生者必衰《バンブツミナ死ニタエル》5
差し出された湯飲みは、必要以上に渋い色をした茶で満ちていた。
「そう、ご退職なされたんですか」
和服姿の女性が、食事用の大きな机を差し挟んで、男の真向かいに腰掛ける。
男は面前の女性をまじまじと眺める。年月の経過を感じさせない顔付きに薄い化粧がされている。白い肌は妖艶。黒い着物は傲然。纏った衣には淡赤色の川が流れていて、そこには色とりどりの華が浮かんでいる。
男は舌に染みこむような苦味を飲み込んで、誰にでもわかるような愛想笑い浮かべた。
「独立するための資金も貯まりましたから。ところで、今日はこれからどこかへお出かけで?」
「ええ、もう家を出なければならないのですが……」
淑やかな微笑みは、奥に潜む棘を隠しきれていない。男は殺意じみた笑顔に、頭を掻いてやり過ごす。
「いえいえ、今日は本当に依頼があって来たんですよ。開業初日から仕事があるなんて、光栄なことで」
男は気だるそうな顔つきで、ただしっかりと相手の瞳を見据えている。
女性は男の顔を眺めて、しばらくしてからゆっくりと立ち上がり部屋を出て行った。
「聖~、お客様よ~」
その声には彼女の潜在的な敗北感が込められて、目的以上の大きさで拡散した。
女性はすぐに部屋へ戻り、まだ少しだけ茶の残る湯のみを取り上げて、流しへと持っていってしまう。
「本当に、あなたは食えない人ね」
「そうでもないさ。俺は基本的に好奇心で動いているから、ひどくわかりやすい」
男はタバコに火をつけようとして、彼女がそのにおいを嫌っていたことを思い出し、くわえたタバコをそのまま箱の中に戻した。
間もなく、軽やかに階段を駆け下りて、青年がダイニングルームに現れた。
「あれ?総司だと思ったのに」
青年は、見覚えのない来訪客を不思議そうに見つめた。端正な顔立ちをしながらも、仕草には幼さが色濃く残っている。背丈は同年齢の平均といったところだろうか。
「あら?今日は桐原君が来るの?」
「いや、宿題見せてやるから来いって。でも総司のことだから、自分から出向いた方が早いとか考えて来たのかと思って」
着物姿の女性が水洗いの終わった手をタオルで拭く。洋風のキッチンに和服姿。おかしな光景だ、男は思った。
「聖、お母さんもう出かけなくちゃいけないから、戸締り頼むわよ。あと、お客様に長居させないように」
青年は、「はーい」と気のない返事をする。女性は去り間際、男に一礼する。
「それではまた機会がありましたら」
「ええ、機会があれば……」
男も返して会釈する。しかし女性は、返事を聞こうともせず、既に姿を消していた。
「すいません、お待たせして。それで、どちら様ですか?」
青年が、男の向かい側に座りながら言う。
「ああ、すまないね。はい、こういうものです」
男は背広のポケットから名刺を一枚取り出し、青年へと差し出す。そこには『城島探偵事務所社長、城島武士』という活字が並んでいた。
「あれ?探偵さんですか?警察の方じゃなくて?」
「なぜそう思うんだい?」
「普通のお客様なら、客間に通しますから」
男は言われて辺りを見回す。物が溢れていたり、別段に狭いといったりするわけではない。だが確かに、そこは家族の団欒の場であり、客を迎え入れるための場所ではなかった。
「あれ?警察の人じゃないとしたら、なんでだろう。それに母さん、少しピリピリしていたような気がするんですけど」
「ああ、私も一応、『元』警察関係者だから。その頃にも何度か、君のお母さんにはお会いしているよ」
青年は、「ああ、それで」と呟いたが、納得しきった顔をしているわけではなかった。
「ところで、今日私がここに来た理由だけど、心当たりはあるかな?」
男は、言いながら胸ポケットから手帳を取り出し、付属のペンを握る。青年は首を横に振った。
「昨日、午後五時頃、接触事故を『目撃』しているよね」
今度は首を縦に振る。
「あの事故には、幾つか不審な……不可解な点があってね。何人かは、電車に撥ねられたのは警察官ではなく、無傷で運ばれた少年の方だ、という証言をしているんだが……」
突き刺すような視線。青年--少年は押し黙ってしまう。
「その証言者の中には、被害者の親類がいたらしくてね。その方が、この事故はおかしいから調査して欲しいって言うんだよ」
男は、ひと時たりとも少年から目を逸らさない。
「警察は、ただの接触事故と断定しているから動いてはくれない。そこで私の事務所に依頼が来たわけだが……」
少年は、交じりぶつかる目線に置き場のなさを感じ、対象をやや下方に下げ、男の持つ手帳とペンに照準を合わせた。男は何か書き付けることもなく、ただ手帳を開き、ただペンを握っていた。
数瞬の溜め。間隙は緊張を増すためだけに作用する。男は最高の演出の中、決定打を浴びせかけた。
「その運ばれた少年っていうのは、加美野聖君だよね?」
少年は詰問じみた気迫に、勢いのない、ただ唸るような声を出すのが精一杯だった。
そんな少年の心理を察して、男は頭を掻いて笑顔を作る。
「いや、何も尋問しているわけじゃないから、そんなに緊張しなくてもいいよ。悪いね、こちらも抜け切れない癖と好奇心で燃え上がっちゃったよ」
男のくだけた表情を盗み見て、少年はほっと息を吐く。彼はしばらく考え込んで、ようやく口を開いた。
「ええ、どうも凄惨な事故現場を見て、卒倒しちゃったみたいで」
沈黙から一転、堰を切ったように、少年は目撃した悲劇を語り始める。つぶさに、丁寧に、臨場感を込めて――まるで見てきたかのように。
ただその告白には、真実でないものが混入されている、と男は看破していた。
「なるほど。それで君が通りかかって覗きに行った時には、既に事故の後だったと」
「はい、それからのことは、気を失ってたんでわからないです」
男の目に映る少年は、怯えもなく、悪びれもない。ただ少しばかりの動揺があるだけで、正面から見据えている。
しばらくの間、にらみ合うように互いの瞳を凝視していたが、ふと少年は視線を逸らし、柱に掛けてある大時計を見やった。男がここを訪ねてきた時から、針はあまり動いていない。男は時計が狂っているとも思ったが、そうではなかった。
「もうこんな時間か。すいませんけど、話せるようなこともほとんどないんで、ここまでにしてもらえますか?この後、友達と会う約束をしてるんで」
少年が退出を促す。男は一瞬思考に没頭して、「まあ、いいか」とこぼして立ち上がった。
両の足に連動したかのように、男の時を止めていたままの手が稼動し始める。少年の目にはとまらぬ速さで、男自身と近しい知人のみ解読できる程度の形を保った文字列が、手帳の端から端を奔っていく。
「じゃあ、今日のところは帰るよ。いや、次はないかもしれないな。あの依頼人の様子じゃあ、二・三日経って冷静になれば、依頼を取り消してきそうだ」
最後にもう一度別れの挨拶をして、男は部屋を出て行った。ある種の曲芸を見て唖然としていた少年は、我に返って律儀に男を玄関まで見送った。
戸外にて、男は大きくあくびをする。舌先に残る冷めた苦味を思い出しながら。
「好奇心が仕事になるのは、ここまでか……」
階段を勢いよく駆け上る音を聞いてうな垂れる。新品の手帳は、まだ二ページしか使う機会を与えられていない。
男は悔し紛れに、三ページ目に書き足し始める。
『顔はどことなく似ている。ただ嘘をつくのが下手だ』と。