◇聖女様、お目覚めの時間ですよ? (3)
「アンジェラお嬢様、大丈夫ですか?」
返事を期待する訳でもなく、メリルは制服に付いた埃を、ぱたぱたとはたき落とす。その後、アンジェラをゆっくりと立ち上がらせた。
幼い頃より側に仕え、食事の世話から浴室で体を洗い流したりと、全てにおいて気を配って面倒を見てきたのである。メリルにとっては手慣れたものであった。念入りにアンジェラの体の周りを確かめ、
――良し、大丈夫ね。
と、どこにも怪我が無いのが分かると、ようやくホッと安堵の吐息をもらした。
そこでようやく、メリルは周りの様子にハッと気付いたのだ。人の流れが二人を中心に大きく迂回し、混み合う雑踏の中にぽっかりと空いた場所になっていたのである。中には少し立ち止まり、不躾な視線を向けてくる者までいる程で、周囲からはかなりの注目を集めていたのだ。
「あっと……お嬢様。さ、早く行きましょう!」
たちまち真っ赤になったメリルが、慌てたようにアンジェラの手を引きこの場を離れようとする。それに感情を表すこともなく、素直に従うアンジェラだった。
万事がこの調子。幼い頃より世話をしてきたメリルにとっては、アンジェラは手も掛からず、今まで面倒だと感じた事もなかった。しかし、最近は周りから注目される事に、恥ずかしさを覚えるメリルなのである。が、それによって、アンジェラに対して不快だと感じる事もない。
本来は学園に入学するのも望むべくもないメリル。それが今では、魔導学の最先端を学ぶことが出来るのだ。それもこれも全て、アンジェラのお陰とも言える。男爵家及びアンジェラには、感謝もひとしおのメリルなのである。
それに何より、学園に入学して半年――入学当初は男爵家の人々から、学園での様子を根掘り葉掘りと頻繁に聞かれたものだが、近頃は滅多にたずねられる事もなくなった。
――旦那様も奥方様も、ついにアンジェラお嬢様に関しては、匙を投げられたのかしら。
と、不審を覚えるのだったが、メリル自身はまだ諦めていなかった。いや、諦めるというよりか、
――いつか、アンジェラお嬢様と楽しくお喋りが出来るはず。
と、アンジェラの回復を信用しているといっても良いほどだった。何故なら、メリルは知っていたから。誰もが見た事もない、アンジェラが自らの意思で動く姿を、メリルは見たことがあるのだ。
――あれは……幻覚だった?
それが起きたのは、ちょうどメリルやアンジェラが、まだ十歳にも満たない頃の、夏の日の出来事だった。その夏は、男爵家は避暑をかねて別荘地へとバカンスに来ていた。
メリルにとっては、初めてのバカンス。アンジェラ付きの侍女とはいえ、まだ幼いメリルは大はしゃぎだった。だから誰かに告げる事も忘れて、アンジェラを連れ出し近くの川へと遊びに行ってしまったのである。
そこで川遊びも初めてだったメリルは、つい深みへと――ここが別荘地だったのも、あだとなった。帝都にある本宅であれば、二人がいなくなったことにも直ぐに気付いたのであろうが、生憎とそこは遠く離れた別荘地。男爵家の人々も全てにおいて目が届くはずもなく、いないことに気付くのに遅れたのである。
深みに嵌ったメリルが、必死に手を伸ばす。だが、近くいるのは自ら動いた事もない人形姫と呼ばれるアンジェラのみ。助けようとする者など、誰もいないのだ。
――く、苦しい! だ、誰か助けて!
伸ばした手は空しく宙を掴み、メリルは水の底へと沈んでいく。もがき苦しみ薄れていく意識――ここから先の事は、メリルもはっきりとは覚えていない。
大量の水が口の中に流れ込み、息が出来ず――そこで、ふと、急に苦しみが薄らぎ、体がふわりと浮き上がったのだ。覚えているのは、ふわふわとした浮遊感。何かに体が包まれて――気が付くと、メリルはにっこりと笑みを浮かべるアンジェラに、抱き締められていた。
メリルの意識が保てていられたのは、そこまでだった。その後は、プツリと意識が途切れてしまったのである。
――あれは幻?
そして、その夜も――結局二人は、いない事に気付いた男爵家の人々に助け出された。しかしメリルは、川の水を大量に飲み込んだのが悪かったのか、意識を失ったままその夜は高熱にうなされる事となってしまった。その時もまた、夜も更けた深夜に夢現でベッドで寝かされていた時に、何やら暖かなものに全身が包まれ癒されていくのを覚えたのである。ベッドの傍らから漂う、赤子の頃より慣れ親しんだ気配を感じながら……。
――あれも夢?
アンジェラの手を引きながら、メリルはそんな昔の事を思い出していた。今となってはあの時の事が、夢や幻だったのか、或いは現実に起きた事だったのかは、はっきりとは分からない。当の本人であるアンジェラにたずねても、答えは返ってこないのだから。それでも、メリルは信じるのである。いつかは、アンジェラお嬢様本人が教えてくれるはずだと。
後ろを振り返ると、あらぬ方向に視線を向けたままのアンジェラが、メリルに導かれてトコトコと、後ろを付いて歩いて来る。その姿に、くすりと笑うメリルだった。
――でも、あれがお嬢様の魔法だったのなら、それはそれで少しおかしな話なのよね。
と、メリルはちょっと首を傾げる。
メリルも、アンジェラが驚くほどの魔力を有しているのは知っていた。だが、魔法を使うのには触媒となる魔石が必要なのである。それが世界の常識であり、学園の魔法学でも、メリルはそう習っていた。そのため、魔導士と呼ばれる職業の人たちは、魔石が嵌め込まれた短杖を用いて魔法を扱うのである。今では軍事は勿論の事で、それ以外にも建築から製造業まで様々な分野で魔導士は活躍しているのである。しかも現在では、充魔式の魔導器具まで販売され、魔力保有量の少ない一般人たちまでが、気軽に魔法を扱う事が出来るのだ。もっとも、警邏隊が用いる火杖など、物騒な魔法具は一般の人が保有するのは禁止とされていた。それほど今では、何処にでも魔導に関連する物が転がっている。
だが、あの川での事故の時、触媒となる魔石や魔杖などは勿論、近くには魔導に関する物など何もなかった。メリルには、それが不思議で仕方がなかったのである。
――やっぱりあれは夢?
時を経るにつれ、良くも悪くも思い出自体は風化し記憶も薄れていくもの。今ではあれが現実の事だったと信じたい気持ちと、あれは夢だったのかもと思う気持ちが半々に揺れ動くのだった。
――でも……信じたい。
と、そんなことをぼんやりと考え歩いていくメリルだった。