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はじめまして皆様。
私の名前はメイベル・マリア・アーチボルト。公爵位を賜っておりますアーチボルト家第二子にして長女でございます。
父は一臣下として貴族に下った王弟、母は代々政の中核を担っているアーチボルト家のお姫様。そんな両親から生まれた私には物心ついたときからいと尊い婚約者がいます。我がリエーキル王国第一王子、ルシアン・アンブローズ殿下でございます。
この国の第一王子の婚約者。つまり私は未来の王妃というわけでございます。
とは申しますが、残念ながら機会に恵まれず、今まで私自身が殿下にお会いしたことはございません。幼い頃から殿下は大変お忙しい方と聞いておりましたし、私からも殿下にお会いしたいと申し上げることがなかったのです。しかし将来この国の長となる方を支えるべく、幼い頃より王妃教育を受けて参りました。
そんな私は現在、王立フィリアナ学園の一生徒として勉学に励んでおります。
ただ、この国では女子が学問を修めることはあまりよしとされないため、学園ではどの学問も上澄み程度の内容しかいたしません。一応選択式ではございますが、女子の授業はほとんどダンスやマナー、刺繍などで構成されているのです。男子はその間に剣術やより深い内容の勉強をしているので、同じクラスでも同じ授業を受けることは少なく、お互いに交流する機会は授業時間外が主なのです。では何のために通うのか、それは貴族の子息の方々とのコネクションを作るためと言えるでしょう。
私は公爵家の娘であり次期王妃ということで、学友の皆様はいつも優しくして下さいます。中には私とのコネクションを作ろうと躍起になる方もいらっしゃいます。上位の者に取り入り自分の地位を上げようとすることは貴族として当然ですし、そのことについて何かを思ったことはありません。それに、中にはその思考が明らかなのに、気がつくと懐に入ってくるような方もいらっしゃいますし、人付き合いとは勉強とはまた違った意味で面白いものです。
現在この学園には私の二つ上の学年に、第一王子のルシアン殿下がいらっしゃいます。更に将来の側近候補であり私の兄であるマーヴィンお兄様、同じく側近候補のモーリス・グレイアム様、専属魔術師候補のラフェエル・サンディング様などの主要な名門貴族の子息もいらっしゃいます。
この学園は十二歳の貴族の子息に入学が許される六年制の学校なのですが、先に挙げた方々は三年生の頃には生徒会執行部に所属し学園の頭として御活躍なさっています。彼らの仕事は既に歴代の執行部と遜色ないと聞きますし、尊敬の念を抱かずにはいられません。
先週までは領地にあるカントリーハウス、昨日までは王都にあるタウンハウスで過ごしておりましたが、本日、長期休みが終わり、新しい学年、二年生として久しぶりに学園に帰って参りました。
この学園は全寮制で、授業がある期間は身分問わず入寮が義務化されております。部屋は一人もしくは二人部屋を選択することができるのですが、私は一人部屋を選択しました。ほとんどの貴族は一人部屋を選択するのですが、お兄様は第一王子と二人部屋だそうです。仲がよろしいようで、我が家としても何よりでございます。
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「ご機嫌よう、メイベル様」
「ご機嫌よう、アリス様」
馬車から降りてすぐに、私の一番の友人にお会いしました。完璧なお辞儀とともに、彼女の桃色がかった茶髪がさらりと揺れます。
彼女の名前はアリス・コールリッジ様。幼い頃からの友人であり、お兄様の婚約者でもあります。彼女とは彼女が兄の婚約者になる前から友人関係にあり、また彼女の父も私の父と友人であると聞いております。
