61エマと執事長
(どうしよう…手を離してくれない…)
ジークヴァルトの右手はエマの左手をしっかりと握っているのに、彼の視線は車窓に向けられたままだ。
さっきはルーがジークヴァルトに何かうったえていた。
エマとしてもこんな強引さには戸惑うけれど、自分が原因だと思うと声をかける勇気はなかった。
ジークヴァルトの考えていることが全然わからない。
この人の行動は本当にエマを混乱させる。
ーー「君は俺を殺す気かっ!
本当に君は…心配ばかりっ!」
(あんなのまるで『私』を心配しているみたいじゃない)
車窓の景色が貴族の住むエリアにはいり、延々と続く塀伝いに馬車が進む。
まさか、住むために再びホランヴェルス公爵家に来ることになるとは思わなかった。
(保護っていっても、何もしないわけにはいかないだろうし。私にできる仕事ってあるかな。
知らないたくさんの使用人さんとうまくやっていけるかな。
前に来た時、メイドさん優しかったし、聞けば教えてくれるかな。ああ、不安…)
正門を入り、くねくねと道を曲がり馬車がゆっくりと屋敷の玄関に横付けされた。
止まってもジークヴァルトの手は離れず、エマは手を引かれたまま馬車を降りた。
「いらっしゃいませ、お嬢さん」
「お嬢さん」の言葉に、以前パンを届けた時に紅茶を出してくれた老執事だとすぐに分かった。
なんだかほっとしてエマが挨拶を返そうと顔を上げると、柔和な笑みを浮かべていた老執事の表情がさっと曇った。
エマは不思議に思ったが、ジークヴァルトが手を引くので、老執事の前を素通りするしかなかった。
振り向くと、老執事は二人の様子がおかしいことを察したのか、他の使用人を下がらせ一人足早に追ってきた。
連れてこられた部屋は屋敷の二階の角部屋だった。多分南東の。まるで高級ホテルのスイートルームのように広く、大きなベランダがあり、そこからは美しい庭園が一望できそうだ。
景色といい、方角といい、この部屋が特別だとわかる。
さすがに身に余ると思ったエマが口を開く前にジークヴァルトが振り向き、やっとこちらを見た。
ジークヴァルトは怒っていなくて、むしろ安堵したような顔をしていた。
「さあ、エマ、ここにくればもう大丈夫だ。君に危害を加えるような者はいない。
今日からここが君の部屋だ。どうだろうか?女性が好きそうな感じに整えたのだが。
もしも、気に入らなければ好きに変えてくれてかまわない。
ジェームズ、彼女の要望は何でも聞くように。それから、彼女に敬称をつけろ。使用人たちにも徹底させろ」
理解が追いつかないエマは何も言えず、ただ聞くしかなかった。
「エマ、俺はルイスと少し話があるから行ってくる。すぐに戻るから待っていてくれ」
(ジークヴァルト様は私のため執務を放り出してきたのかも…)
心配をかけてばかりのエマにできることは四の五の言わず、ジークヴァルトの意に沿うようにここで大人しくしていることしかないと思った。
「はい、わかりました。お待ちしています。いってらっしゃいませ」
そう言って、つとめて穏やかに微笑むと、一瞬目を見張ったジークヴァルトが
「ああ、行ってくる」
と、なんだか噛みしめるように言って、まだ繋いだままだったエマの指先に口付け、颯爽と部屋を出て行った。
手を出したまま固まったエマは、だからこれは貴族の習慣だってっ!と自分にツッコんだ。
✳︎
「エマ様、…エマ様?」
「っ?!はいっ!」
「改めましてご挨拶申し上げます。
私、執事長をしておりますジェームズと申します。
エマ様のお越しを心よりお待ち申し上げておりました」
なぜかエマの顔色を伺うように挨拶するジェームズに、エマは薄い笑みを浮かべた。
「エマ・ハーストと申します…。先日お伺いしたときは美味しい紅茶をありがとうございました。この度もお世話になります。よろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願い致します。では、居間に紅茶をご用意いたしますので、どうぞお召し替えをされてはいかがでしょうか」
そう言われて見下ろした服は埃っぽく薄汚れていた。あの路地裏の小屋から助け出されてまだ二時間も経っていない。
必死だったから、あちこち汚れるのを気にしている余裕はなかった。
確かにこれでは屋敷内で過ごすには相応しくない。
でも、ここまで引っ張って連れてこられたので何も持ってきていない。
先日テューセック村からの帰途のホテルでジークヴァルトからもらったブラウスとスカートは古い旅行鞄の中だ。
エマはメイド服を借りれないか聞こうとしたが、ジェームズが扉の一つを開き中へと促した。
部屋には女性ものの服や鞄、靴がたくさん用意されていた。
「ジークヴァルト様がエマ様のために仕事先で購入されたらしいのですが、王都の品物でないうえに既製品で。
明日、お抱えの仕立て屋が採寸に参りますので、申し訳ございませんがしばらくはこちらのお召し物でご容赦下さいませ」
そう言われれば見覚えのある品々だった。帰途のホテルでジークヴァルトが勧めてくれたプレゼントがそのままあった。
てっきりあの美人メイドたちに下げ渡したと思っていたのに。
(ジークヴァルト様も既製品だからって言ってたけど…それが、どうしたんだろう?仕立て屋?)
