生者必衰《バンブツミナ死ニタエル》4
赤銅色の円盤に紅い線が奔る。決して調和することのない組み合わせは、それでいてしかし、互いの存在を装飾し合っている。
暗雲の絶え間から覗く、頼りない日の光も届かない路地。自らの高さを誇るように伸びる建造物で囲まれた空間は、そこに立ち入ろうとする人間の一切を拒んでいた。
ただ一人、みすぼらしい姿で筆を振るう白髪の老人を除いて。
筆先には血のように赤い塗料。生命の終わりをほのめかす色も、老人が操ることで芸術品の彩りへと変化していく。
(ねえ、僕に絵を教えてよ)
一心不乱に円盤を染め上げているようで、老人の筆さばきはただの惰性だった。
一言、小さな--未来のある--これからどのようなものにも成りえた少年の、尊敬と憧憬の言葉。その一言が老人の中で何度も反芻され、消化されることなく滞留し続けていたのである。
「久しぶりだよ、人が死ぬなんてね」
円盤に語りかけるように老人が呟く。長い白髪に隠れた老人の瞳を、円盤が見ることはない。
老人は独り回顧する。
人類の大半に、死への恐怖を突きつけた二度目の大戦。
在りし日の彼は、『劣等民族』だった。
彼の信じる蔑まれた宗教が、そこに流れる忌み嫌われた血が、そして強奪された貨幣の山が、彼を優秀な劣等民族へと仕立て上げたのだ。
戦時の生け贄である彼は、家族を、友人を、また多くの同胞を亡くしている。その一人ひとりの死は、直接的な映像ではなく、連れ去られたという事実であることが多かった。
だから彼にとって、死とは突然の『不在』を意味する。今回、彼がめぐり合った死もそうだった。
放浪の末辿り着いた最後の地で、彼は一人の少年と親しくなった。
少年は暗がりで座り込む老人に、嫌悪の目を向けることはなかった。それどころか手品師にでも魅せられるかのような純真な目の輝きがあった。
(私はね、君が思うような人間ではないんだよ)
老人は、小さな友人の熱烈な懇願に、しばしばこの言葉で返していた。
今さえ彼の胸を燻る、その懇願に。
「ねえ、僕に絵を教えてよ」
「私には無理だよ。今や『この華』以外に絵を描くことは、週に二・三度もない。しっかりとした先生に教えてもらったほうがいい」
「先生よりも、おじいさんのほうがずっと上手いよ。それに、僕はおじいさんの絵が好きなんだ。おじいさんの絵を描きたいんだ!」
「……私はね。君が思うような人間ではないんだよ」
次の日から、少年が路地裏に現れることはなかった。
代わりに老人に届いたのは、少年が交通事故で死んだという『不在』の報告。少年が彼と別れてすぐということだった。
「私は、また間違えたのかな」
独白は風に流れて、閉鎖された空間を力なく漂う。そこは侵入者を排除するだけでなく、内部の囚人を閉じ込める場所でもあった。
「刻もう、この悲愴を。逃れられない『死に別たれる孤独』を」
自らの影に潜む死のにおいに咳き込みながら、老人はなおも力強く言葉を紡ぐ。円盤を奔る紅は、筆に触れて永久の生命を宿し始めていた。
曼珠沙華と共に、呪いを乗せて。
う~ん、とても爽やかじゃない朝だ。
半覚醒の頭に、ピピピッ、ピピピッと機械音が流れ込んでくる。上体を起こして数秒、喚きたがりの目覚まし時計の口をようやく塞いだ。
「ああ、やっぱり。精神の病だろうか」
夢というものは、概して目が覚めたら忘れてしまうものだ。でも今日の夢は違う。覚えているというよりも、まるで見聞きしてきたかのような感覚だ。
「それもこれも、全部昨日のアレが悪い」
苦虫を噛み潰したような顔でひとりごつ。
アレというのは、昨日僕が目撃してしまったらしい接触事故のことだ。それからの数時間は、既に夢の中であったと信じたい。
それにしても、耳障りなアラームから解放されたのに、何だかすごくうるさい。スズメか何かだろうか。一秒の間もなく、チュンチュンチュンチュンチュンチュン。
爽やかな朝を演出する小鳥のさえずりも、ここまで来れば騒音だ。変な夢を見たのも、これのせいかもしれない。求愛活動の時期なのか、けたたましく飛び回っているようだ。時折、勢い余って我が家の窓ガラスに衝突している。
更には、窓外にたむろっているのか、ガラスにコツンコツンとクチバシを……。
「おおっと、激しくデジャビュ。略して激ビュ」
ついクチバシってしまいました。昨夜はカラス。今度はスズメ?
