表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
曼珠沙華律遍鏡  作者: 足利ハジメ
18/34

証明不可《キノウ死ンダワタシ アスヲ生キルワタシ》10

 キーボードが鳴る。速さと正確さのみに気を遣った早打ちは、機械の寿命を縮めてしまいそうだ。

 ディスプレイを眺めることに疲れた脳が、糖分を摂取しろと命令を下す。机の上に積まれた書類の陰に手を伸ばすと、掴み上げられたカップはとても軽かった。

「桜木課長。先日の件ですが」

「川崎よ、坂田君」

「おっと、そうでした。すみません、川崎課長」

 即座に指摘され、長身の男性社員が頭を下げる。

「ちょうどいいところに来た。コーヒーを飲みたいと思っていたところなの。これ、お願いね」

 突き付けられた空のカップを、彼は特に嫌がった様子もなく受け取る。

「ほら、早く。出世に響くわよ」

「はい…砂糖は一つですか?」

 彼は、私の催促に応えようと動かし始めた足を止めて振り返る。

「いえ、今日は二つ」

「はぁ、出世はまだ先になりそうですね」

 溜め息に背中を丸めながら、彼はその場を後にした。

 手持ち無沙汰を感じた私は、再びキーボードを叩く。しかし一度切れた集中は戻らない。視線はディスプレイではなく、隣にある写真立てに合わせられる。

 はめ込まれた写真には、三十代半ばの女と七・八歳程度の男の子。こちらにまで伝染してしまいそうなほど、二人とも嬉しそうに微笑んでいる。

 私は決して将太を忘れない。忘れられない。

 ほんの数秒のメッセージを消せずにいたのは、将太への未練からに他ならない。呪いとかいうものの影響で、虚実を混同してしまうことだって容易に想像できた。

 それでも消せなかった。忘れたくなかった。

 これからもあの電話には将太の最期が残り続ける。私があの子を忘れるはずがないのだ。

 でも、もう縛られない。私にくくりつけられた鎖を、将太の足に結んでしまうのは可哀想。

 私はもう大丈夫だ。しばらくは思い出して涙を流すこともあるかもしれないが、時が傷跡を癒してくれることだろう。それは残酷なまでに。

 でも嘆きはしない。

 今の私には私が見えているから。

 昨日死んだ私が、明日を生きる私を支えていることに気付いたから。


◇   

 

「いや、本当に嬉しいねえ」

 事務所の回転椅子に腰掛けた社長が、茶封筒を手に笑みを浮かべる。

「まさか成功報酬まで頂けるとは思わなかったよ」

 島津隆永の呪いを解いて数日。呪われていた桜木さん――もとい川崎さんが、契約通り全ての費用を支払いに来た。その上プラスαのオマケ付き。

「なんだか色々と吹っ切れたみたいですね。怪我もたいしたことなかったみたいですし」

 社長は飛び降り騒動の後、一応救急車を呼んでいた。検査してみると、彼女は少し首を痛めた程度で済み、むしろ社長の方が重傷だったらしい。

「そうだね。随分と落ち着いていたようだ。晴れて独り身になってすっきりしたんだろう。もちろん呪いのことは言うまでもないが」

 などと言いつつ、社長は茶封筒から飛び出す諭吉さんの点呼をとっている。

「人は過去を積み重ねて生きていく。だからそれが不確かになると、自分自身が不確かに感じてしまうのさ。もしも自身に疑いを持ってしまったら、自身のみで自身の証明をすることは酷く難しい。だから人は、過去をモノにして残していくんだろうね」

 モノは、過去という名の想いを保存する器。昔の人は、その想いを正確に読み取りたくて、歴史学や考古学なんていうものを作ったのかもしれない。

 机の上に置かれている律遍鏡も、ヒミコ様の想いで満たされている。彼女の表情は、僕からは見えない。

 それにしても…。

「かっこよくキメてる時くらい、金の計算は止めましょうよ」

 社長は説教の間に、諭吉さんの枚数を数え直し、帳簿らしきものまで書き始めたのです。

「え、そう?シブかった?」

「シブさよりも、がめつさがよく伝わってきました」

 なぜか社長は少し嬉しそう。顔は見えないけれど、ヒミコ様がどのような表情をしているのかわかってしまいました。

「あの男は、金のために働いているのだな」

 なんだか当たり前のことを言うヒミコ様。

「それもあると思いますけど、たぶん好きでこの仕事をしているんだと思いますよ。前の職場にいた頃は、結構稼いでいたみたいですし」

 社長には聞こえない程度に囁く。

「そういえば、ヒミコ様は何のために呪いを解いてあげたんですか?」

 ヒミコ様は、ただのボランティア精神で動くような方ではない。失礼。なさそう。

「お目当ての人物がいるみたいですけど、どんな呪いかも知っているようだったし。今回がそうじゃないことなんて、すぐにわかったでしょう?」

 僕の問いかけに、ヒミコ様が振り返る。あれ、そんなことが出来たのですか?僕はてっきり、律遍鏡の向きを変えなければ、ヒミコ様の向きも固定されるのかと思っていました。

「全ては我が呪いを解くためだ」

 彼女は、僕の小さな驚きを無視して続ける。

「我らの魂は、グレゴの呪いを通じて引き合っている。ゆえに目当ての者に巡り会いたいのならば、他を潰していけばよいのだ」

「はあ、それで、お目当ての人物っていうのは?」

 彼女は、もったいぶっているのか、何か想うところがあったのか、すぐには答えてくれない。

「…スサノオ」

 そしてしばらく沈黙した後、ようやく名を告げた。

「我が弟だ。グレゴの呪いは、生前の姿を知る者に許されることでしか解けぬ。グレゴが曼珠沙華を託した者の中で、我の生前を知る者は、あやつしかおらぬのでな」

 その声は少し寂しそうで。許されるのは一人だけ。片方が許されれば、もう片方は永遠にこの世を彷徨い続ける。

「それで、ヒミコ様の呪いを解くんですか?」

「そうだ、おそらくはな」

 歯切れの悪い返事は、何を投影しているのだろう。彼女の躊躇いは、どんな結末を生むのだろうか。

「どちらにせよ、早く会えるといいですね」

 僕は、その迷いとも言える想いには触れず、当面の目的が達成することを祈願した。

「もう夏も終わりそうですね」

 日光の当たらないこの部屋は、外よりも幾分涼しい。だから夏が去っていくのを、いち早く感じられたのかもしれない。

 静かに、穏やかに。こうして僕の夏休みは終わった。


 曼珠沙華は、赤く、紅く。ただ淡く輝いている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