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「メイベル様」
気遣わしげに私の名前を呼ぶ声に、何でもないと示すためににこりと笑みを返します。返されたアリス様はまるで痛々しいものを見るような表情をなされました。普段通りの笑みを浮かべたつもりなのですが、おかしな表情になっていたのでしょうか。
******
あの後。
私は今まで見たことのない形相のお兄様に腕を引かれ、生徒会執行部屋舎に連れていかれました。
生徒会執行部屋舎。通称“箱庭”。全面ガラス張りの大きな建物です。
薔薇園会員以外は薔薇園より奥にある箱庭への立ち入りを禁止されています。立ち入り禁止ぎりぎりまで近づいても周りを囲む薔薇のカーテンに遮られていて建物の全貌が見えず、一般生徒はガラス張りの建物があるということしか知りません。私も本日初めて建物全体を拝見しました。
箱庭の正体は立派なサンルームでした。ガラスの向こう側を見る限り、薔薇園とは別にサンルームの中にも立派な花園があるようです。手入れが行き届いていると外から見ても分かるほどに咲き誇った花々は、ふわりと、こちらにまで香りが伝わってくるようです。噴水や水路も設備されていて、陽の光でキラキラと輝いています。鉄製の丸机や椅子は白に統一されており、王城にあっても不思議ではないほど整備された素敵な場所となっています。
しかしあくまでお茶会を開くならば、という話。資料を置く場所もなければ、これといった照明が見当たらないので光源は天候に依存しているようです。雨の日に使用不可なのは当然として、ガラスは多少日光を遮るよう施されているとは思いますが、晴れた日では長時間資料などを読むには眩し過ぎるはずです。机もお茶会ならばいざ知らず、書き物をするには不都合なものだと思われます。一見してここは生徒会の執務を行うには少々不便ですが、どうなさっているのでしょうか。
——その答えは扉の向こうにありました。
「……まぁ!」
お兄様がサンルームの扉を開くと、そこは花園ではなく、屋根があり壁のある、建物の中のような一室だったのです。思わず声が出てしまい慌てて口を押さえましたが、お兄様にその様子を見られくすくすと笑われてしまいました。開ける前に説明して下さればよかったのに、黙っていたなんて趣味が悪いです。
「ここは学園のとある棟の一室なんだ。と言いつつ中には複数の部屋があるんだけどね。普通に入ればサンルームだけど、入るときにちょっと細工するとこっちに繋がるようになってるんだよ」
「……それは私に教えてよかったのですか?」
「僕は妹を信じているからね」
「……恐れ入ります」
中は一般的な応接室と執務室を合わせたような部屋、と言われれば想像できるような作りをしています。一見普通の部屋といった感じですが、置いてあるものは流石上位貴族専用といった豪華さです。
入った目の前に二人掛けの長椅子が縦長のテーブルを挟んで向かい合わせに一組、こちらに背を向ける形で一人掛けが一台置かれています。長椅子は少し年季が入ってはいますが本革が使われており、年月を重ねたことで荘厳さが増し、上等品であると主張しています。
長机は中央部分が長方形に真ん中くらいの深さまで切り抜かれ、そこに美しい薔薇模様の加工が施されたガラスが嵌められています。敷かれている絨毯はアラベスク模様を基調とした、遠目から見ると薔薇のように見える複雑なもの。こちらも少々年季が入ってはいますが最上級のものでしょう。
他にも一体何冊入るのかわからないくらいに大きくて立派な本棚や、ターコイズブルーを基調とした薔薇柄のティーセット、夜会の会場にありそうな豪華なシャンデリアなど、ここにあるものだけで王都にタウンハウスが建てられそうな空間です。
