証明不可《キノウ死ンダワタシ アスヲ生キルワタシ》10
キーボードが鳴る。速さと正確さのみに気を遣った早打ちは、機械の寿命を縮めてしまいそうだ。
ディスプレイを眺めることに疲れた脳が、糖分を摂取しろと命令を下す。机の上に積まれた書類の陰に手を伸ばすと、掴み上げられたカップはとても軽かった。
「桜木課長。先日の件ですが」
「川崎よ、坂田君」
「おっと、そうでした。すみません、川崎課長」
即座に指摘され、長身の男性社員が頭を下げる。
「ちょうどいいところに来た。コーヒーを飲みたいと思っていたところなの。これ、お願いね」
突き付けられた空のカップを、彼は特に嫌がった様子もなく受け取る。
「ほら、早く。出世に響くわよ」
「はい…砂糖は一つですか?」
彼は、私の催促に応えようと動かし始めた足を止めて振り返る。
「いえ、今日は二つ」
「はぁ、出世はまだ先になりそうですね」
溜め息に背中を丸めながら、彼はその場を後にした。
手持ち無沙汰を感じた私は、再びキーボードを叩く。しかし一度切れた集中は戻らない。視線はディスプレイではなく、隣にある写真立てに合わせられる。
はめ込まれた写真には、三十代半ばの女と七・八歳程度の男の子。こちらにまで伝染してしまいそうなほど、二人とも嬉しそうに微笑んでいる。
私は決して将太を忘れない。忘れられない。
ほんの数秒のメッセージを消せずにいたのは、将太への未練からに他ならない。呪いとかいうものの影響で、虚実を混同してしまうことだって容易に想像できた。
それでも消せなかった。忘れたくなかった。
これからもあの電話には将太の最期が残り続ける。私があの子を忘れるはずがないのだ。
でも、もう縛られない。私にくくりつけられた鎖を、将太の足に結んでしまうのは可哀想。
私はもう大丈夫だ。しばらくは思い出して涙を流すこともあるかもしれないが、時が傷跡を癒してくれることだろう。それは残酷なまでに。
でも嘆きはしない。
今の私には私が見えているから。
昨日死んだ私が、明日を生きる私を支えていることに気付いたから。
◇
「いや、本当に嬉しいねえ」
事務所の回転椅子に腰掛けた社長が、茶封筒を手に笑みを浮かべる。
「まさか成功報酬まで頂けるとは思わなかったよ」
島津隆永の呪いを解いて数日。呪われていた桜木さん――もとい川崎さんが、契約通り全ての費用を支払いに来た。その上プラスαのオマケ付き。
「なんだか色々と吹っ切れたみたいですね。怪我もたいしたことなかったみたいですし」
社長は飛び降り騒動の後、一応救急車を呼んでいた。検査してみると、彼女は少し首を痛めた程度で済み、むしろ社長の方が重傷だったらしい。
「そうだね。随分と落ち着いていたようだ。晴れて独り身になってすっきりしたんだろう。もちろん呪いのことは言うまでもないが」
などと言いつつ、社長は茶封筒から飛び出す諭吉さんの点呼をとっている。
「人は過去を積み重ねて生きていく。だからそれが不確かになると、自分自身が不確かに感じてしまうのさ。もしも自身に疑いを持ってしまったら、自身のみで自身の証明をすることは酷く難しい。だから人は、過去をモノにして残していくんだろうね」
モノは、過去という名の想いを保存する器。昔の人は、その想いを正確に読み取りたくて、歴史学や考古学なんていうものを作ったのかもしれない。
机の上に置かれている律遍鏡も、ヒミコ様の想いで満たされている。彼女の表情は、僕からは見えない。
それにしても…。
「かっこよくキメてる時くらい、金の計算は止めましょうよ」
社長は説教の間に、諭吉さんの枚数を数え直し、帳簿らしきものまで書き始めたのです。
「え、そう?シブかった?」
「シブさよりも、がめつさがよく伝わってきました」
なぜか社長は少し嬉しそう。顔は見えないけれど、ヒミコ様がどのような表情をしているのかわかってしまいました。
「あの男は、金のために働いているのだな」
なんだか当たり前のことを言うヒミコ様。
「それもあると思いますけど、たぶん好きでこの仕事をしているんだと思いますよ。前の職場にいた頃は、結構稼いでいたみたいですし」
社長には聞こえない程度に囁く。
「そういえば、ヒミコ様は何のために呪いを解いてあげたんですか?」
ヒミコ様は、ただのボランティア精神で動くような方ではない。失礼。なさそう。
「お目当ての人物がいるみたいですけど、どんな呪いかも知っているようだったし。今回がそうじゃないことなんて、すぐにわかったでしょう?」
僕の問いかけに、ヒミコ様が振り返る。あれ、そんなことが出来たのですか?僕はてっきり、律遍鏡の向きを変えなければ、ヒミコ様の向きも固定されるのかと思っていました。
「全ては我が呪いを解くためだ」
彼女は、僕の小さな驚きを無視して続ける。
「我らの魂は、グレゴの呪いを通じて引き合っている。ゆえに目当ての者に巡り会いたいのならば、他を潰していけばよいのだ」
「はあ、それで、お目当ての人物っていうのは?」
彼女は、もったいぶっているのか、何か想うところがあったのか、すぐには答えてくれない。
「…スサノオ」
そしてしばらく沈黙した後、ようやく名を告げた。
「我が弟だ。グレゴの呪いは、生前の姿を知る者に許されることでしか解けぬ。グレゴが曼珠沙華を託した者の中で、我の生前を知る者は、あやつしかおらぬのでな」
その声は少し寂しそうで。許されるのは一人だけ。片方が許されれば、もう片方は永遠にこの世を彷徨い続ける。
「それで、ヒミコ様の呪いを解くんですか?」
「そうだ、おそらくはな」
歯切れの悪い返事は、何を投影しているのだろう。彼女の躊躇いは、どんな結末を生むのだろうか。
「どちらにせよ、早く会えるといいですね」
僕は、その迷いとも言える想いには触れず、当面の目的が達成することを祈願した。
「もう夏も終わりそうですね」
日光の当たらないこの部屋は、外よりも幾分涼しい。だから夏が去っていくのを、いち早く感じられたのかもしれない。
静かに、穏やかに。こうして僕の夏休みは終わった。
曼珠沙華は、赤く、紅く。ただ淡く輝いている。