ジェームズの言うことがよく分からなかったが、エマは一時的に借りようとシンプルな一枚を選んだ。
「では、これを…着させて頂きます」
エマはクリーム色の清楚なワンピースに着替えると、ジェームズに一階の居間に案内された。
ここも以前みた応接室同様、家具やソファから花瓶や小物に至るまで全てが上品で高級感に溢れていた。
ふと、居間といえば家族団欒の場所…と思い当たった。
「このお屋敷には公爵様と奥様もお住まいなのですよね。
私、お世話になるのにっ、ご挨拶しなくてはっ。奥様にお会いできる機会はあるでしょうか?」
(あ、でも、やっぱり、平民の私がご挨拶するなんて失礼かも…)
「ご当主様の本宅は別にございます。奥様もそちらでご一緒にお住まいです。
もともとこのお屋敷が本宅でしたが、ジークヴァルト様のご成人を機に独立するようにと仰られてお譲りになられました。
ジークヴァルト様はこのお屋敷で一人暮らしをされております」
「一人暮らし…ですか」
「はい。さ、お茶をどうぞ。南方より取り寄せました茶葉で淹れた紅茶でございます」
「はい……、ありがとうございます…」
(一人暮らしって、もっとこう…慎ましいイメージだったような…)
そんなことを考えながらも飲んだ紅茶はとても美味しく、肩の力が抜けるほどにリラックスできた。
エマが二、三口飲み、皿にカップを戻したところで、ジェームズがエマの座るソファの傍に徐に片膝をついた。
「エマ様、失礼とは存じますが敢えてお聞き致します」
柔和な微笑みから一転、やけに神妙な顔つきになっていた。
「泣かれたのですね?お目が赤うございます。それにお召し物も汚れたご様子でした。
まさかとは存じますが……、ジークヴァルト様が貴女様に何かご無体なことをされたのですか?」
(ご無体?えっと、時代劇で聞いたことがあるような…
町娘が悪代官に帯をくるくる解かれて『あれ~おやめ下さい、ご無体な』って…)
「いやっ、いやいやいやいや、違いますっ!全然違いますからっ!」
なるほど、ジェームズは全く不名誉な誤解を主人に対して、していたのだ。エマは一から説明をした。
話を聞いたジェームズが心底ほっとしたように息をついた。
「左様でございましたか。エマ様がご無事でなによりでした。
ジークヴァルト様はエマ様をとても大切に思っておいでなのです。あんな余裕のないご様子を拝見するのは初めてだったので驚きました。
馬車で無言だったのは、きっとご自分の気を静めるので精一杯だったのでしょう。
ジークヴァルト様の問題です。エマ様が気にされることはございません。
それにしても、泣きはらしたエマ様をさらに不安にさせるなど、ジークヴァルト様も紳士としてまだまだですね」
そう言ってウィンクした執事長ジェームズに、エマは思わず笑みをこぼした。
執事長ジェームズと打ち解けたエマは、屋敷内を案内してもらった。
公爵家の元本宅だけあって、目がくらむほどの豪華さだった。
金や宝石で飾られているわけではない。
建物は何百年も耐えうるように最高の部材が使われ、貴族の格式を保つように職人の技による伝統的で緻密な装飾が至る所に施されてある。
さらに長い廊下や階段の踊り場の要所要所にもアンティークの家具が配置され、その一つ一つが長い年月受け継がれてきた存在感を醸し出していた。
貴族にとって家具は受け継ぐものだ。何代も受け継ぐことができ得るものが最高級品の証となり、家系の古さを証明する。
それがこの屋敷には至る所にさりげなく配置されている。
高価な陶器の花瓶も、季節の花々が瑞々しく飾られ惜しげもなく実用品として使われていた。
こうして目に見える形で権勢を見せつけられると、この屋敷でお世話になることに居心地の悪さを感じた。
「ジェームズさん」
「はい。なんでございましょう?」
「私は何のお仕事をすればいいでしょうか?あの、お掃除ならできると思うんです。大切な美術品には気をつけますね。
それに、お世話になるのにあのお部屋はもったいないです。それに敬称をつけるのも変です。エマと呼んで下さい」
この公爵家で執事長ジェームズを絶句させたのは、後にも先にもエマしかいないのではないだろうか。
「ジェームズさんはジークヴァルト様から私のことをどのようにお聞きですか?」
「……いまルイス王子様と共に関わっていらっしゃるお仕事の協力者だと。ですが、とても大切な方だと承っております」
ぼう然とそう答えてから、このままではいけないとジェームズは立ち直った。
「仕事をしろとジークヴァルト様が言ったのですか!?」
いいえ、と首をふるエマに、ジェームズはそうでしょうとも、としきりに頷く。
「ジークヴァルト様は貴女様を本当に大切に思っていらっしゃるようにお見受けいたします!