彼女は第一子であり下に兄弟姉妹がいるからなのか、一見ふんわりとして穏やかながらも大変面倒見の良い方です。私が王妃教育や学業などで疲れているときには、誰よりも先に気づいてくださいます。そして疲れに効くというお茶を送ってくださったり、気分転換にとお茶会に誘ってくださったりするのです。そのお茶会も私への負担を減らすために少数や二人きりのものが多く、聞き上手な彼女といるとついつい話が弾み、気がつくとすっかり疲れが取れているのです。
私の目標の一つである、相手を思いやり、細やかな気配りのできる女性の見本が彼女なのです。
「お久しぶりですわ。先月のお茶会以来かしら」
「はい、あの時の素敵なお菓子は家族で美味しくいただきました。両親も兄も気に入ったようで、この間新作を買ってきてくださいましたの。……あら、本日のその髪留め、もしかしてお兄様から頂いたものでしょうか?」
「ええそうなの! この間お会いした際にアーチボルト様から頂きました。私あまり自分の髪が好きではなかったけれど、これのおかげで少し自信が持てるようになりましたの」
「まぁ、アリス様の髪は普段も素晴らしく艶やかですが、光に当たって桃色が強くなった際は、まるで愛の女神のように神々しく美しいではありませんか」
「ありがとう。アーチボルト様も同じことを仰ってくださったわ。兄妹は感性が似ているのね」
「まぁ、尊敬するお兄様と似ているなんて、光栄なことですわ」
そんな風に休暇についての花を咲かせていると、突然ざわめきが大きくなり、背後がにわかに騒がしくなりました。思わずアリス様と顔を合わせ、苦笑してしまいます。彼らの人気は年度が変わっても健在なのですね。
振り返ると、見目の麗しい真っ白な集団が講堂へ向かわれるところでした。声の主は予想通り、彼らを見る少女達だったようです。
先程も少し名前を挙げましたが、我がフィリアナ学園には学園の行事を執り仕切る、生徒のみで構成された生徒会執行部、通称“薔薇園会”というものがございます。
彼らの仕事は学園行事の執行や学園への招待客の対応など、この学園を国に見立てた政のようなことです。また、代々薔薇園会には上位貴族の男子しか所属を許されておりません。
薔薇園会という名前は彼ら専用の建物が薔薇園の奥にあることかららしいのですが、男性しか入れないのに薔薇園なんて少し変わっていると思ってしまったのは私だけではないはずです。
薔薇園会の皆様は、他の生徒のスカーフとは違う薔薇色——赤紅色のスカーフと、一人一人のイメージに合わせて作られる特注の薔薇モチーフのシルバーブローチの着用を義務付けられています。加えて、真っ白な生地に金色の刺繍が施されたローブも用意されております。こちらは入学式や外部での式典などの代表として立つ場のみの着用義務でございますが、大変目立つため、遠くからでも彼らが我が校の代表であると一目で分かるのです。
スカーフなどの薔薇園会の“証”は毎年支給されるので、中には複数個持っていらっしゃる方もいます。大体は四年生か五年生になると入会のお声がかかるそうなので、早ければ五年生で二つずつ持っていることになります。どうして毎年支給なのかと思っていたのですが、どうやら薔薇園会は学園内外で目を引く存在であるため、貴族たちへのいい宣伝になるそうで、毎年自らの腕を売り込もうというデザイナーがあとを絶たないそうです。年々増えるそれらを無下にするわけにもいかず、一年ごとに送られてくるデザインの中から選ばれたものを証として身につけます。そして薔薇園会が選んだブランドはその年の先駆けとなるそうです。まさか新調していたことにそんな裏話があったとは、その話を聞いたときは商いというものの一片を見た気がしまして、大変勉強になりました。……失礼、少々話が逸れてしまいましたわ。