そして何より目立つのが、一番奥に置かれた書斎机とその向こうにある大きな椅子です。どちらも黒に近い茶色に統一されており、落ち着いた上品さを感じさせます。特に机は今まで見たことのない塗装が施されているようです。どことなくお父様のものに似ていると感じるのは、私の書斎のイメージがお父様の部屋だからかもしれません。玉座のようなそれらは恐らく会長のための席なのでしょう。机の上にはたくさんの資料が積み上げられており、彼らの忙しさが伺えます。
皆の憧れの薔薇園会。彼らの執務室はやはり誰もが憧れるであろう、贅を尽くしたものでした。
……しかし、指摘したいことがあります。
あれだけ秘匿されているサンルームを、まさかほとんど使用していないなんて、どうして許されるのでしょう。中の花園も綺麗に整備されているようですが、光による机の色褪せ方からすると使用頻度は高くないと推測できます。
サンルーム内の薔薇の維持にも転移魔術の維持にもそれなりのコストがかかっているはずです。しかしほとんど活用されず、あまつさえ執務室の隠れ蓑になっているのは豚に真珠を与えるというもの。どうにかならないのでしょうか。いえ、使い方はいくつか思いついていますので、即刻明け渡していただきたいですわ。
「箱庭は代々の薔薇園会が贅を思いつく度に追加していった結果収拾がつかなくなった塊みたいなものだよ。少しずつ捨て……改善してはいるが、上級生や卒業生に思い出が詰まっているとかなんとか言われてなかなか進めさせてもらえなくてね。だからサンルームも簡単には譲れないんだよ、ベル」
「……心を読まないでいただけますか、お兄様」
苦笑するお兄様に導かれ、私は執務室にある二人がけの長椅子の片方に座りました。お兄様は執事——お屋敷から連れてきた、お兄様専属の執事です——にお茶を頼み、少し疲れたような様子で隣に座られました。それでも姿勢を崩さないところにお兄様の生真面目さを感じます。
しばらくして紅茶とスコーンが出てきました。一緒にユリアナベリーのストロベリージャムも用意されており、思わず笑みが溢れます。ストロベリーは特に私のお気に入りのフレーバーなのです。薔薇園会のどなたの好みなのでしょうか。同じものが好きな方がいるというだけで嬉しくなってしまいます。
それにしても。出された紅茶を一口含み、思考を巡らせます。
記憶違いでなければこの後は昼食の時間を兼ねた休憩時間を挟んで授業があるはずなのですが、すぐには食べきれないくらいにスコーンが出てきましたし、他の方は私がいることに疑問も持たないといった風に各々くつろいでいらっしゃいます。隣のお兄様はスコーンを勧めてきたり紅茶に口を付けてはこちらを伺うように盗み見してきたり、大変忙しないご様子です。お兄様を抜きにしても、皆様から私をここに引き留めようとする意志を感じます。気付いていないと思っていらっしゃるのでしょうか。
痺れを切らした私は、持っていたティーカップを置き姿勢を正しました。
「お兄様。私本来ここにいてはいけないと思うのですが」
「大丈夫だよ。今は薔薇園会権限で連れてきているし、文句は僕が言わせないから」
「まぁ。お兄様も権力を行使なさる時があるのですね。初めて拝見しましたわ」
「ああ、僕の天使。普段はきりりとした君の驚く顔はあどけなくて可愛らしいよ」
「いいえ。天使とは、どちらかといえばアリス様のためにある言葉だと思いますわ。美しく可愛らしい見目に加えて、聖母と違わないほどに優しく慈愛に満ちていらっしゃいますもの」
「確かにアリス嬢は素晴らしい方だが、僕にとっての天使はいつまでもベルなんだよ」
「そんなこと言ってはアリス様が悲しまれますわ。そもそも私は黒髪ですし」
「黒髪の天使もいるよ!」
「天然兄妹。その頭が緩くなる会話は家でやってくれー?」
そう口を挟んだのは、ラフェエル・サンディング様です。サンディング家は魔爵位と呼ばれる、魔法を扱う貴族に与えられる爵位を持つ貴族の“本家”の一つです。嫡子であるサンディング様は、稀代の魔法使いと呼ばれるほど大変強力な魔力を有しているそうです。
