表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
曼珠沙華律遍鏡  作者: 足利ハジメ
17/34

証明不可《キノウ死ンダワタシ アスヲ生キルワタシ》9

 振り子が右に左に流れていく。

「自身を喪失したことの愁いが記録となり、グレゴの呪術によって呼び起こされたか」

 ヒミコ様が島津隆永の亡霊を見据える。彼女が目を閉じていたのは、ほんの数秒のことだった。 

「病で命が尽きようとした時、私は気づいたのです。過去と今を結ぶ、私の不連続性に。未来が閉ざされて、私に出来ることは過去を顧みることぐらいでしたから」

 光の円に囲まれた男は、震える声で答えた。

「その想いが、私の死を看取ったこの振り子時計に宿ったのでしょう。私のようなつまらない男の記録を、百年以上も残してくれるとは思いませんでした」

 悲哀に満ちた表情は、決して慟哭に変わることはない。慟哭するのに、百の年月は長すぎたのかもしれない。

「それで、喪失した自身を思い起こすために、此岸に留まっているのか?」

 ヒミコ様が言う。

「ええ、そのようです。そもそも、私に自身などなかったのかもしれませんが…」

 男は、そのまま黙り込んでしまった。言葉がなくなると、振り子の音が浮き彫りになる。歩みを止めた彼の隣で、常に時を刻み続けてきたのだろうか。その声色は時に無感情で、時に残酷だ。

「ならば、我が汝という存在を記憶しよう」

 鎮魂歌のような歌声が響く中、ヒミコ様が口を開く。

「もとより自身という観念に永続性や固定性はない。生とともに変化を繰り返すもので、今の自身を認めていく他ないのだ」

 男は口を挟むことなく、彼女の言葉に聞き入っている。数百年の時を流れてきたヒミコ様の言葉が、自分よりも真理に近いということを感じ取ったのだろうか。

「汝も本質的には理解しているはずだ。年月を刻み死の淵にある自身と未来に胸をはせる過去の自身が同一であることなど、概ねあり得ない」

 ヒミコ様の一言一言に、男は身をすくませる。ただ視線を彼女から逸らすことはない。

「一つ汝に問おう。汝自身が操られるままに生きたと感じた人生には、何の意味も無かったであろうか」

「いえ、それは…」

 常にヒミコ様の言葉を嚙み砕いてから返答をしてきた男は、その質問に対してだけは即座に切り返した。

「それだけはきっと、絶対に無い」

 勝者の歴史に埋もれて消された男の力強い返答。

「私の行ってきたことは歪められて伝わっているかもしれませんが、私自身には国の変革に関わってきたという自負があります」

「うむ、なれば良し。汝はその心持のまま彼岸へ逝くがよい。汝の逡巡、過ち、悔いも想いも、全てを我に託してゆけ」

 返ってきた言葉に満足したのか、ヒミコ様は大きく頷いて、諭すように、なだめるように言う。

「私は彷徨う必要のないことに捉われていたということでしょうか」

「我らはみな似たようなものだ。だからこそ、この呪いはこんなにも簡単な儀式で解けてしまう」 

 再び彼女が手を伸ばす。僕も今度はすぐに察して、もう一度律遍鏡を時計盤の正面まで持ち上げた。

「我は許そう。汝が彼岸へ逝くことを。彼岸にはいるであろう?汝が刻んできた自身を知る者が」

 針の先へと手が添えられる。視線は盤に、想いは男に向けられて。

「ありがとうございます。あちらで再びお会いできることを祈ります」

 男の訣別の言葉。表情は晴れやかで、瞳は涙に濡れていた。

 その瞬間、男の呪縛が解き放たれる。

 時計に描かれていた紅い曼珠沙華が、白く鮮烈な輝きを撒き散らすとともに、一枚ずつ花びらが消失していく。

 全ての花弁がなくなると、時計盤から射出されていた円形の光も、周囲の薄暗さに紛れてしまう。振り返ってみても、既に男はいなかった。

「呪魂、想あれば果てぬ……」

 それは囁きなのか、嘆声なのか。

 振り子が刻む美しい時の合間に、律遍鏡の華だけが輝いていた。



 その夜、僕は夢を見た。



 時計盤に紅い線が奔る。動きを止めた振り子が、ただだらしなくぶら下がっている。

 みすぼらしい布切れを纏った老人の筆遣いは、優雅であり大胆である。見る者がいれば拍手と歓声が沸き起こったのだが、その路地裏には彼以外に存在しない。

 老人は独り回顧する。

 まだ若者であった頃、彼は暗い穴蔵にいた。その数年前に激化した『民族狩り』から逃れるためである。

 そこは彼と同じような境遇の者で溢れかえっていた。

「主は私達の救済を約束されたはずなのに。いったい、いつになったら救われるのだろうな」

 隣の地べたに座り込んだ中年の男が、彼に声をかけた。

「ああ、また始まった」

 遠方から微かに聞こえてくる演説。誰かの持ち込んだラジオ放送に、男は顔をしかめる。

「私達は劣等民族だと。あいつらは文化創造主で優秀な民族なんだそうだ」

 男は、たった今自分が言ったことがおかしくて鼻で笑った。

「あいつらの民族区分は言語的だ。なんだ、難しい文法を使って話すから優秀だとでも言いたいのか?そんなことが優秀な証になるのか?」

 男の怒り、悲しみ、不満、不快。吐き出される呪詛は、聞き手の心に深く突き刺さる。

「そうか、私達は同じだったのか」

「同じ?やめてくれ、あんなやつらと同一視するのは」

 彼の言葉に、男はすぐに反論する。その反応を見て、彼はそれ以上を口にするのを止めた。

(私達は同じなのかもしれない)

 彼は、もう一度心中で繰り返す。

(とある民族だから優秀であるという彼らと、とある民族だから救われるという思想。その論理に違いはあるだろうか)

 もちろん、相手のしている大量虐殺は、嫌悪の抑えることの出来ない愚行であるという考えは変わらない。

 しかし、彼は自身を虐げてきたものの正体を、自身が信じてきたものの中に見た気がした。

 そして更なる不幸は、彼が敬虔な信者でなかったこと。それでも自らの宗教は信じていたことだ。彼がその結論を得るにはあまりに中庸すぎた。それゆえに彼は自身が瓦解したとさえ感じたのである。

 彼は、その時の喪失感を筆に乗せて華を描く。

「刻もう、この悲愴を。この繰り返される『自身への懐疑』を…」

 老人の生み出す血の花弁が、一つの芸術品を限りなく凶悪に、限りなく美麗に変色させていく。託された永久の重みに、振り子が微かに揺れた。


 曼珠沙華と共に、おもいを乗せて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