証——その中で唯一毎年デザインが変わらないブローチにまつわる学園の習わしの一つとして、薔薇園会の方が自分の想い人に自分のブローチを送るというものがあります。ブローチは一人一人デザインが異なるため、誰のブローチなのか一目で分かります。送った方は同性への牽制になりますし、受け取った方は選んでもらえたという称号を得ることができるのです。ブローチを受け取った女性は薔薇園に選ばれた花として薔薇姫と呼ばれ、女生徒の憧れとなります。実際にこの学園には現在何人か薔薇姫がいらっしゃいます。
……と、この話を素敵な習わしだと喜ぶのは、この学園の大多数の習わしに縁のない人間だけです。
薔薇園会に籍を置くのはこの国の最上位の貴族のご子息で、彼らには半分ほどの確率で両家が決めた婚約者がいらっしゃいます。そのため、ブローチを受け取るのは往々にして彼らの婚約者の女性ということになります。
つまり、婚約者であるにもかかわらず送られない女性は、婚約者及び婚約者の家から認められていないということを周りに知らしめられることになるのです。公開処刑と言って差し支えないでしょう。実際に過去に何度かあったようで、その後婚約を解消するに至った方もいらっしゃるとか。しかし送られれば認められたと周りに示すことができるものでもあるため、なくなることなく、今に続く習わしとなっているのです。
お兄様は今年で薔薇園会に所属して二年目ですので、本日二つ目のブローチを受け取られることになっています。長期休暇の間、お父様とお母様からはアリス様にお渡しすることに関して異議などなかったように思いますし、無事にお渡しして下さればよいのですが。
因みに婚約者がいる立場で婚約者以外の女性に送るというのは両家に大きな溝を生むことになるので、男性が余程の愚か者でもなければそんなことは起きないようです。かつてこの学園に通っていたお父様もお爺様も、婚約者がいるにも関わらず婚約者以外に送った人がいるとは聞いたことがないと仰っていました。今の王国の重鎮にそのような愚か者がいないと知って安心しましたわ。
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ぼんやりと彼らが講堂に入るのを見届けていると、アリス様が小さく口を開かれました。
「本日はお声掛けしなくてよろしかったのですか?」
一瞬問われた意味が分からなかったのですが、恐らく生徒会の方々に、ということでしょう。私は生徒会の方々と兄を介して何度かお話しさせていだだいておりますので、お見かけしたのならば皆様にご挨拶をした方が良かったのではないかという進言だと思われます。
「領地でお兄様にお会いした際に、本日は朝からお忙しいと聞きましたの。ですからお声掛けは控えさせていただきました」
「そう……? 貴女がいいのであればいいですけれど……」
そう言うものの、アリス様はなんとも言えない表情で、しばらく彼らが入っていった扉を見つめていました。
「薔薇園の皆様が来たということはそろそろ時間でしょうか」
「そうね、私達もそろそろ講堂に参りましょうか」
「ええ」
乙女たちは薔薇園会の皆様が来るのを待つために外にいたようです。気がつくと周りには疎らに生徒がいるという状況でした。
始業式では新入生を除いた二年生から六年生が集められ、式の一部として薔薇園会の拝命式が行われます。と言っても余程のことがなければ一度入った方が抜けることはございませんし、新しく入るはずの四年生は去年に入っていますので、卒業なされた六年生以外は去年とお変わりなさそうです。いえ、そういえば、今年はお一人特別な方が薔薇園会に入ることになるとお兄様が仰っていた気がします。特別な方とはどなたでしょう? 今年ご入学なさった第二王子のことでしょうか?
