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曼珠沙華律遍鏡  作者: 足利ハジメ
3/34

生者必衰《バンブツミナ死ニタエル》2

 紅く、赤く。

 浅い溝に流れ込み、『律遍鏡(りっぺんきょう)』を染め上げる。

 真っ二つにされた片割れの、口元から噴き出した絵の具が色褪せた線をなぞる。

 描かれていたのは鮮やかな華。鮮やかに蘇生した花びら。

 円盤は中心に向かって窪んでいる。そこに少年の血液が付着した瞬間、汚れと年月に覆い隠されていた紅が浮かび上がった。

「これも因果か。小僧には気の毒なことをした」

 声だけが小さく響く。円盤を掴んだまま活動を停止した少年に向けて。

 彼の上半身は、踏切から遠く突き飛ばされ、電車が通過しなければ閑散とした線路の上。そこから見渡せる範囲に下半身はなかった。

 そこへ、青い制服に身を包んだ男が、顔面を蒼白にして駆け寄ってきた。

「おい……まさか、俺のせいか、うっ」

 その場所に、彼の犯した過失以外何の異変もなかったことが、罪悪感を喉元へと押し上げる。男は無残な姿で息絶えた少年を目にし、嘔吐を堪えるため、両の手で口を塞いだ。

「これも因果か。悔やむことなかれ。汝は彼岸へと逝くことが出来よう」

 唐突に、円盤の中心から、男を突き刺すようにして光の帯が放出される。

 男は光に飲み込まれ、

 自覚もないまま、

 下半分を削り取られた。

「あ、れ……?」

 男の呟きは長く続かない。腰から下を欠いた男の上体は、重力の法則に従って落下し、内在するものはその瞬間、決定的に絶命した。

「命とは、かくも儚きものかな。幾世もたゆたえば忘れもしよう」

 愁いを帯びた言葉が、男であったものへと落ちていく。今はただ大量の朱を吐き出すだけと化したデク人形。

 風向きが変わり、血のにおいが雑踏へと運ばれていく。そこは、二対の不完全な死体が転がっている、特異な空間だった。

(うつ)し世に縛られる限り、万物皆等しく死に絶える」

 円盤が再び輝きを放つ。

「現し世の楔を外すは、何とおぞましき呪いか……」

 光は血を捧げた少年へと降り注ぎ、『死に別たれる孤独』の呪いは発動した。




 誰かのすすり泣く声が聞こえてくる。

「よかった。ホントによかった……」

 そして途切れ途切れにそんなことを呟いて。

 僕はさっき死んだ。うん。間違いなく死んだ。なんて言ったって真っ二つだし。さすがにあれは無理でしょう。

 じゃあ、僕が死んで良かったって……セイメイホケン?

