆られた。
「それにっ、さっきは非難するような言い方をしてすまなかった。エレノアは情報提供者なんだっ。ああいった場所には様々な情報が集まるから、だからっ、」
ジークヴァルトを見ていたエマが首を振りながらまた手元に視線を落とした。
そして、
「ジークヴァルト様の交友関係に私は何も…」
と、言葉をそこで切った。
だが、その後続くのは多分『関係ない』だ。