「……あら?」
ふと、視界に校舎に向かっている生徒が映りました。あと十分もしないうちに始業式が始まるというのに、ちらりと見えた後ろ姿はふらふらと逆の方向へ向かっているようです。
一瞬どうするべきか悩みましたが、もし体調を崩して保健室に向かっているのであれば誰かが付き添った方がよいのではないでしょうか。そうでなくても、もうすぐ始業式が始まってしまいます。他の理由として考えられる“サボり”ならば、見つけた以上連れ戻さなくてはなりません。
「……アリス様、先に講堂に入っていてくださいませんか? 私は後から参りますので」
「え? えぇ、わかったわ。もうすぐ始まってしまうから、遅れないように気をつけてくださいね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
急いでいても礼は大切です。お互いにスカートをつまんで挨拶し、私はアリス様と別れ、校舎へと向かいました。
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なるべく見失わないようにと早足に追いかけたのですが、なかなか見つかりません。その間にも刻一刻と始業式の時間が迫っていましたが、私は探し続けることにしました。もしかすると保健室に向かったつもりが、迷子になってしまわれているのかもしれないからです。
この学園は迷路のような複雑な構造をしており、生徒の中には未だに覚えきれていない者もいるようです。私も覚えきるのに一ヶ月以上かかりました。
同じフロアの別の階段を上がるとそれぞれ違う階に辿り着く、まっすぐ歩いていたつもりが上から見ると斜めに進んでいた、なんてことが常識の構造なのです。おかげで方向感覚が狂い、気がつくと反対側に出てしまうということが頻発します。最初の頃は教室移動の度に迷子による遅刻者が出ていたほどです。しかし建物が傾いているというわけでもなく、階の間が歪んでいるわけでもないのです。一体どういった建築設計をしたのか、設計士の方に聞いてみたいですわ。
「一体どこまで行ってしまわれたのでしょうか?」
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結局その生徒は、想像していたよりも講堂から離れたところで発見いたしました。発見場所は保健室とも離れた場所——薔薇園会の名前の由来である薔薇園でした。
見つけたとき、その生徒は花壇の前で座り、何かを呟きながら見つめていらっしゃるようでした。
「よ、ようやく見つけましたわ」
元々体力にはあまり自信がありませんので、歩き回ったことにより息が上がってしまいました。まずは建物の陰に隠れ、上がった息を整えます。幸いなことに私のことは気付かれていないようです。淑女たる者、常に呼吸を乱すことなく優雅であるべきですわ。
……さて、どう声をかけたらいいのでしょうか。
しばらく考えてみましたが、特に案も思い浮かばなかったので普通に声をかけることにいたします。
「もし、そちらの座り込んでいらっしゃる方?」
「! 誰だ!」
かなり驚かせてしまったようです。ぐるんと振り返ったその生徒の勢いに押され、一歩足を引いたところでぱちりと目が合いました。
陽の光に照らされ輝く茶色の髪と、きりりとした翡翠の瞳。少し日に焼けたであろう肌はこの国では少々珍しく、全体的に顔立ちがはっきりとしています。少年から青年に変わり始めた頃といった具合の容貌を持つ、大変美しい男子でした。
しかし私にはその方の見覚えがなく、相手も警戒心を露わにしていらっしゃいます。学年カラーから察するに三年生のようですが、どうして上級生がこのようなところにいらっしゃるのでしょうか。
「驚かせてしまい申し訳ございません。私は第二学年に籍を置いております、メイベル・マリア・アーチボルトと申します」
ぺこりと淑女らしく礼をとります。
私は多くの貴族の顔を覚えるよう教育されてきたので、この国の貴族の顔はほとんど頭の中に入っています。特にアーチボルト家よりも爵位の高い貴族、同率の貴族、一部の爵位は下ですが交友関係にある貴族の家族は、王妃教育とは別に我が家としても念入りに叩き込まれました。そのため、私が顔を知らない、もしくは思い出せない彼は恐らく私よりも爵位は低く、家としての縁も遠い方のはずです。
本来であれば、上位貴族から下位貴族に名乗るのはマナー違反です。しかしここは平等を謳う学園ですし、そもそも私が不用意に声をおかけしたせいで驚かせてしまったのですから謝罪の言葉は必要です。そのついでに名乗ったのですから問題はありません。それに、私が告げ口をしなければ彼も誰かに咎められたりしないはずです。
相手は私の名前を聞いて思い当たるところがあったのか、少し警戒心を解いてくださいました。
「ああ、ルシアンの婚約者はお前か」
————今度はこちらが警戒する番となりました。
第一に、アーチボルトという名前を聞いてなお敬語もなく私に返事をしたことです。いくら私の顔を知らないとはいえ、流石にこの国の貴族でアーチボルトと聞いてこんなふうに口を聞く者はいません。……そもそも、名乗った相手に名乗り返さずにいるということがあり得ないことなのですが。
第二に、彼の言うルシアンとは、他にいらっしゃるのでなければこの国の第一王子の名前です。その殿下を呼び捨てになさるのは、余程自分の地位を捨てたい愚か者か、全く貴族教育を受けてこなかった子息——往々にして何か訳のある庶子ということになります。
私は口元がひくつくのを完璧淑女の笑みで抑えこみました。これくらい、造作もありません。ええ。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
そう問うと、相手は驚いた表情で私を見て、「そうか、会ったことはなかったな」と呟きました。
「そんなことより誰でもいいから魔術師を呼んできてくれないか」
「そっ……」
そんなこと?