本来ならば魔力の高いものは魔法の名門校であるトリストラム学園に通うのですが、サンディング様はフィリアナ学園にいらっしゃいます。以前お兄様に聞いたところ、優秀な魔力と魔術の知識が殿下の側近として買われ、殿下直々にお願いされたからだとか。残念ながら学年が違うため拝見したことはございませんが、思わず見惚れるほど美しい魔術をお使いになるそうで、一目見てみたいと密かに思っています。
「失礼致しました、サンディング様。少々早いですが私そろそろお暇させていただきますね」
「待ってベル。なんのために君をここに連れて来たと思っているの? 君がルシアンを知らないなんておかしなことを言い出したからなんだよ?」
「? ……えぇ、事実ですわよね?」
首を傾げる私に、お兄様とお向かいのサンディング様は困惑顔、少し離れたところで静かに話を聞いていたグレイアム様は無表情ながらも眉間に皺を寄せた表情をなさいました。皆様どうなさったのでしょうか。
「ベル、それは……本気で言っているの?」
「本気も何も……私本当にお会いしたことございませんよね?」
「…………君はルシアンと会っているよ。最初に会ったのは四歳だ」
「まさか! お兄様、ご冗談はよしてくださいませ。もし本当にお会いしているのならば、私殿下のご尊顔を忘れるはずがございませんわ。そうでなくても、私が婚約者を幼い頃にしか会っていないからと忘れるはずがないでしょう」
「幼い頃? 家族や使用人を除けば一番会っている人物だと思うけれど」
「……本気で仰っているの?」
「それは僕の台詞だよ。王妃教育のために登城すれば、時間が合う限り数分でも会う機会を設けられていたし、この学園でだって、食事は時間が合えば食堂の薔薇園会専用フロアを使わず共にとっていた。最近だって、ルシアンがパーティに出席するときはいつも君がパートナーとして出席していただろう……?」
「…………いいえ、私、ルシアン殿下のこと、本当にご存じないですわ……」
お互いに本当のことを言っている。それが分かるからこそ、私達兄妹はお互いの記憶の齟齬に困惑してしまいました。
先程初めてお会いした婚約者。リエーキル王国第一王子、ルシアン・アンブローズ殿下。一目でわかる、一見して冷たい印象ながらも誰もを付き従える王としての才覚を秘めた方。のちに賢王となられるであろうかの麗しい人の隣に将来立つのだと思うと、今以上に努力しなくてはと鼓舞されたような気がします。しかし今はそう言ってはいられない状況のようです。
私は本当にあの方にお会いしたことがあるのでしょうか? 記憶を辿りますが思い当たる節がありません。昼食を共にしていたとお兄様は仰っていましたが、思い出す限り、私にはアリス様や他の学友の皆様と食事をとっていたという記憶しかありません。薔薇園会の皆様はたまに一般生徒と同じフロアでお食事していましたが、基本的には専用フロアにいたはずです。これほどまでに鮮明な記憶があるのに、お兄様とズレが存在しているのは何故でしょうか。
「俺は、申し訳ないがアーチボルト嬢の言っていることは嘘だと思っている」
口火を切ったのはグレイアム様でした。彼はおもむろに立ち上がり、見せつけるようにゆっくりと私の前にいらっしゃいました。ただでさえ私は席についておりますのに、高身長の彼は立ったまままるで威圧するように私を見下ろします。
隣でグレイアム様に何かを言おうとする兄を止め、視線を返します。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「少なくとも、ここにいる人間は貴女以外、貴女が殿下と何度も顔を合わせていることを覚えているし知っている。貴女だけなんだ、おかしなことを言っているのは」
「私、本当にお会いしたことはございません」
