2. オルガ、初告白する(2)
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花のような甘い香りを仄かに感じて、オルガは目を覚ます。夢を見ることもなく暗闇の中を彷徨うような昏々とした眠りだったから、瞼を押し上げることで入ってくる光が眩しくて目を眇めた。
寝起きだからか、思考がはっきりしない。一瞬、王都にあるフィオーレ邸にいるのかと思ったけれど、目覚めて初めて視界に捉えた見慣れない天井からそうではないのだと悟った。寝台を覆う薄い紗幕の天蓋、その向こうには紗幕越しにも見えるほど鮮やかな色で描かれた夜空の天井がある。金色の星が数多輝くそれをぼんやり眺めて「きれい」と片言に呟けば、近くでなにかが動く気配がした。
「調子はいかがですか?」
落ち着いた女性の声だった。オルガは少し驚き目を瞬いて、そちらへとゆっくり首を回らす。そこには、使用人の服を纏った年配の女性が腰を屈めてオルガの様子を窺っていた。彼女はふくよかな手をオルガの額に当てておっとりと微笑む。
「熱は出ていないようですね」
まるで聖母のようだとオルガは思う。それとも、貴族ではない家の母親はこんな感じなのだろうか。そんなことを考えながら気づいたのは、花のような心安らぐ香りがこの女性から放たれているということ。本物の花は見当たらないから、香水か石鹸の類の匂いらしい。
(……安心する香り)
この香りに包まれて、また眠ってしまいたい。オルガの心に甘えが過ぎったが、少しずつ記憶――ここに至るまでの経緯――が蘇れば(いつまでもこうしているわけにはいかない)と自分を叱咤した。
(段々思い出してきたわ)
どうして眠る羽目になったのか――。
(セルジュ様に告白した時、一緒にいた近衛騎士様が私の……私の手の甲に……っ!)
――接吻した。
蘇った記憶を言語化することもおぞましく、口づけされた手の甲を布団で拭う。それから、自分のあまりの失態に苦虫を噛み潰すと同時に恥じ入った。
(王城で……しかも、セルジュ様の前で失態を犯すなんて……っ)
本気で咽び泣きたい。でも、人前なので我慢する。
(……いえ、そんなことより。そんなことではないけれど、とにかく今は現状を把握することが先だわ)
心の切り替えを図ろうと、とりあえず身体を起こそうと試みるオルガ。そんな彼女を、女性使用人が背に手を当てて手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
礼を言えば、「無理はなさらないでください」と優しく気遣われる。それがどこかくすぐったかった。
「体調に問題ありません。……それで、ここはどこでしょうか?」
相手はフィオーレ領ではなく王領の使用人なので、一応敬語で話しかける。この国は統一してそう長くはないから、まだ国民としてよりも領民としての意識の方が強く、それを考慮してのことだ。
オルガの思慮を察したのか、女性は”気にしなくていい”というように苦笑したものの、言葉にはせずすぐさまオルガの欲しい情報を提供してくれた。
「王城の南東に位置する客室でございます。陛下の執務室前でお倒れになったので、こちらで休養をとらせるよう陛下から仰せつかりました」
(ああ)と納得するとともに、オルガの脳裏には再び自分の大失敗が襲ってくる。悔いに蹲って布団に顔を伏せたくなるし、いっそ墓穴でも掘って埋まりたい。でも、人前だから我慢である。我慢。
(……これ以上ないくらい、状況は最悪だわ)
王城といえば、国の東西南北の貴族が集まる場所。とくにこの国は王が統べる国となってまだ百年も経ってはいない。ゆえに地方によって思惑は異なり、媚びや足の引っ張り合いが蔓延っているのだ。賢王と称えられた先王が王城の人員整理を行ったが、完全に一掃できたわけではない。
今のオルガにとって唯一の救いといえば、良くも悪くも昏倒したのが人の出入りが特に限られる王の居住空間であったことだろうか。――最高権力者の空間で、しかもセルジュがその場にいた時点で、救いになっているのかは甚だ難しいところだが。
そんなオルガの負の思考連鎖を食い止めたのは使用人の女性だった。くすりと笑声を零した彼女は言葉を紡ぐ。
「お医者様の診断では、脳貧血とのことです。体調が良くなるまで、なにも考えずゆっくり横になるようにと」
「いえ、私はもう大丈夫です」
オルガは女性の囁きにまたもやくすぐったさを覚えながら、首を横に振る。
(……乳母のソフィを思い出すわ。あと、親友のエリーゼ)
つい顔が緩んでしまう。先刻までは、悪い思考の連鎖に悩んでいたというのに。そんな自分がおかしくて眉尻を下げて笑えば、女性はあたたかな眼差しのまま微笑んだ。