流石の対応に思わず口元が引きつり、私は目の前の先輩への視線を厳しいものに変えざるおえませんでした。扇子がありませんので、口元に手を当てて隠す振りはいたしましたが。
名乗る必要がない、それはお前には名乗るほどの価値はないという意味で、侮辱していると言われても文句は言えません。しかしそれをこの目の前の少年は平然と言いのけたのです。
思わず手を握りしめてしまいましたが、次の彼の言葉に私は多少、その怒りを鎮めるのでした
「どうやら迷い込んだようだ。しかし私はそこまでの魔力はなくてな……」
彼の体に隠れて見えていなかったのですが、花壇には真っ黒な猫が警戒心を剥き出しにしてこちらを睨んでいたのです。
はじめに、この国は他国とは大きく違う部分があります。それは魔法や魔術が使える人間が多くいるという点です。魔法や魔術に関する説明は割愛しますが、どちらを扱うにしてもある程度の魔力が必要で、そのある程度の魔力を有した人間がこの国には多くいるということです。多くと言っても全員が使えるわけではなく、術式を組まずに使う魔法を扱えるほどであれば限られた貴族と王族のみです。それでも他国に比べれば多いと言えるでしょう。
この国において魔法が使えるのはほとんどが偉大なる魔法使いトリストラム様の血を引く者で、彼の娘が公爵位を賜ったサンディング家と、彼の息子が侯爵位を賜ったヘイゼル家の二つの家が筆頭です。彼らは五大爵位や準爵位とは別に“魔爵位”を賜っており、現在に至るまで王家や王国の発展のために多くが魔術師として尽力しています。魔爵位は一般に伯爵と同等と考えられています。五大爵位で持っている爵位が一番高いものが子爵位でも魔爵位を持っていれば、魔爵位を名乗る方が多いのです。
王族が使えるのは、トリストラム様の娘がこの国の王妃として嫁いでいらっしゃったことにあります。かくいう私も王族の血を引く者ということで、多少の魔法と魔術を扱うことができます。
次に、この国では黒猫は存在しません。黒猫とは、魔術師が猫を使い魔にした際にその体を黒く染めることで生まれるのです。ですから今目の前にいる黒猫は魔術師の使い魔ということになります。黒猫は主人か主人と近い魔力の持ち主にしか懐かず、それ以外の者が触れようとすると噛み付かれたり逃げてしまったりしまうのです。
よく見ると名無しの彼の腕にはいくつかの引っ掻かれた跡があり、私はようやく彼がここにいた理由を知りました。黒猫は前脚を怪我しているようで、彼はそんな猫をどうにかして保護し、手当てしようとしていたのです。
状況を把握し彼の言葉に従おうと思いましたが、その前にと私は口を開きました。
「一度、私が試してみてもよろしいでしょうか?」
「お前が?」
「はい。私は王家の血族でして、魔力もある程度ございます。もしかすると私なら警戒心を解いてくれるかもしれません」
「…………なら、頼んだ」
不敬な態度は変わりませんでしたが、彼の猫を心配する瞳は本物であると感じました。
私は下がった彼と入れ替わるように猫の前に座り、ゆっくりと手を差し出します。そして猫に向けて魔力を少しずつ送ります。この時決して触れてはいけません。どんな猫も、突然触っては怯えられ、最悪逃げられてしまいます。
黒猫はしばらくこちらを警戒していましたが、じっと待っているとすんすんと私の指に鼻を近づけ始めました。湿った鼻が当たるたびに指がぴくりと動いてしまいましたが、そのまま辛抱強く待っていると、にゃあんと一鳴きして警戒を解き、同時にするりと頬を擦り付けてきました。
そこまで見て、私と名も知らぬ先輩はようやく息をついたのでした。
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抱え上げて確認すると、黒猫の右前脚に薔薇の棘のようなものが刺さっていました。深くは刺さっていなかったのですが腕の中でじたばたと動き回るため、私の腕に当たった棘がますます深く刺さっていき、その痛みにさらに暴れるという悪循環。
