2 やわらかと側近とまおさま
とある世界の噂話。嘘のような真のような、夢と現の狭間の話。
大きな大きな迷宮の話。
それは、今は昔に亡ぼされた、魔物らが怨の具象体であるという。此の岸に留まれず、さりとて彼の岸にはふつに至れず、朧に翳む狭間にて、惨めに揺蕩い、憎悪を喰らい、なお在り続く迷いし宮は。
人の生きる世界の、薄紙一枚隔てた先で、眈眈と、臓腑を魂を狙っている――
「はっ」
なんだかやわらかいものの上で、ふみは気がついた。
目を開けると、妙にうす暗い。ぱちぱちまばたきをして、あたりを見回す。ここはいったい、どこだろう。
「うわぁ」
そのとき、ふみの乗っていたやわらかいものがぽよぽよ動いて、ふみはとてもびっくりした。
ゼリーのように透明だけど、ゼリーよりもっとずっとやわらかい。おかあさんと作ったクッキーの生地が、こんな感じのやわらかさだった。
いや、クッキー生地よりこっちのほうが、もっともっとやわらかいかも?
やわらかは、ぽよぽよぽよぽよ動いて、ふみを地面に下ろしてくれた。
「ありがと」
「ぽ」
やわらかには、目も口も耳も、手足もない。だけどふみの言うことはわかるみたいだ。お礼を言うと、全身をぷるぷる震わせて「ぽぽ」と音を立てた。ふしぎないきもの、やわらか。
あたりには、たくさんのやわらかがいる。ふみを載せていたのと別のやわらかが、ぬいぐるみのメリーと、お帽子と、ポシェットと、お砂場遊びセットを拾って持ってきてくれた。
やわらかは、どのくらいいるのだろう。
「いーち、にーい、さん」
ふみは、やわらかを数えてみることにした。
一匹、二匹、三匹……四匹目と二匹目がくっついて一匹になった。もう一度数え直そうとしたとき、一匹目が二匹になる。
二匹になった一匹目の片方がまた二匹に……その片方が三匹目とくっついて……
「んー」
わからなくなって、ふみは数えるのをやめた。やわらかは、ここにいっぱいいる。何匹かはわからないけれど、いっぱいいる。
そして、やわらかの数なんかより、今のふみにはもっと知りたいことがあった。
「ねえ、やわらか」
古めかしいレンガを敷いた床と、壁。ふみのお部屋よりとっても広いお部屋だ。ドアは半開きになっていて、やわらかが当たるたびにキイキイと音がする。
頭の上にお空はなくて、同じようなレンガの天井がある。だけどほんのり明るいのは、レンガとレンガの間に生えているコケのようなものが、ふわ、ふわ、と光っているせいだ。
この間テレビで観た、ホタルの光によく似ていて、とてもきれい。
だけど……
「ここはどこ?」
「ぽぽ」
「ふみ、公園に戻りたいの」
「ぽ」
勝手に知らないところに行ったら、おかあさんに怒られてしまうのだ。
ぷるる、ぷるるん。ふみの質問に、やわらかたちは困っているみたいだった。ぷるぷる、ぷるぷる、ぷるる……ふみの近くから生まれたやわらかの振動は、どんどん他のやわらかたちにも伝わっていき――
やがてその振動が、一番はしのやわらかまで届いたとき。
「ぽぽぽっ」
「あっ」
一番遠くにいた中くらいのやわらかが、ドアを抜けて一目散に走っていった。
「どうしたの?」
「ぽぽ。ぽ。ぽぽ」
ぷるぷるぐにゃり。ぐにゃぷるる。ふみの質問に、体を震わせ、形を変え、何か説明してくれているようだけれど、ふみにはやわらか語はわからない。
何を教えようとしてくれているのだろう。ふみがすっかり困ってしまった頃――
「人の……臭いがする……」
ふみにもわかる言葉が聞こえて、ふみは、はっと顔を上げた。
きっと、飛び出していったやわらかが、お話ができる人を連れてきてくれたのだ! 声の方を見る――ドアから影が現れた。
「幾年、歴れども……慣れぬ……臭いである。生ける者の――我らが仇の――」
「おお――おお! 魔王様――どうか、どうか御怒りをお沈めくださいませ、魔王様!」
大きな影と、小さな影。小さな影が、大きな影を「魔王様」と呼んでいる。影たちはどうやら、ふみに向かって話しているようだ。
夜より暗い二つの影は、怒りと憤りに震え、声は、計り知れぬ怨讐を孕んでいる。惆悵の色すら抱える彼らの嘆きは生命を持つ者を魂ごと掬い喰らわんと欲し神への祈りや贖いすら無力と踏み躙るがしかし――
「いくとせ?」
ふみには難しくてちょっとよくわからない――!
「我が迷宮に……無断で立ち入る不届き者は誰だ……! 答えよ……貴様の名を……その……尊大な罪人の……名を……!」
名前を聞かれているのはわかった――!
