◆聖女様の望みは?
いつの頃からでしょうか?
私が英雄譚に憧れるようになったのは?
あれは……この聖都で催された聖誕祭に、吟遊詩人が招かれた時のことだったと思います。
まだ幼かった私は、その叙事詩の中で語られる英雄たちに胸をときめかせて……いえ、私の脳髄に直撃したといっても良いほどに感動したのです。
だからそれからは、いつかは私もと……でも、それは不可能なこと。
何故なら私は聖都の象徴であり、この聖都を守護するべく張り巡らせた結界を維持し管理するべき存在、聖女となったのですから。
でも、それももう……。
かねてより懸念していた世界を覆い尽くす魔の勢力も、異世界より招かれた勇者様によって振り払われ、象徴である私が心を砕く必要もなくなりました。
だから――
それに次代の聖女となる後継者の育成にも力を注ぎ、聖都を覆い魔の侵入を阻む聖呪結界も、私が今後いなくなっても維持できるようにと改良を施しました。
だから――
生まれた時から右の肩に刻まれていた星形の痣。それを見た皆様は、その痣を聖痕と呼び私を聖女様と祭り上げ敬いました。その時に、私の未来は決まってしまったのでしょう。
聖都の中央に、聖なる光に包まれ燦然と輝く大聖堂。
生まれて間もない頃に両親から引き離された私は、その大聖堂の奥の院で大事に育てられました。外に出ても良いと許可が得られるのは、催事の時に都民の皆様の前で手を振る時ぐらいのものです。それも幼い頃はまだ良かったのですが、年齢を重ねると共にその閉塞感が私を圧迫し、不満が高まっていったのも自然な流れではないでしょうか?
しかも政治は不浄なものとされ、私は聖都の統治そのものからは除外される存在でした。私はただのお飾りでしか過ぎなかったのです。これでは、籠の中の鳥と一緒ではないでしょうか?
これが天に召されるまで続くのかと思うと、私の心は暗い闇に閉ざされてしまったものです。だから私にとって聖痕とは、もはや呪いにも等しいものと感じてしまうほどでした。
その思いは、神様に対して不敬となるのでしょうか?
魔が振り払われた今、私のお飾りの役目も終わったと思うのは、冒涜にあたるのでしょうか?
もう私が、全てから解放されても良いのではと希望するのは駄目でしょうか?
だから――私は、光神エウディケーに望み願うのです。
今生ではもはや無理となった自由を。
自分が思い描く道を歩める、新たなる生を未来へと。
大聖堂内で、もっとも神聖な場所はと問われれば、誰もがそれは『祈りの庭』と答える事でしょう。ですが、普段は一般の民は立ち入りを制限され、私か高位の神官しか入れません。
何故ならそこは、私が何時も生活している奥の院の更に奥にある小さな中庭。太古の御世、初代聖女様がこの聖都を築かれし時に、光神エウディケー様より授けられた神木の苗木『聖樹』が根を張る聖域でもあるからです。そしてその聖樹の前には、世界に秩序と正義をもたらすと伝えられる光神エウディケー様の神像が安置され、歴代の聖女が祈りを捧げた神聖な場所でもあるのです。
背中の聖羽を大きく広げる白亜の神像は、両腕で抱きしめるように聖結晶を抱えています。その結晶石は、私たちが暮らすこの世界を模した物だといわれ、神像そのものが、エウディケー様が世界を守護する姿を象ったものだと伝えられているのです。
だからでしょうか、『祈りの庭』では何時も、静謐で厳かな神々しさに満ち溢れています。神官たちはよく「気が引き締まる」と言っては緊張に身を震わせていました。ですが、私にとっては、この場所こそが唯一ホッと気を許せる場所でもあったのです。
柔らかな陽射しが降り注ぎ、今では聖堂の屋根に迫る高さまで成長した緑豊かな聖樹の、優しげな息遣いが私を包み、心穏やかな安らぎを運んできてくれます。聖女として振る舞う度に蓄積されていく不満や不安など、あらゆる疲れを癒してくれるのです。
しかし、今日は何時もと違っていました。
もしかすると、大それた事をしているのではとの恐れから体は震え緊張に顔を強張らせ、神像の前で跪いていたからです。でも同時に、期待に胸を膨らませて瞳を輝かせてもいました。それは今から私が、禁断の秘術を行おうとしていたからです。
エウディケー様の神像の前で頭を垂れると、私は一心に神様に捧げる祝詞を唱えます。
「カムヅマリマスカムロギカムロミ――」
私の舌の上で転がされる祝詞がこぼれ落ち、神韻とした響きが空間を満たしていきます。その響きに呼応して、エウディケー様の神像が抱える聖結晶――私の頭より大きな結晶石が白く輝き、その聖結晶を中心として庭の隅に星型に配置されていた五つの結晶石も次々と輝き出しました。そして、中庭各所の地中深くに埋められていたミスリル板も青い光を放ち、刻まれていた神文を宙へと浮かび上がらせます。その仄かに青い燐光を放つ神文が、帯状となり渦を巻いていくと、この中庭の空間を埋め尽くしていくのです。