仕方なくその場で抜くことに決めてなんとか宥めて棘を抜き、緊急処置として近くのホースから水を拝借して患部を洗い流し、私のハンカチを巻きました。
「協力に感謝する。俺ではどうにも警戒されて手当てができなかったんだ。だからといって放置するのは目覚めが悪いし、魔術師を呼びに行く間に変なところに紛れ込んで、更に怪我が悪化すればもっと目覚めが悪い。そんな風に考え始めたことでここから動けなくなって途方に暮れていた」
「そうでしたか。こちらこそ黒猫を見捨てずにいて下さりありがとうございます」
「? どうしてお前がお礼を言うんだ?」
こてんと首を傾げる少年は、先程とは違い少々幼く見えます。そのあどけなさにくすりと笑うとむっとした表情になり、それが彼をますます幼く見せていました。
「私達魔力のある者にとって黒猫は大切な友人なのです。私は魔術師にはなりませんが、父から使い魔を大切にする必要性は厳しく教えられています。このまま放置していたら、私は父に叱られるところでした」
「そうか……」
話を聞き、彼はふわりと優しい笑みを浮かべ黒猫を見つめました。その笑みが先程までとは違いとても優しく、私に向けられたものではないとは分かっていても一瞬心惹かれてしまいました。私は慌てて隠すように言葉を紡ぎます。
「ですが今からでは式には間に合いませんね。恐らくそろそろ終わる頃でしょう」
「あ。……ルシアン怒るだろうなー」
「……。失礼ですが、貴方は一体————」
「ユルリッシュ殿下」
背後から、見知らぬ声が聞こえました。
「げっ!」
目の前の名無しの男子——ユルリッシュ殿下は綺麗な顔を歪めて声の主を見つめます。同時に私はその言葉に固まりました。殿下、つまり王子? いえ、この国の王子にユルリッシュというお名前の方はいらっしゃいません。では、他国? その瞬間、私の脳裏に浮かぶ名前がありました。
隣国のクランフ帝国。そこの第三皇子の名前はユルリッシュではなかったでしょうか。
さぁっと、血の気が引くとはまさにこのことでございましょう。へたり込まなかったのは、私が普段から、いついかなる時でも弱味を見せてはならないという心構えをしてきた努力の賜物です。日々の自分の心構えを褒めてあげるべきでしょう。
そんな風に固まっていると、殿下といた私のことに気づいたのでしょう、背後から「メイベル嬢?」と呼ぶ声が聞こえました。私は反射的に振り返り、息を呑んだのです。
日の光のように輝く金色の髪と、深緑のような翠の瞳。新雪を思わせる真っ白な肌。すっきりとした鼻筋と形のいい薄い唇。まるで彫刻のような、光に透けて消えてしまいそうな見目麗しい男性がそこにいました。
学校指定の黒いジャケットとスラックスは薔薇園会のみが許される真っ白なローブに包まれていて、ローブからのびる腕や脚はすらりと細長く。差し色となっている赤が彼の顔色を明るく見せ、辛うじてこの世に存在していることを示しているようです。
その男性は私の顔を見ると一瞬驚いたような表情になりましたが、すぐに冷たい瞳に戻りました。
「殿下、どうして貴方は式にも出ず、このようなところにいらっしゃるのでしょうか」
「さ、サボるつもりはなかった。怪我をした黒猫を見かけて、そいつを追いかけて、気がついたらこんな時間に……」
男性は黒猫という言葉にちらりと私の手の中の黒猫に視線を移した後、分かりやすくため息をつきました。
「黒猫の扱いは貴方ではどうしようもないことはご存知でしょう? 黒猫は他の猫とは違い多少の怪我では死に至ることはありませんし、契約している魔術師であれば傷程度すぐに治せます。貴方は早々に見切りをつけて式に来るべきでした」
「そっそうかもしれないが、生憎母国では傷付いた猫を放置してもいいなんて教育は受けていないんでな!」