「それはようございました。色々ご不安があるかと存じますが、陛下がこの件に関しては箝口令を敷いておりますので、今はお身体を大切にしてくださいませ」
女性使用人の言うオルガの不安――それは、オルガがセザールに手の甲を口づけられて昏倒したことだろう。
(よかった……)
オルガは安堵の息を漏らす。王城でフィオーレ家の名誉を自分が貶めるわけにはいかないのだ。それは両親の為というよりも、領民が他の領民や大切な人を蔑ろにされたくはないから。王城での評判は貴族関係にも拘わり、関係が悪化すれば領民の交易にも影響する。そして、オルガと交友関係を築く大切な人達にもその影響は少なからず出てくる。
素早く箝口令を敷いてくれた王と、その情報を問わずとも教えてくれた使用人の女性に感謝した。使用人の彼女はきっと、王城に長くいるだろう使用人だからこそオルガの悪評がどのような結果を生むのか理解していたのだろう。王も熟知しているからこそ配慮してくれたのだ。
「あの! 教えてくださりありがとうございます。あと、よろしければ、陛下にお礼を伝えてはくださいませんか? 後ほど感謝の手紙などを用意するつもりではあるのですが、すぐにでも伝えたくて」
発した声は感謝から、無意識のうちに明るいものとなった。
前のめりになって返答を待つオルガ。しかし女性は、目尻の皴を深めたけれど「いいえ。わたくしの口からではなく、ご自身の口からお伝えください」と断り文句を返す。
「直接……」
呟きながら、オルガは困惑する。
(直接と言われても、セルジュ様との面会許可は得ているけれど、陛下との面会許可はいただいていないから……陛下といつお会いできるのかは天のみぞ知るところなのよね……)
つい数分前とは異なり、困り顔のオルガ。その様子をずっと見守っていた女性は笑いながら、「では、主を呼んで参りますので、こちらでお待ちください」と告げ、それまで屈めていた背筋を伸ばした。
「え?」
話についていけず呆然とするオルガをそのままに、女性は綺麗なお辞儀を最後に扉へとつま先を向けて、退室したのだった。
(……主を呼んでくるって、言ってたわよね)
王城の主、つまり王陛下のことである。突然のことに、オルガは何度も目を瞬いて言葉を頭の中で反芻させた。そしてようやく女性の言葉を咀嚼し嚥下すると、慌てて髪を撫でつけてみたり、ドレスが眠っている間に着崩れたりはだけたりしていないか確認を急ぐ。オルガの名誉を慮ってくれた王陛下といっても、相手は王。一領主の娘として失礼を犯すなど言語道断である。
ついで布団から出て床に立つと、もう一度ドレスを再確認する。
(やっぱり皴になってる)
予想していたものの、皴になっているスカート部分を見つけてがっかりする。少しでも誤魔化せればと、適当に払ってからやがて諦めた。
(ドレスに多少皴はあるけれど、多分大丈夫……よね)
きっと、恐らく、相手のスカートを凝視するようなことを王はしない筈。とりあえず気持ちを取り繕う為にそう願って、いつ来客があっても良いように姿勢を正した。
(……静か、ね)
寝室だけあって、防音効果のある床材や壁でできているのかもしれない。でも、静けさが今はかえって心細さに拍車をかけた。
こうしてやることもなく、訪問者――といっても王城の主――を待つだけとなると、知らない部屋にいることをしみじみ実感する。手持ち無沙汰に限界を感じて、なんとなく室内を見渡した。
客室と教えられたそこは、必要最小限の、けれど品の良い家具のみが揃えられた寝室のようだった。目覚めた時に見た天井は星の瞬く夜空。そんな夜を破る扉は一つだけ。恐らく、扉の向こうには居室があるのだろう。
(居室で待っていた方が良いかしら?)
考えてはみたものの、女性使用人は『こちらでお待ちください』と言っていたから、言いつけを守って部屋から動かないことした。
部屋の観察は終わってしまったので、次は窓へと視線をやる。太陽はまだ眩く空を照らしていた。どうやらオルガが眠っていた時間はそう長くないらしい。
(よかった。まだ夕方にもなっていないみたいだから、帰りにあそこに寄れるわ)
帰りのことを思うだけで、オルガの気持ちは再び浮上した。どうも今日は情緒不安定なのか、気持ちの上がり下がりが激しい。そう自覚して胸元に手を当て、首を傾げていると。
唯一の出入り口から三回叩かれる音がした。
(――思ったより早い)
心の中で焦りと共に呟きながら、オルガは入室を許可する合図を出した。
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