◇男爵家の人々(1)
やばい、いつの間にかかなり日数が経っていた……。
サイレンを鳴らし、『戦勝記念公園』へと続々と集まる警邏用緊急ゴーレム車。それらの車列を縫うように、逆行して進む二頭立ての箱馬車が一台あった。
「この緊急時に馬車なんぞ走らせおって、どこの馬鹿だ!」
ゴーレム車に乗る武装兵から警笛音と共に怒号が飛ぶ。しかし、馬車の方は意に介さず突き進むのであるから質が悪い。それは緊急車両の進行を邪魔しているとも受け取られかねない所作。かなり非常識な行為ともいえるだろう。
武装兵たちもこれは見過ごせないと、ただちに馬車を停車させ厳重な注意を与えようとするも、すぐに顔をしかめ舌打ちと共に道を譲った。
何故なら、その馬車の御者台横に、明らかに貴族家の物と思われる紋章旗(朱雀が翼を広げて飛び立つ様子を写した意匠)が掲げられていたからだ。しかも、その紋章旗の縁廻りが朱色の房で飾られていた。それは取りも直さず中級貴族の証でもあるのだ。帝国では紋章旗の縁を飾る房の色――皇族及びその一族に連なる大公家は金糸で飾られ、五爵位の上位、公爵、侯爵、伯爵は銀糸の房で彩られる。下位の子爵と男爵は朱色の房を用い、それ以外の下級貴族は青色の房で飾るようにと、帝国貴族法にて厳格に定められていた。
そして、紋章旗を掲げる乗り物は、その貴族家の当主が座乗している事を意味するのである。
紋章旗の朱色の房飾りに気付いた武装兵たちが、思わずお互いの顔を見合わせた。
「朱色の……」
「あの紋章はどこの貴族家の?」
「子爵家? それとも男爵家か?」
「分からんが、とにかく……」
慌ててサッと、右の手のひらを左下方に向け人差し指を頭の前部にあてがう。軍隊式の敬礼で、横を通り過ぎる馬車を見送るのである。本来であれば、すぐさまゴーレム車から飛び出し、頭を垂れた最敬礼でもって整列しなければいけない。しかし戒厳令の敷かれた今は、軍規にのっとりゴーレム車に乗ったままの敬礼のみで良いのだ。だが、直ぐに武装兵たちは、表情を曇らせ馬車を眺めた。
「おいおい、今時の貴族様の乗り物が馬車って、おかしくねぇか?」
「おぉ、そういえば……それに、ご当主が乗っているにしては、随行する騎士様もいないようだが……」
武装兵たちの表情に、不審の色がありありと浮かぶのはもっともな事だった。
というのも――地方に行けば、まだゴーレム車より馬車の方が数も多い。だが、乗り合いゴーレム車が都内全域を網羅する帝都となると、その数も激減する。ましてや、貴族家の証である紋章旗を掲げていれば、誰もがおやっと思うものだ。今では何処の貴族家でも、もはや前時代的な乗り物である馬車などは廃され、競って最新のゴーレム車を手に入れようとしているからである。中には懐古主義の好事家貴族などが、装飾を凝らした馬車を走らせたりもするものの、さすがに緊急時は遠慮もするだろう。
その馬車も貴族家の持ち物らしく凝った装飾がなされているも、各所に傷みや汚れなども見られ、趣味というよりかは日常的に使われている事が窺われた。更にいえば、馬車は一台のみで、随行するはずの家臣がいないのである。例えお忍びであっても護衛やその他諸々の人員を入れると、五爵位の貴族家ともなれば、それなりの人数になるのが当たり前なのだ。
だからこそ、武装兵たちも訝しげに感じたのだが――。
「シッ、黙ってろ。聞こえたらどうする」
「でも班長、このまま見逃すのも……」
「馬鹿、俺たちに与えられた任務は早急に記念公園に赴き、周囲の道路の封鎖をする事だ。貴族家の紋章旗を掲げる馬車に構ってる暇なんぞない。そんな事は、検問所の連中に任せておけば良い」