「良かったってどういうこと?」

 お?なぜか喋れてしまったぞ。

「ああ、聖。もう目を覚ましたのね」

 目を開けると、目の前には長い黒髪を一本に結わえた着物姿の女性、っていうか我が母。

 四人部屋の病室のベッドに幾ほどかの時間横たわっていたのであろう僕に向けて、紫の裾が深く染まるまで号泣していた。

「もうって何さ、もうって」

まるで、意識が戻らない方が良かったかのような言い草だ。上体を起こして非難がましく言ってみる。大丈夫、腰から下も健在だ。

「だって、今日はもう起きないのかと思って入院の手続きお願いしちゃったのよ。気が動転して保険屋さんまで呼んじゃったし」

 ごふ、やっぱりホケン。

「なんで葬儀屋さんより先に保険屋さん呼んじゃうの?」

「だって心細くて誰か知ってる人にいて欲しかったから」

 母さんが中々涙の止まらない目をこちらに向ける。

「じゃあ兄さん呼べばよかったんじゃないの」

「だってあの子は、『れべるあげ?』とかいうので忙しくて来れないって言うから」

「それたぶん忙しくないよ!」

 ついつい声が大きくなり、ここが病室だったことを思い出し周りの人たちに頭を下げる。

 見回して気が付いたけれど、母さん以外の見舞客は誰もいなかった。僕が認識していた時でさえ夕方だったのだから、今は結構遅い時間なのかもしれない。

「ごめん、母さん、もう大丈夫みたい」

 ベッドから降りて伸びをする。体には何も異常はないみたいだ。――そのことが正常であるとは到底思えないけれど。

「えっと、これ僕帰れるのかな?」

 僕の質問に対して、「さあ?」と言って首を傾げる母さん。長いこと眠っていたみたいだし、検査入院みたいのもあるかもしれない。

「取り合えず先生呼んできて」

 色々なことに毒気を抜かれて力なくお願いする。結局ところ、簡単な検査をしてから帰宅することとなった。

 それにしても、僕は……死んだんじゃなかったっけ?




 夕日に代わって伸びていく闇の中、取り残された『律遍鏡』が幽美に煌めく。凄惨たる事故現場に行き来する人の目にも触れず、ただ浮かぶようにそこにあった。

「だから、僕が轢いてしまったのは、警察の方ではなく、さっき運ばれていった少年のほうですよ!」

 憔悴しきった様子の男が怒声を上げる。それが、少年を車で突き飛ばしてしまったこの男の義務だった。

「それで、警察の方が真っ先に向かっていって……僕はしばらく茫然としていて……後になって追いかけたらこんなことに……」

 ただ頭に残っている場面を断続的に吐き出していく。加害者としての意識に息を荒げながらも、また同じ理由で沈黙の中にはいられない。

それは、不自然に欠けた死体の第一発見者も、この男だからである。

「う~ん、実に不思議だ。好奇心が掻き立てられるねえ」

 事情聴取をしていたもう一人の男が呟く。無精ひげによれよれのワイシャツ。清潔感とは、おおよそ無縁な男だ。

 本人に自覚はないが、いかにも不真面目そうな受け答えは、相手の機嫌を著しく損ねてしまった。

「あのですね、僕は真面目に話しているんですよ!」

 大声に驚いたのか。鴉が三羽、羽音を響かせて電線から飛び立つ。そして、示し合わせたかのように線路へと一度舞い降りて、事後処理に勤しむ人間たちを置き去りに消え去っていった。

「あれえ、今何か掴みあげて行きませんでした?」

 ワイシャツの男が言う。彼はうまく話題を見つけたと思ったのだが、相手の表情には怒りの色まで表れた。

「ちょっと!ふざけているんですか!」

 少なからず錯乱していた男がヒステリックな声を上げる。その場で作業していた者達も、さすがに無視出来なくなったようで、何人か立ち止まって事の次第を傍観し始めた。

「いえいえ、別にそんなつもりはないんですが……う~ん、上司が言うには、私は空気を読まないのが得意だそうで」

 相手の勢いにたじろぎながらも、ワイシャツの男は更に続ける。

「つまりですね。その手の話は、今日までの私の領分ではなくて、明日からの私の領分なんですよ」

「はあ?どういう意味ですか?」

「いやね、公僕最後の一日に、サービスで慣れないことをしたのが悪いんですね。もう日も暮れたし、今日はお互い撤収しましょうよ。大分混乱していらっしゃるようだから」

 先ほどまで緋色に染まっていた街並みは、既に紺色へと上塗りされて、世界は喧騒から静かな眠りへと移行を始めていた。

 ワイシャツの男は、ポケットの中から名刺入れを取り出し、そこから一枚取り出して差し出す。

「もっと冷静になって、何か思い出したらこちらにお電話下さい」

 そう言って、彼は男に二の句を継げさせる間もなく立ち去ってしまった。

「衝突事故に遭ったのは少年だが、死んだのは別の男。少年は失神しただけ……う~ん、やはり好奇心が掻き立てられる」

 ワイシャツの男は、最後の挨拶をするために職場へと向かう路で、ぶつぶつと一人呟いていた。

「この件に関しては、やはり警察よりも探偵向きだなあ」

 その口ぶりは自虐的に、しかし満足げに。視線は遠く、目的地へと続く道と空の境界線を見つめている。

 空はただ暗黒だった。星もなければ月もない。

 まるで突き進む黒い塊を覆い隠すように。

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