「そうやって嘘をつかれても、心象が悪くなるだけだ」
確かに彼の言うように嘘なのであれば、こんなにも明らかな嘘をつき続けている私はよっぽど滑稽に見えるでしょう。少なくともここにいる方々は私が殿下とお会いしたことをご存知のようですので、彼らにとって、私は突然世迷言を並べ始めた人間ということになります。
しかし、ないものはないとしか言えないのです。人の記憶などという確たる証明ができないものに対して嘘をついているなどと言われても困ります。
このままでは私が意固地になって嘘をつき続けているという汚名を叩きつけられることになります。そんなことは私のプライドが許しません。信じてもらえはしないでしょうが、少なくとも私が嘘をついていないということは信じていただかなくてはなりません。
「……そんなに仰るのであれば、私が嘘をついているかどうか、確かめていただけませんか」
「ほう、どうやって?」
「そうですね、例えば————」
「その必要はありません」
言葉を遮られたのは殿下でした。
******
お兄様に拉致……もとい、連れてこられた際、ルシアン殿下は学園長の元にユルリッシュ殿下をお送りしてから合流しますと言い、嫌がるユルリッシュ殿下を連れて学園長室に向かわれていました。
ユルリッシュ殿下は当初、黒猫の飼い主が分かるまでここれ離れるわけにはいかないと仰り、頑なに動こうとなさりませんでした。黒猫はいつのまにかユルリッシュ殿下が触れることを許し、彼の手元で気持ちよさそうに撫でられています。黒猫は魔力の合わない人間に懐くことはないと聞いていたので、その姿には顔には出ずとも驚いてしまいました。黒猫を撫でるユルリッシュ殿下はやはり優しい表情をなされていて、先程ほどではないにせよ、少し心を揺らされてしまいました。
しかしルシアン殿下が一言「これは私の使い魔です」と言うと、再三再四黒猫をこんなところに放っておくから怪我をしたのだと進言なさり、少々不満気に黒猫をルシアン殿下に引き渡しました。黒猫はルシアン殿下の手に渡ると先程までとは打って変わって澄ました表情になり、ユルリッシュ殿下の手の中にいた黒猫とは別の猫なのではないかと錯覚してしまいそうになりました。
その後ルシアン殿下が感謝の意を述べられてもまだ言い足りていないと言わんばかりの顔をなさり、更に忠告を重ねつつやっと学園長室に向かわれました。
ころころと変わる表情や思っていたことを素直に仰るところを見ると、彼は皇族の者にしては珍しく自由にお育ちになられたようです。七歳ほど離れているという皇太子はこの国にも噂が流れてくるほど優秀で次期帝王がほぼ確実にと聞きますし、他にも上に多くのご兄弟がいらっしゃるそうです。皇位継承とは遠いお立場がそうさせているのでしょうか。
殿下はグレイアム様へと目配せをすると、ご自身の席である一番奥の立派なチェアに腰掛けました。グレイアム様はその隣へと移動し、まるで執事のように背筋を伸ばして立たれてます。
殿下は「お待たせして申し訳ない」と前置きをして、話し始めました。
「私の知る限り、メイベル嬢が自らこのような周りに迷惑をかけることをするとは思えません。最後に会った学園のラストパーティではお変わりなかった様子でしたので、恐らく休暇中に何かあったのでしょう」
「殿下……」
にこりと微笑まれる殿下は、最初の邂逅の際の冷たさが半減し、代わりにこちらへの気遣いを感じます。殿下からすれば私は自身を忘れている不敬な存在のはずなのにこのように気遣って下さるとは、なんと慈悲深い方でしょう。
「お言葉ですが殿下、彼女は貴方がそう仰ることを見越してこのようなことを言っている可能性も考えられます。早計はよくないかと」
「確かに、彼女の言っていることは大変疑わしいものです。私も最初は冗談かと思いました。しかし彼女の表情は嘘をついているようには見えませんでしたし、そもそも彼女がどんな理由であれこのような芝居をうつと思えません。モーリス、疑うということは誰にでもできることです。王としては時には周りを疑うことも必要ですが、私は彼女に厚い信頼を寄せているのです」