まさかとは思いつつも、もう逃れられない、ある種の運命のような気がして。僕は渋々とカーテンを開けた。
「うわ、これは酷い」
窓ガラスの向こうには、もう一枚のカーテンが――ではなく、隊列を組んで停滞飛行する小ぶりの鳥さん達。
正直気味が悪い。これは覚悟していなかったらトラウマものだ。カーテン開けられない症候群にかかるところでした。
「ていうか、これはどうすれば」
間違いなく、これは昨夜の円盤の仕業だ。落下防止柵の上に乗っているのだろうが、窓を開けるのはかなり危険。怖すぎる。
途方もなく呆けていると、あちらも僕の接近に気付いたようで、小鳥達が方々に散っていく。
やはり残されていたのは、呪いのアイテム『リッペンキョー』。仕方なしに回収し、昨夜同様床に置いて静座する。
すると溝から映写されるように、華やかな飾り物を身に付けた鳥使い、ヒミコ様がご降臨なされた。
「まったく、危うく律遍鏡が割れるところであったぞ」
ヒミコ様は、きっ、と音が鳴るくらいの鋭い目つきで僕を睨み付ける。
「はあ、どうもすみませんでした。僕としては割れてしまっても一向に構わなかったんですけどね」
呪われたせめてものお返しに毒づいてみた。彼女はそれがお気にめさなかったようで、一層攻撃的な態度で僕に向かい立つ。二十センチほどの背丈が、幾倍かに膨れ上がったような威圧感だ。
「律遍鏡が割れるということがどういうことか、汝は理解していないようだから言っておくがな。もしこれに刻まれる曼珠沙華の呪印が少しでも削れるようなことがあれば、汝を縛りつける呪いは永久に解けぬぞ」
なんと、どうやらかなり浅はかな行動を取ってしまっていたらしい。それに関して言えば喜ばしい再会ということになるのだろうか。
「あのう、僕にかけられている呪いって、いったいどういうものなんですか?別になんともなっていないみたいなんですけど」
あれ、もしかして今朝見た変な夢のことだろうか。不快な目覚めを提供する呪い?
「なんだ。汝も一度既に味わったはずであろう。汝の呪いは……」
ヒミコ様がことの核心を語りだそうとしたその時、我が家のチャイムが来客の存在を声高らかに告げた。
「ん?客人が来たようだ。あの『いんたあほん』というものはなかなか面白いな。我にも肉体さえあれば、あの魅惑の装置を使ってみたいものだ」
彼女は話の腰を折った乱入者に、過剰なまでの反応を示す。凛とした瞳は好奇の輝きで満ち、長くすらっとした指は、いつ間にか握りこぶしへと変わっていた。
何が彼女のツボを押さえたのかはわからないけれど、とりあえず、僕に事の次第を話すということよりも、インターホンへの興味が勝ったのは確かだろう。
「そうですね、あれを作った人はすごいですね。ところで僕にかけられている呪いって?」
「おお、そうであったな」
黙っていたら永遠に話し続けそうなので、強引に話を元に戻す。
ヒミコ様は「失念、失念」と、お茶目かつ憎たらしいことを呟いて、咳払いを一つ。
「汝が囚われたのは『死に分かたれる孤独』の呪いだ。ところで、あのいんたあほんというものは実に……」
え?そこに戻るの?なんか死とか物騒な言葉が聞こえましたけど!
「ちょっと、そこのところもっと詳しく教えてくださいよ」
狼狽しつつ、浪漫を語り始めたヒミコ様に問いただそうとしたところ、階下から僕を呼ぶ声が響き渡る。「聖~、お客様よ~」と、ご近所一帯のサトシさんが振り返らんばかりの音量だ。
「何をしておる、客人を待たせるのは無礼であろう」
どうしたものかと迷っていると、ヒミコ様が客に対応するように促してきた。
「後で色々訊きたいことがあるんで、ここにいて下さいよ?」
「うむ、ではその間『てれびじょん』でも鑑賞して待っていよう。電源を入れよ。ああ、コンセントが挿さっていないからな」
本当に古代人なのだろうか。遊びに来て暇を持て余した友達みたいな要求をする。
「じゃあ、すぐに戻ってきますから」
テレビをつけたままのチャンネルにして、おかしな違和感に首を傾げながらも、僕は不意の来客の待つリビングへと向かった。