小隊の班長にすれば、紋章旗を掲げる馬車なんかには、関わりたくないというのが本音だった。彼ら一般の兵士から見れば、子爵或いは男爵家の当主ともなると、広大な領地を支配する王にも等しい存在。遥か雲の上の存在でもあるのだ。帝都を守る兵士とはいえ、貴族家の当主から見れば一般の民と変わりなく、そこには隔絶した身分差が存在するのである。下手に関わって機嫌を損ねれば、良くて僻地への左遷。悪くすると、自分の首が飛ぶ状況にもなりかねない。だから、怪しげな馬車ではあるが、黙ってこのまま通そうというのである。
都内の各所には検問所が設けられ、そこには騎士爵持ちの士官が指揮を取っていた。そこでなら、馬車を止めて問い質す事も出来るだろう。だが、幾ら戒厳令下とはいえ、一般の兵士が通りすがりに誰何するなど、とてもできるものではないのだ。
「それに、今回のテロ事件の被害者は、魔導学園の生徒だとの話だ。大方、その関係者が慌てて駆け付けたのだろう」
と、班長は通り過ぎる馬車を横目に眺め、強引に話を締め括るのであった。
しかし、班長のその推察は、あながち間違ってはいなかった。
警邏用緊急ゴーレム車の横を通り過ぎるその馬車では――馬の手綱を操る御者のモルドが、恐る恐るといった様子で後ろへと声をかけていた。
「旦那さま、治安局の兵士たちがこちらを睨んでいますが、よろしいので」
モルドは、こちらを眺める武装兵たちに遠慮してか、馬車の速度を落とし自分の主へとお伺いをたてる。が、その返事はにべも無いものだった。
「構わん! 今はとにかく急げ!」
馬車の中から答えるのは、ゼイゼイと息を切らした声。まるで全力で走った後でもあるかのように、言葉の端々に息の荒さが目立つ。
と、その時だった。
御者のモルドが肩を竦めて馬車の速度を上げようとした時に、横の建物から老人がひとり飛び出してきたのだ。
「あ!」
慌てたモルドは、とっさに手綱を引き絞り、御者台横にあるブレーキ棒を押し倒す。
確かにその行動は人としては正しいのかも知れない。走っている馬車に人が巻き込まれて、無事ですむはずもないのだから。しかも通りに飛び出したのは、かなりの年齢を重ねた老人。馬車を避ける事もできず、大きく目を見開き立ち竦んでいた。
しかし――突然の急制動に、当然の如く馬は棹立ち嘶く。ハーネスに繋がれる馬車本体から伸びた長柄の棒は大きくたわむ。左側の車輪がふわりと浮き上がり、馬車は大きく傾き半円を描くように横滑りしていく。右側の車輪が石畳をガリガリと削り悲鳴のような音を掻き鳴らすも、速度を落としていたのが幸いしてか、辛うじて横転からは免れた。そして、辺りに盛大な音を響かせ弾むようにバウンドすると、驚く老人を掠めてようやく停車した。
即座に反応し、回避してみせたその技量は、モルドの御者としての優秀さを褒めても良いほどのものだった。
だが、貴族家お抱えの御者としては、いかがなものであろうか。しかも、その馬車に貴族家の当主が座乗しているときにである。
案の定、馬車の中からも大きなものが引っくり返る鈍い音と共に、「グゲェ!」とまるでカエルを押し潰したような声が聞こえてきた。
興奮する馬を宥めつつホッとしたのも束の間、青くなったモルドが焦りを滲ませた声で馬車の中に向かって叫ぶ。
「だ、旦那様!」
「……ぐぅぅ……何事だ?」
御者台の後ろにある小窓から返事が聞こえた事に、主の無事を確認し安堵するモルドであったが、今度は冷や汗を流しながら言い訳を始める事になった。