「いいえ、貴方は今回クランフ帝国と我が国の親交の為に来たはずです。猫……それも黒猫を助けていたから式に出られなかったでは許されません」
「ぐっ! それは……」
「お待ち下さい」
気がつくと、男性が口を開く前に私はそう言ってしまっていたのです。本来このように他人の会話に割り込んではいけません。しかも今回話をしていたのは、かたやこの学園を執り仕切る薔薇園会のメンバー、かたや他国の殿下。いくらこの国の上位貴族に籍を置いているとはいえ、この学園では一生徒です。あまりにも無謀な行動でした。
一気に二人の視線がこちらに向きます。正直なところ、考えなしに二人の間に割って入った自分の行動に驚いていて内心真っ青となっているのですが、口出ししてしまったのだから仕方ないと気を引き締めます。
「突然の無礼を失礼致します。私は第二学年に籍を置いております、メイベル・マリア・アーチボルトと申します。発言の許可を頂けますでしょうか」
「……分かりました、許可しましょう」
「寛大なご判断、ありがとうございます。……貴方の仰る通り、殿下も私も本日の式に参加できませんでした。大変申し訳ございません」
まずはきっちりと謝罪するところから。私は黒猫を一度庭に下ろし、謝罪の礼をとりました。幸い黒猫は逃げず、私の脚に擦り寄ってくれています。
「しかし殿下は本来であれば式に間に合っていました」
「……それはどういう意味でしょう?」
「お優しい殿下は黒猫を放っては置けないと魔術師を探し、私を見つけました。そして私に魔力があると知り、黒猫を頼もうとしていたのです」
隣で殿下が驚いた顔をしていたのでとりあえず見えないように背広を引っ張り、表情をなんとかさせます。
「本来であれば私に伝えた時点で殿下は式に向かわれる予定でした。しかし他ならぬ私が彼をこの場に留めてしまったのです」
一度区切り、お腹に力を込めます。
「魔力は契約している魔術師の方と親和性が高かったようなのですが、どうにも猫の扱いを理解できていなかったようで、突然触ろうとして怖がらせてしまいました。それを見ていた殿下は私に猫の扱いを手解きして下さり、先程ようやく手当てを行うことができたのです」
「…………その話は本当ですか、殿下」
「え? ……あ、あぁ。嘘じゃないぞ!」
……その発言が何より嘘をついていると示していることに気づいていらっしゃるのでしょうか。
しかし私はそれについては触れず、再び謝罪の礼を取ります。
「私の不手際で両国の親交の門出を邪魔してしまいまして、申し訳ありませんでした。何卒賢明な判断をお願い致します」
顔を上げると、薔薇園会の男性はじっと私の目を見ていました。安心感を与えるはずの深い緑は冷たく、まるで射抜くような瞳は私の考えを見定めようとしているようで、ぞくりと背筋が凍ります。しかし今更先の発言を撤回するつもりはありません。視線を逸らすわけにもいかず、私も真っ直ぐに見返します。
隣で殿下が「よく貴族の女子にそんな目向けられるな」とぼやいていましたが、むしろこれだけつらつらと嘘を並べ立てたにもかかわらず、すぐには口を開かず真意をお考えいただいているのです。今の私達は口を出せる立場にはありませんわ。
よく言えば見つめ合う、悪く言えば睨み合う時間が続く中、ふと気付きます。
そういえばこの方は一体誰なのでしょう?
身につけているものから、薔薇園会の一員ということはわかります。しかし代わりに学年がわかりません。学年はスカーフの色や制服のところどころに散りばめられた差し色で見分けがつくようになっているのですが、ローブで制服はよく見えませんし、唯一見えるスカーフは赤色です。しかし身長や顔立ちからおそらく上級生の方でしょう。薔薇園会に入るような上位貴族で私よりも年上の方に、このような美しい方はいらっしゃったでしょうか……?