貴女様には仕事をさせるなど滅相もございません。
主人の大切な方のお世話ができて我々使用人も嬉しく存じておりますっ!
我々は心を込めてエマ様をお世話させていただきます。
エマ様は、この公爵家のお客様なのです。どうか、お客様として心置きなくお過ごし下さい」
慌ててそう言いつのったジェームズの言葉にエマは「え?でも…」とまだ戸惑っていたが、そんなことをさせればジェームズが叱られるというと、エマはようやく納得したが、「でも、大切…ってことはないと…」とつぶやいた。
ジェームズには、エマの声が自嘲的で、微笑んだ横顔が寂しそうに見えた。
気になったが、それはとても立ち入った事情のように思えて、聞くことは躊躇われた。
エマを屋敷に保護するにあたり、ジークヴァルトは以前彼女を辛辣に言ったことは自分の誤解であったと白状していた。
ジェームズはそれを聞いて驚くことはなかった。むしろ、やっと気づいたのかと嘆息したほどだ。
ジークヴァルトが良くも悪くも誰かに私情を見せたことは今までなかった。
特に女性関係では、醜聞になるような事態は避け貴婦人方と上手く付き合っているし、どんなに美しくてもメイドに手を出すことも絶対ない。
たまに高級娼館へ寄って遅く帰宅することもあるが、そういう艶事を知ることも青年貴族の嗜みのひとつであり、その程度は見てみぬふりをしている。
だから、ルイス王子の婚約が噂されるようになってから、ジークヴァルトもそろそろ世間の青年貴族同様に然るべき貴族令嬢と見合いをしてこの家を粛々と継いでいくのだろうと思っていた。
だが、その矢先エマという女性が現れた。
粗末な平民服を着てパン籠を持った彼女が 居た堪れない様子で応接室の入り口に立っているところにジークヴァルトがイライラとした感情を剥き出しにして近づく姿を見た時、ジェームズは内心一人で盛り上がった。
ジークヴァルトの心をこうも動かすこの女は一体誰なのかと、ワクワクした。
そして、紅茶を出してエマと交わしたほんの少しの会話とその佇まい。
公爵家の執事長としての長年の経験から、エマはジークヴァルトが言うような悪女ではないし、平民として暮らすには何か特別な事情があるのではと直感した。
むしろ、今ではジークヴァルトがエマを正式な伴侶としてこの家に迎えるつもりではないかとさえ思っている。
エマへの好意を隠さないジークヴァルトを見ていれば、もう確信に近い。
だからエマにもジークヴァルトに心を開いてもらえるように、主人のフォローに力を尽くしたいとは思うのだが…
(恋い焦がれた経験もなく、玄人ばかり相手にされていたジークヴァルト様が、明らかに初心な上に、『大切』という言葉を素直に受け取れないご様子のエマ様にどう接するべきなのか分かっていらっしゃるのでしょうか。
エマ様のご様子では、ジークヴァルト様の気持ちは全く伝わっていないような。
思い余って本当に無体なことをされないように気をつけなくてはなりませんね。)
執事長はそんな一抹の不安を覚えていた。