そうなのです。ここは祈りを捧げるだけの場所ではなかったのです。
この空間そのものを魔方陣に見立てた、大規模な魔術を行うための魔導装置。聖樹を介して地脈から汲み上げる膨大な魔素を魔力へと変換し、聖都を覆う結界を発動させていたのです。いわば、ここはこの聖都の心臓部。聖都に張り巡らされた神呪結界の源なのです。
歴代の聖女が祈りを捧げると共に編んだ神呪結界の魔方陣。今では複雑に絡み合い、私も、全てをひも解き理解するのは不可能でした。ですが、私がいなくなっても良いようにと改良する事には成功したのです。そしてその際、聖樹に私の意識を繋いだ時に、私は見付けてしまったのです。地脈の向こう側、この世界の真核へと至る道を。
この世界に生きる全ての生き物が生を全うすると、その魂は世界の真核へと還り新たな魂となり生を繰り返します。それこそが、この世界を貫く生命循環の理。そこで、私は考えたのです。ならば、私自身の意思で、新たな生を引き寄せる事が出来るのではないかと。
それが、私の考え出した新たな秘術『転生陣』。聖樹と魔導装置が生み出す膨大な魔力の助けを借りて、現世での魂そのものを未来へと飛ばす秘術。ですが、魂を扱う秘儀は人が触れてはならない神の領域……だから、私も今まで躊躇し手を出しかねていました。
しかしそれも、もう……勇者様の邪神討伐の報を受け、私は決断をしたのです。
これから先、象徴としての私は、更にお飾りとしての役目が顕著になっていく事でしょう。それが私には、耐えられそうになかった。だからそうなる前に、賭けに出たのです。賭けるのは私の命。成功報酬は、来世での自由を謳歌する生。
結晶石と帯状の神文が宙に浮かぶ光景は、圧倒的で幻想的な美しさを醸し出し、いつまでも眺めていたい気分にさせられましたが――ここからが本番。勇気を奮い起こして、私は囁きます。
――聖樹よ! 私に力を貸して下さい!
聖樹に意識を重ね、自身の魔力を……いえ、生命力そのものを魔法陣へと流します。
そして最後に、
「来世では古の英雄達のように、私自身で悪を討ち……それに……今度は恋にも……」
そんな事を呟くと、私の身体はパタリと倒れました。私の全てを、魂を地脈へと投じたからです。
ですがやはり、神の領域を冒すこの禁術は不遜だったようでした。
私の刻んだ魔法陣に不備があったのか、或いはこれ程の魔力でもまだ足りなかったのか、【転生陣】の秘術には何かが欠けていたのでしょう。
地脈を流れる魔素の奔流は凄まじく、急流に振り回される木の葉のように、私の意識も地脈に翻弄されてしまいます。世界の真核に至るどころか、このままでは粉々に砕かれ、魂そのものが消滅しそうです。
――あぁ、エウディケー様、申し訳ありません。
人の身で、禁断の領域に手を掛けたのは間違いでした。ですが、許される事なら私の我が儘も――と、その時でした。誰かから届けられる声が頭の中に響いたのです。
『我が巫女よ、そなたの願い聞き届けたり』
男性なのか女性なのか、その区別もつかない中性的な声。厳かであり、暖かくもあり、優しげにも聞こえ、しかし厳しささえも感じさせる声。その声は、それら全てを兼ね備える声でもありました。
――もしかして、光神エウディケー様!?
と、同時に、魔法陣の欠けていた部分に、何かがカチリと嵌め込まれる感覚が――その瞬間でした。
圧倒的……いえ、そんな言葉では表しきれない……そう、例えるならそれは無敵感。或いは全能感。世の中の全てが自分の思い通りになるかと思えるような、そんな勘違いさえ伴う恍惚感が私を支配します。
――あぁ、これが神の力。
全てが満ち足りる充足感。エウディケー様の神力の一端に触れた感動に、私の魂が震えます。
だからでしょうか、その後に続くエウディケー様のお言葉を聞き漏らしてしまったのです。
『なれど未来に……心して…………せよ』
――え、何を。
何を仰せなのでしょうか。
――今一度、エウディケー様、今一度のお言葉を。
しかしそこで私の意識は急速に遠退き、闇の中へと閉ざされてしまったのでした。
神聖暦521年のこの日、エルロイ聖国では邪神討伐の報に接し、国中が沸き返っていた。聖都内でも喜びの声が満ち溢れ、すでにお祭りのような喧騒であった。そんな騒ぎの中、聖女ラナノアの変わり果てた姿が発見されたのは翌早朝の事であった。『祈りの庭』は、聖女か高位の神官以外は立ち入りが禁止されていた聖域。それが災いしたのである。聖都を統べる神官たちは大いに慌てるも、今のこの時期はまずいと判断し、聖女逝去の報は秘匿されたのであった。
聖都民に向けて聖女逝去の報が告げられたのは、それから一ヶ月も経た後の事だった。その時に、神官たちはこう言ったのである。
「光神エウディケー様の使いである聖女ラナイア様は、地上での役目を終えられ天に帰られた」のだと。
この後、神格化された聖女ラナイアは、光神エウディケーと共に聖都民に祭られる事となったのである。
そして……時は流れて……。