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曼珠沙華律遍鏡  作者: 足利ハジメ
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証明不可《キノウ死ンダワタシ アスヲ生キルワタシ》8

 温かい日差しの中、男が縁側にあぐらをかき、手にした真新しい書物を精読している。黒い紋付の羽織と白い袴で身を固めているが、髪にはまとまりがない。

「やあ、坂本さん。君はいつも同じものを着ているね」

 そこにもう一人の男が現れ、坂本と呼ばれた男の隣に腰掛ける。

短髪で細身の男。坂本の着るしわの目立つ紋付に対し、彼はきちんとした正装をしている。

「おお、島津さん。いやいや、着替えるのが面倒なもので…」

 坂本は本を閉じ、男に頭を下げた。

「その本は?」

 男が尋ねる。

「これは、清国の学者によって書かれたものです。外国の政治や兵器が図解されています」

 坂本はすぐに顔を上げ、神妙な顔付きで答えた。

「これを読んで痛感しました。やはりこの国は、今の体制のままでは異国の食い物にされてしまう。早急に事を起こす必要があると」

 瞳は男を芯から射抜くほどの鋭さと、何者によっても動かされない強固な照準を持ち合わせている。

坂本の鬼気迫る演説に、男はたじろぐ。

「私自身、取り分けて能力の高い人間というわけではないから、君が夢見ているこの国の姿は、私にはおぼろげにしか見えない…」

 男はしばらく考え込んで、ようやく口を開いた。

「ただ、誰の言葉が正しいのかは判断出来るつもりだ」

 そしてこう続ける。その言葉に相手ほどの信念はないが、男なりの愛国心と、現状のもどかしさを脱却したいという想いが込められていた。

 その所懐を正確に解釈した坂本は、不敵な笑みを浮かべ遠方の景色を眺める。彼が目に映していたものは、国の行く末だったのかもしれない。

 国の体制が将軍中心のものから、天皇中心のものへと移行したのは、それから間もなくのことであった。



「暗殺?坂本さんを?大久保さん。どういうことだい?」

 だだっ広い畳の間に、男の声が小さく響く。

高級旅館の一部屋。立ち寄る人間を封鎖した空間は、密談に最適な場所だった。

「無血開城というのがよくなかったのだ。武力討伐を支持していた我々薩摩の人間にとって、手を振り上げた瞬間に殴りつける相手をかっさらわれたようなものだ」

 大久保と呼ばれた男が答える。

「更に悪いことに、彼は将軍家を存続させるというではないか。これは我々への裏切りだ。我らがやらずとも不満はいずれ爆発する」

 大久保はあご髭を弄びながら、厳しい口調で言い放った。それに対し男が反論する。

「確かに、そう思う者も少なくないかもしれない。だが徳川の存続も、彼の目指す国づくりの一つではないだろうか」

「彼の目指す国を、私も見たいと思うからこそ言っているのだ」

 帰ってきた大久保の言葉は冷たい。男はこれが相談などではなく、報告なのだと理解した。大久保は更に続ける。

「既に薩摩の中で、彼を討ち取る計画が浮上している。ただその計画を実行に移すには、私かお前の号令が必要だ」

 男も、その事実は理解していた。だからこそ何も言えない。

「たとえ私の号令のもとで行っても、お前が批判すれば、お前に心酔する者たちが、新政府に反旗を翻すことになるだろう。それに私よりも、お前の方がよほど人徳者だ。島津隆永の号令ならば、みな坂本を殺すことに疑問は持たんよ」

 その席には酒も用意されていたが、共に一口も飲み交わしていない。流し飲むには重すぎた。どちらも酔えはしまい。

「わかるな、隆永。今、国の舵取りをしている薩摩が揺れるわけにはいかんのだ。それはすなわち国の揺れ。坂本の恐れていた、異国の介入を招くことにもなるやもしれん」

 最早、男に選択肢は用意されていなかった。

 それでも大久保は、とどめの一言を告げる。

「坂本龍馬の夢見た国は、彼が生きている限り実現しない」

 男に決断をさせるには、それで充分だった。

「わかった。大久保さんの言う通りにしよう」

 静かに、抑揚なく男は答える。

「ただ、彼の見ている国を見失った時、私は政府から去るよ」

 男は立ち上がり、大久保を残して部屋から出て行った。

 数年後、その言葉通りに彼は姿を消した。



 座敷で酒を酌み交わす二人の男。双方ともに、頭部には白髪が目立ち始めている。

「大久保さん、何年ぶりだい?着こなしが随分とうまくなったようだ」

 男は、軍服姿の大久保に酌をする。

「ただ痩せこけただけだよ。歳は取りたくないものだ。どうやら西洋の服は、多少こけていても、いい案配らしい」

 大久保も返しで酌をする。しばらく二人は世間話などをして、酔いが薄れてきた頃に男が切り出した。

「ところで大久保さん。わざわざ隠居している私を訪ねて来たのは、ただ酒をたかるためではないだろう?」

 急に核心に迫られ、大久保は大きく深呼吸をする。

「実は、お前に頼みがあって来たのだ」

 脳に大量の酸素が送り込まれることで、大久保は完全に酔いから醒めた様子だった。

「現在、各地で反乱の潮流が生まれつつある。それはわかっているな?」

「ああ、こんな所で暮らしていても、やはり無関心ではいられないさ」

「それでだな。若い士族の間では、その軍勢を率いる将に、お前を擁すという話になっているようだ。政府と一線を隔したお前に、翻意がないはずがないということだろうな」

 男に翻意はなかった。ただ道標が霧に覆われて見えなくなったことを嘆き、自身の誓いを遵守したまでのことである。

「私は…」

「わかっている。お前にその気はない」 

否定は必要なかった。男の有無は、既に話の焦点ではない。

「だが薩摩の若者は、その流れに従うだろう。そうなれば、お前は担ぎ上げられたも同然。私は、部下にお前を討てと命じざるを得なくなる。長年の盟友を、こんな形で亡くしたくはない」