ですが、と殿下は言葉を続けます。
「疑うことは誰にでもできますが、疑い続けるということは誰にでも出来ることではありません。メイベル嬢には申し訳ありませんが、彼女を全員が信じるわけにはいきません。そこでモーリス、貴方が皆の代わりに彼女を疑う役目を負ってくれませんか?」
「…………殿下の御心のままに」
恭しくこうべを垂れるグレイアム様とそれを見て微笑む殿下はまさに臣下と国王といったお姿です。私にとってそこまで悪くない落としどころとなってくれ、こっそりと安堵のため息をつきました。
「というわけです。メイベル嬢、疑ってもらうなどと目の前で言ってしまい、貴女には失礼なことをしてしまいましたね」
「いいえ殿下。本来であれば不敬と言われても仕方のない私に対しての寛大な処置、殿下の懐の深さに感謝いたします」
「……貴女は記憶を失っても変わりませんね」
「そう、なのでしょうか」
殿下の表情は微笑んでいるはずなのに寂しそうで、殿下と八年以上を過ごしてきた私は一体どのような人間だったのだろうかと少し不安になってしまいました。殿下にとって、お役に立てる人間だったのであれば幸いですが。
「ところで、どうしてメイベル嬢は記憶を失ったの?」
話を切るようにサンディング様がそう仰いました。手にしていらっしゃるのは三つ目のスコーンだと思うのですが、昼食前にそんなに食べて大丈夫なのでしょうか。
「そう仰られましても、私としては記憶を失ったという感覚はございませんのでなんとも言えませんわ」
「んー、メイベル嬢の記憶では今までの人生がルシアン抜きで進んできた、って感じなのかな?」
「そうとも言えますしそうでないとも言えますね。私は殿下がこの学園にいらっしゃることも、殿下が薔薇園会に所属していらっしゃることもお兄様から伺っておりました。しかしやはり、本日までお会いしたことはございませんでしたわ。王城に通っていた頃はタイミングが合わず会うことが叶いませんでしたし、先程お兄様がお昼を共にしていたと仰っていましたが、私の記憶では、私はアリス様達と昼食をとり、薔薇園会の皆様はほとんど専用フロアでお食事していらっしゃいました」
「なるほど。単に記憶を消してるんじゃなくて、記憶が置き換わってるって感じかな?どんな魔術なの? そんな高等魔術、俺でも聞いたことないよ?」
「サンディング様が魔法や魔術に関してご存知のないことですもの、授業程度の知識しか持っていない私では存じ上げませんわ」
「確かに。ヘイゼル家なら知ってるかもしれないけど、さすがに俺が聞ける立場じゃないしなぁ」
「サンディング家が知らなくてヘイゼル家が知っている魔術がございますの?」
「まぁね。サンディング家とヘイゼル家はどうしようもないくらいの対立関係にあるから、片方が得意とする分野には手を出さないで、それを上回れるよう別の分野からアプローチしてたりすんの。本当馬鹿だなぁって思う」
元は同じ血筋なのにね、と、サンディング様は困ったような笑みを浮かべました。
「それに魔術って魔術師がいかに効率よく発動できるかを極めたものだから、あまり知られてなかったり、一個人が開発したけど他に伝えられなかったような、魔術書には載ってないすごい魔術がたくさん存在するんだよね」
「そうなのですか……」
「だから俺はそういうのを一つでも多く知って、一人でも多くの人が使えるように魔術書に収めたいんだ」
そう語る彼の瞳は幼子のようにきらきらとしていて、少し眩しく感じたのです。
サンディング様は、私の知る薔薇園会の方の中で最も見た目と中身の差が大きい方です。