「ご、ご無事でしたか?」
「無事である訳がない! あいたたた……それより何が起きたのだ」
「はぁ……それが、ご老人が通りに飛び出して来たもので……そのぉ、申し訳ございません」
モルドが頭を下げつつ原因となった老人を眺めると、未だ驚きから覚めないのか、放心状態で腰が抜けたようにぺたりと道に座り込んでいた。
そしてこうなると、脇に避けていた武装兵たちも、黙って眺めている訳にはいかない。大事には至らなかったものの事故には違いないのだから。
ゴーレム車の中から事故を眺めていた班長は、ため息と共に顔をしかめた。
本来であれば、老人と馬車に問題が無かったのなら、双方へ厳重に注意を与えてすます所。しかし、今回は馬車の方が、大身の貴族家なのである。
どこの老人かは分からないが、ちょっとした不注意で馬車の前に飛び出したのだろう。が、もしかすると今回は、老人を捕縛しての賠償問題、或いは不敬罪を問われ処刑なんて事もあるかも知れないと、老人の運の無さを思わずにはいられない班長だった。しかし、このまま知らんふりもできず、あの怪しげな馬車が貴族家を名乗る騙りであれば老人も助かるのだがと思いながら、重い腰を上げるのであった。
「ちっ、仕方ない……おい、行くぞ」
班長の掛け声に、武装兵たちはゴーレム車から飛び出した。乗っていたのは六人の武装兵。二人は老人の元へと駆け寄り、残りの班長も含めた四人が馬車へと向い御者のモルドに声をかける。
「えぇと……大丈夫ですかね」
丁寧な言葉遣いではあるが、班長のモルドに向ける眼差しは油断のないものだった。腰にぶら下げている革製の収納袋も留金は外され、いつでも抜けるように火杖の柄が覗いていた。
ゴーレム車の中でも噂をしていたが、紋章旗を掲げてはいるも怪しい馬車には違い無いからだ。
「はぁ……」
対して、問い掛けにも気の抜けたような返事をするモルド。武装兵たちのどこか物々しさを感じさせる様子に、面食らっていたのである。
「馬は大丈夫だと思いますが、馬車の方は……」
落ち着きを取り戻しつつある馬を眺め、馬車を点検しようと素早く御者台から飛び下りる。その動きに、今度は武装兵たちが驚いたように後ずさった。
何故なら御者にしては、まるで訓練を受けた者のような、隙の無い鋭い身のこなしであったからだ。武装兵の班長は、馬車に対しての警戒を数段階ひき上げた。
「えぇとそれで、どこの貴族家のご当主様なのでしょうか?」
と班長が、御者台横で風にはためく紋章旗を眺めながら、馬車の扉へと一歩近付く。が、モルドが馬車の扉と班長の間に、するりと体を滑り込ませた。
「今は緊急時とはいえ、我が主に対して無礼ではないですか」
「いえ、そんな積もりはないのですがね」
ますますもって怪しいと思う班長だったが、そこへ馬車の中から声が掛かった。
「モルド、もう良い。外に出るぞ」
「あ、はい……」
モルドが恭しく頭を下げ、扉へと手をかけた。
その態度と受け答えに、本物だったかと班長が内心で舌打ちする。
老人のためにも自分たちのためにも偽者であればと願っていたのだが、本物の五爵位貴族かも知れないと思うと、途端に緊張で体が強張るのであった。
ぎしりと馬車の踏み段が音を鳴らし、班長を含めた武装兵たちが慌てて膝を突き頭を垂れる。
そこへ頭上から、ぜいぜいと息を切らした声が届く。
「皆の者、面を上げよ。我がモンテグロ男爵家十五代目当主、ルーファス・モンテグロである」
その声に促され顔を上げた班長は、いや、その場にいる武装兵全員が、ぎょっと驚く事になるのであった。