 一時、場を静寂が支配する。静けさの中では、虫や野鳥の鳴き声が、急かすように響いているように男は感じた。男は今も迷走の中にある。

「それで、身を隠せとでも?」

「いや、どうせ身を隠すのなら協力してくれ」

 大久保の本題は、むしろこれからであった。

「各地の勢力が集結すれば、政府も手こずることになる。だが今の状態ならば政府は大勝し、威光を知らしめることが出来だろう」

「私に扇動役をやれと?同じことだ。そのような茶番は政府の恥。政府に身の安全を保障されようとも、約束は反故に…」

 男は言葉を詰まらせ、我に返ったように落ち着きを取り戻す。

「いや、どうせ死ぬのならば、国のために。その方が私らしい」

 男の瞳に諦観とも覚悟ともとれる輝きが灯る。誓いの元に国政から退いたものの、彼の志が枯れることはついぞなかった。心のうちに燻っていたものが、その死に場所を求めていたのだ。

「いや、お前は死なない」

 自らの死を受け入れた男に、大久保は否定の言葉をぶつける。

「仮に反乱が起きた時に政府軍を指揮するのは私だ。隆永、これが最後の我儘だ。私に友を殺させるな」

「いや、しかしそれは…」

「私が国外に逃がしてやる。家族を共に連れて行ってもいいし、残すのならば私が面倒みよう。名を変える必要はあるが、政府の人間として使ってもいい」

 大久保は彼に救いの手を差し伸べたつもりであった。彼も男の中に抑えがたい信念があることを理解していた。同時にその志は、いずれ心もとない勢力から担ぎ上げられて蜂起することになろうと予想していた。

しかし大久保の差し出した手は、男にとって救いの手ではなかった。彼は知っていたのだ。たとえ亡命し生き長らえようとも、自責の念が己を圧殺するであろうことを。

「…わかった。子らの面倒を頼む」

 だが男は承知した。それが、少なからず影響力を持つ自分の義務と、自分を助けるために苦心したのであろう大久保への義理を、同時に果たす唯一の手段と思えたからだ。

「ああ、これが今生の別れかもしれん。もう少し飲もうか」

 男の杯が酒で満ちていく。今度は男が返しで酒をつぐ。

 これが、二人の交わす最後の杯となった。



 西洋の風が通る部屋の中、大久保が数枚の書類と向かい合う。政府高官にあてがわれたその場所は、文明開化の波と既存の文化が混ざり合い、ささやかながらの独自性を生み出している。

「確か、反乱軍の中に、見るからに屈強そうな男がいたな」

「はい。名を西郷吉之助と申す者で、薩摩の古豪と評判の高い男です」

 傍らに控えていた部下の一人が、大久保の声に反応する。

「あの男だ。あの男こそ反乱の首謀者」

 大久保の呟きに、部下は首を傾げる。

「どういうことでしょうか?」

「島津隆永の名は、公には出来ん。少なくとも、この国が対外的に磐石なものとなるまでは、隠し通さなければならない」

 政府にとって島津隆永という存在は、その正当性を瓦解させる歴史的汚点であった。

「いや、実在する人間を使うよりも、我々の手で英傑を作り上げた方が聞こえはいいか。西郷という男の写真や肖像を集めさせろ。容姿はあの男を使う。なければ描かせろ」

 命令に忠実に、全ての部下が迅速に行動を開始する。一人、大久保だけが部屋に残された。

「そうだな。名が必要か」

 大久保は書類を書き進めていく。まだ鎮圧は終わっていない。しかし現在、彼のすべき仕事は事後処理であった。

 ある程度の必要事項を埋め、大久保は目を閉じる。頭を空に、心だけは働かせ、内から聞こえてくる響きへの忠実さに努める。

「西郷隆盛」

 しばらくして、彼は一人の英雄を創出した。

 名から湧き起こるイメージは豪快。想像に違うことなき巨躯は、周囲の人間に畏敬をも感じさせる。幕末・維新を駆け抜けた指導者。

 その男こそ、西郷隆盛。

 隆永の一字を残したのは、完全に記録から抹消される男への罪悪感と哀悼である。

 偉大なる英雄がそこで生まれ、一人の男がそこで死んだ。



 私は悔いている。誤った選択をしたことをではありません。自身で選択をしてこなかったことを悔いているのです。

 死の床に就き、私は思う。私は誰かの操るままに生きてきたのではないだろうか。私を糾弾する声も、私を賛美する声も、どちらも私へ向けられたものでないのではないか。

 私に私はあったのでしょうか?

 あの日死んだ私は、今終わろうとしている私に何を残したのでしょうか?

 私を失った私は、私なのでしょうか?

 私は悔いている。誰からも忘れられてしまったことをではありません。自身が生きてきた私を忘れてしまったことを悔いているのです。

 己の中で無限に繰り返される喪失感を、私は背負い続ける。


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