見た目は青みがかった白銀の、男性にしては長めの髪に、光輝くスピネルの瞳。少し不健康さを感じる青白い肌と華奢な体は中性的な雰囲気を纏っています。よく図書室に足を運んでいるそうで、時折図書室でお見かけすることがあります。その時の、真剣に魔術の本を読んでいる姿は儚さと神々しさを孕んでおり、皆様思わず見惚れてしまうのです。私も何度拝見しても固まってしまい、あっという間に時間が奪われてしまうのです。髪を黒の細長いリボンで結んでいらっしゃるのですが、曰くリボンはご自身作の魔術道具で、強すぎる魔力を抑える効果が付与されているそうです。
しかし一度口を開けば見間違えたのではないかというほど明るく親しみやすい方です。薔薇園会の中でも全ての学年に広く人気の高い彼は、学園の三人に一人は友人であると言われるほど交友関係が広く、年上の方には可愛いがられ、年下の方には尊敬され、同年代からは親しみを持たれています。公爵家の長男であるにも関わらず、この学園では最下位の貴族の男爵位の方とも全く壁を感じさせずに話ができる稀有な方なのです。
「とりあえず、俺は魔術関係で調べてみるね。記憶を失ってるならともかく書き換えられているなら十中八九魔術が原因だろうし」
「まぁ……ご協力いただきありがとうございます」
「どういたしまして。お礼はみんなの憧れメイベル嬢からの感謝のキスでいいよ?」
「ラフェエル! ベルにキスしてもらうなんて許可しないからな!」
ウインクをしながらサンディング様がつんつんとご自身の頬をつつくと、隣ですかさずお兄様からの否定の声が入ります。それに対して、サンディング様はにやにやと笑っていらっしゃいます。お兄様、完全にからかわれていますわね。
「どうしてお兄様が止めるのですか……むしろ、そんなことで宜しいのですか?」
「調べると言っても、そんな面白い魔術の存在を聞いて動かずにはいられないからね。頼まれなくなって調べるよ。こっちこそ、メイベル嬢はいいの?半分くらい冗談のつもりだったんだけど」
「当然安売りはしていませんが、私には魔術に関して調べる手立てがございませんし、このようなことで宜しいのでしたら謹んでお受けいたします。……しかし、サンディング様をお慕いしているご令嬢の方々に知られたら、例えお礼だと申し上げても怒られてしまいそうですわね」
「俺は友人たちに怒られそうだよ」
「まぁ、サンディング様を怒る方なんていらっしゃいませんわ」
「僕は怒るからねラフェエル! ベル! 本気なの? ラフェエルにキスするの?」
「唇にというわけではないのですし、そもそも男性も挨拶として女性の手の甲にキスをするではないですか。アーチボルト家の次期当主がこんなことで泣きそうな声を出さないでくださいませ」
この時、私は自身の婚約者がどういった表情をしていたか見ておりませんでした。見ていれば、違った未来があったのかもしれません。……いえ、気づいたところで私では理由を推測することは出来なかったでしょう。
「まぁまぁ。調べる話はこれくらいで終わりにしよう。でさ、メイベル嬢が記憶を失っているなんてバレるのはよくないし、記憶の擦り合わせした方がいいよね」
「えぇ、確かにそうですわね」
「うんうん。だから隣の部屋でルシアンと二人で話して来たらいいよ」
「えっ」
サンディング様の言葉に思わず驚きの声を上げてしまいました。今日会ったばかりの殿下と二人きりでお話をするなど、私の心臓が持つでしょうか。ただでさえ少し落ち着いたとはいえ、先程二人の殿下に対して身の程を弁えない行動をしてしまいましたし……いえ、先程が最低なのですからどうあってもそれより悪いことなど起きないでしょう。そう考えれば、少しは緊張もほぐれてきましたわ。
「現時点で記憶を失ってるのはルシアンのことだけみたいだし、俺たちが変に言うよりは二人の方がいいでしょ?」
「大丈夫だよベル。部屋の扉は開けておくし、僕の執事を部屋に控えさせておくから」
「そ、そういう問題ではございません……」