「やまざきふみ、さんさいです!」
一拍、のち。
「元気な……ご挨拶だ……!!」
「魔王様」
ご挨拶を褒められて、嬉しくなる。
えへへ、とほっぺたがゆるゆるするふみに、小さな影が「不敬である!」と言った。
小さな影――黒いフードを被った、小さな人。ふみよりちょっと大きいけれど、おかあさんよりは小さい。こちらの人のことはわからないけれど、大きい人の名前はわかった。
「あなたは、まおさまね?」
「いかにも……私がこの迷宮を統べる者……魔を統率する者……魔王である……」
「こんにちは、まおさま!」
「こん……にちは……!」
「魔王様」
ちゃんとご挨拶をしてくれた魔王と違って、小さな人はちょっと不機嫌そうだ。
「律儀に挨拶返してどうするんです魔王様」
「側近よ……侵入者は……良い子である」
「ほだされてはなりませぬ魔王様!」
側近と呼ばれた小さな人は、魔王に向けてぴしゃりと言った。
「先の大戦での屈辱を忘れましたか、魔王様! 人間などにかける情けはございませんでしょう!」
「しかしながら我……戦後の生まれ故……」
「ええい時の流れとは残酷なものよ」
ぎりぎりと、側近が奥歯を噛みしめる音がする。
側近がふみを見た。黒くてずるずるのお洋服から覗くほっぺたと手は深い海みたいな青色をしていて、目はきらきらの金色で、とてもきれいだ。
「ともかくも、娘。ぬしはこの迷宮において、許されざる蛮行を行なった。その大罪をいかにして償う気であるのか、述べよ――もし、その覚悟があるのならば」
「ふみにもわかるように言って」
「……ここは我々の家で、勝手に入ってこられて迷惑している。おわびをしなさい」
「おわび……」
確かに側近の言うとおり、おうちに勝手に入るのはどろぼうさんとかのすることで、いけないことだ。
何かあるだろうか。ポシェットをのぞいて――あった。
「クッキーあげる」
ふみはポシェットから、今日のおやつのクッキーを取り出して、側近にあげた。
側近はくるくる回してあちこち見た後、クッキーに手をかざす。クッキーが白く光ったのを見て「毒はないようです」と魔王に渡した。ふみの手より大きなクッキーだけど、魔王が持つと小さく見える。
ふみはクッキーを持っている魔王の手を、じいっと見つめた。
今日の午前中に、おかあさんと一緒に作ったクッキーだ。
おかあさんと作ったクッキーは、それだけでもすごくおいしいのだけど、今日のはもっと特別で、クルミとチョコチップも入っているのである。とってもとってもおいしいのである。
「……」
おいしいのである。
「……」
おいしいのである。
「…………」
おいしいのである!
「…………クッキーの半分を……汝にやろう……」
「ありがと!」
「魔王様」
結局、ふみが全部食べた。
クッキーをおいしくたいらげて、ふみはようやく、あることに気づいた。
「おわびできなかった」
しょんぼり。
「一度ならず二度までも、魔王様を侮辱する振る舞い――赦されざる蛮行である! 無垢ゆえに恐れを知らぬ咎の愛し仔よ、魔王様にその魂を捧げ命尽きるまで、いや尽きようとも、罪への贖いを求め続ける哀れな下婢として仕えるがよい!」
「むずかしい……」
「罰として、おてつだいをしなさい」
意味がわかった。
ふみの目がキラリと光る。
「わかった! ふみ、おてつだいする!」
これは、ふみの知っているムズカシイ言葉のひとつ――めいよばんかい、なのである。
「ふみね、いろんなことできるんだよ! おはし並べたりとか、お皿並べたりとか、一人で歯みがきしたりとか! まだお料理はできないけど、もう少し大きくなったらお料理とお掃除も覚えて、おとうさんのぶんまでいっしょけんめ働いて、おかあさんを助けてあげるの!」
すると。
側近は、不思議そうな顔をした。
「『おとうさんのぶんまで』?」
「うん」
「娘、父君は」
「ちちぎ?」
「汝の……おとうさんのことだ……」
なるほど。
ふみは笑った。でも、今度は、嬉しくて笑ったわけではなかった。
このお話をするときは、笑っていないと、みんなが悲しい顔をするのを知っているのだ。
「ふみのおとうさんはね……遠いところに、行っちゃったんだって」
少しの沈黙――
「……なんと」
「このような……幼い子供を残して……」
だけど、ふみが笑っていても、みんなは笑ってくれない。
魔王も側近も、やっぱり笑ってくれなかったから、やっぱりとても悲しくなって、スカートをきゅっと握った。
「……ふみね、おとうさんのこと、あんまり覚えてないの。おとうさんがいなくなったとき、ふみ、とっても小さかったから。おかあさんがおとうさんのこと思い出すとき、とっても悲しそうな顔するの。……だから、ふみもおとうさんのこと知りたいんだけど、あんまり聞かないようにしてるんだよ」
「健気な……子供である……」
魔王に褒められたのがわかって、ふみはまた、嬉しくなった。
それから。
「それとね、ふみにはよくわかんないけど、おかあさんはね、おとうさんのこと、よくこうやって言ってるよ」
ふみはおとうさんのことを知らないけれど、おかあさんはおとうさんのことを知っている。
おかあさんは悲しそうな顔で、ちょっと怒ったような顔で。ときどきこんなふうに、おとうさんのことを話すのだ――
「『今月も養育費の支払いが滞ってる』」
「ただのクズではないか」
「ふみにはよくわかんないけど」
「わからなくてよろしい」
おかあさんもおんなじように、ふみに言う。