その答えは、新しい第三者によって明らかとなりました。
「ルシアン! ユルリッシュ殿下が見つかったって?」
お兄様の声です。どうやら皆様でユルリッシュ殿下を探し回っていたようです。確かに隣国の王子が学園内で行方不明になったとなると、薔薇園会が動くというのは想像に難しくありません。いえ、恐らく薔薇園会だけに留まらず、教職員の方々も総出の捜索になってしまっています。もう少し遅ければ騎士や魔術師が出てくる騒ぎになっていたことでしょう。隣で黒猫に気を取られている殿下にその意識はなさそうですが。
お兄様の言葉から察するに、私たちが気付かないうちに目の前の薔薇園会の彼が連絡したのでしょう。目の前の人間に気付かせないよう連絡を取る魔術が組めるなんて素晴らしい魔力と魔術の知識の持ち主なのですね。将来は魔術師になるのでしょうか。……いえ、いい加減現実を見なければなりませんね。
お兄様の呼んだ名前に、私はまたしても顔を青ざめなくてはなりませんでした。
二度目ということで耐え切れずにふらりとぐらつき、隣にいたユルリッシュ殿下に支えていただく形になってしまいました。心配そうに私の名前を呼ぶ殿下には申し訳ありませんが、淑女の礼をとってお礼を言えるほど私の精神は回復できていません。だって、そんな、まさか。
ルシアン。お兄様がそう気安く名前を告げた目の前の麗人は、私の婚約者のルシアン第一王子なのです。
他国の殿下に失礼な態度をとってしまったと思い慌てて庇ったら、嘘を並べた相手が自分の婚約者である自国の殿下だったなんて、現実は小説より奇なり、ということでしょうか。……いくらなんでも現実でそんな目に遭うなんて思いませんわ!
ユルリッシュ殿下に支えられながらなんとか体勢を整えた私は、未だに冷たい視線を送る第一王子に向けて最上級の謝罪の礼を取ります。
「大変申し訳ございませんでした、殿下。先程は殿下とは知らず、いと尊いお二人の話に割って入るというで過ぎた真似を致しました。深くお詫び申し上げます」
思っていたよりも頭が回っていなかったようで、更に罪を重ねてしまいました。アーチボルト家の娘ともあろうものが殿下のご尊顔を知らなかったと宣うなんて。今までお忙しいと聞いてお会いしてこなかった付けが回ってきたということね。私の浅慮な行動でお兄様やお父様のお立場まで悪くしてしまったら、私二度とアーチボルト家の敷居を跨ぐことができませんわ。今後の身の振り方を考えなくては。
しばらく頭の中で現実逃避を重ねていたのですが一向に沙汰がおりません。不思議になって顔を上げると、冷たい表情はそのままですが、少し目を見開いて、おそらく驚いていらっしゃる顔の殿下——ルシアン殿下と、後ろからやってきたであろうお兄様や他の薔薇園会の皆様が見えました。
ルシアン殿下以外の皆様は何が起きたのかわからないようで、ルシアン殿下と私を見比べては訝しげな顔をしています。
「え、嘘、お前たち初対面なの?」
空気を壊すように、びっくりしたような声でユルリッシュ殿下が呟きました。
私はちらりとルシアン殿下を見ましたが彼は相変わらず固まっていましたので、僭越ながら代わりにお答えさせていただきました。
「はい。私、ルシアン殿下とは本日初めてお会い致しました」
その言葉に、今度は薔薇園会の皆様が驚いていらっしゃいました。
この回で1/3くらい書きたかったこと書いてしまって既に達成感が……。
あとメイベルさんの口調がとても書きづらくて結構おかしな日本語になっている気がします。見逃してください(言い訳)
次回話からは一話のボリュームが減ります。
4/29:呼び方等一部変更しました。