ちらりと殿下を見ると、最初に会ったときの冷たい表情のまま私を見つめていらっしゃいました。その瞳に背筋が凍り、思わず目を逸らしてしまいました。私、あのような瞳を向けられることを、何か気に触るようなことをしてしまったのでしょうか。どくどくと脈打つ胸を抑えていると、殿下は無言で立ち上がり私の元へやってきてくださいました。
「では行きましょうか、メイベル嬢」
「は、はい」
努めて自然な動作で顔を上げると、目があった殿下は先程までの表情が嘘のようににこりと微笑まれました。そして殿下に差し出された手を取り、私たちは隣の部屋へと移動したのです。
******
隣の部屋は先程までいた部屋の応接部分の長椅子と机を倍にしたような、広い応接室でした。資料室も兼ねているのか周りには本棚がずらりと並び、どの本棚も資料が綺麗に整理されています。
陛下は私を先に座らせると、お兄様の執事に少し時間をかけるように、とお茶を用意させ、向かいの長椅子に腰掛けられました。命じられた執事は扉は開いたまま、お茶を用意するために部屋を出て行きました。どうやらこの部屋にはティーセットは用意されていないようです。結局殿下と二人きりとなってしまいました。
「……ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
私の言葉を想定していたのか、殿下は苦笑を浮かべました。
「謝らないでください。私こそ、貴女の違和感に気づくのが遅れてしまったことで皆に知られてしまいました」
「い、いいえ、殿下。殿下を煩わせるなど、婚約者として、一臣下として、不甲斐ないことにございます」
ほとんど会話はしていませんが、今日だけで殿下は慈悲深い方なのだと知ることが出来ました。殿下にとって、自分自身についての記憶のみを失っている私は大変不愉快な存在であるはずですが、そんな相手に対して、たまに冷たい視線はあるものの、こちらに伝わるほどに気を使ってくださるのです。十分な人格者と言えるでしょう。将来支えていく立場になるにもかかわらず、今現在殿下を困らせていることに対しとても心苦しい気持ちになります。
「本来であれば殿下を忘れるなど、あってはなりません。しかし正直に申し上げまして、私自身に何が起きたのか、何が起きているのか、自分でもわからないのです。休暇中に何か魔術的行為に関わった記憶もございません。恥ずかしながら、私は魔力はあっても魔術の才はなく、魔術に関してあまり明るくないのです」
そう口にすると、殿下の表情が僅かに強張りました。
「? 殿下? 如何致しましたか?」
「……一つ、質問しても?」
「は、はい」
「貴女は、今まで黒猫を見たことがありますか?」
「え?」
私を見る殿下の瞳は真剣で、緑に吸い込まれそうで、その瞬間、まるで喉を締められたように息が出来なくなりました。まるで何かの審判が行われているような錯覚に陥り、ここで答えを間違えてはいけないと、本能がそう訴えるのです。震えを抑えるように、ぎゅ、と手を握りこみます。
「答えていただけませんか」
「………………今日、初めて見ました……」
瞬刻、あぁ、私は答えを間違えたのだと悟りました。
じっと私を見つめていた殿下はゆったりと表情を崩されました。その表情は一見笑顔に見えるのですが、瞳の奥にゆらりと悲しみの感情が見えるのです。……まるで泣くのを我慢する子供のような。
「で、殿下——」
「今の貴女にこんなことを言うのは間違っていると思います。しかし、言わせてください」
「…………どう、なさったのですか……?」
「————私は、貴女との婚約を白紙に戻そうと思っています」
自分で書いててあれですが登場人物は全員どこか可笑しいです。
*3/10 最後の話が二人きりで行われていることを明確化するよう修正しました。また部屋数を三部屋→複数の部屋に変更しました。
*4/29 色々修正しました。