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曼珠沙華律遍鏡  作者: 足利ハジメ
13/34

証明不可《キノウ死ンダワタシ アスヲ生キルワタシ》5

 疲れきった身体を吊り革に預け、電車の揺れに漂う。

 やはり一度帰宅した後の再出勤ほど疲れるものはない。部下がミスをして、責任者である私が向かうハメになってしまった。

 腕時計の針先を確かめる。まだ日付は変わっていない。その日の内に仕事を終えられたのは幸いだった。

 景色の流れが次第に緩やかになり、止まる。私は誰よりも早くその車両から降りた。

 

チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ


 ホームはがらんとしていた。人がいないわけではない。ただ、ぽっかりと穴が開いていた。

 そこは

ただ

 広いだけの

ただ

 何もないだけの


 後方で何かが動きだした。轟音を上げ、私を掻き消すように。

 私は振り返らない。振り返りはしないが、何かが喪失したのを感じた。

「どこだろう、ここは……」

 見回してもわからない。正確に言えば、どこにいるのかは理解できる。私の正面の柱には、駅名がしっかりと張り付けられている。

 ただ、なぜ私がここにいるのかわからない。

 それ以前に私自身がわからない。

 男?女?外見は?職業は?経歴は?家族は?

 なぜここにいるの?なぜわからないの?

 まるで道に迷った幼子のように怯え、ただ誰かが助けてくれるのを待つだけの私。

「どうかしました?顔色、悪いようですけど」

 立ち尽くすだけの私を見ていたのだろうか。近くで次の電車を待っていた若い女性が声をかける。それが何かの刺激になったのか、霧のかかった記憶が徐々に呼び起こされていく。

「いえ、大丈夫です」

 私は一言だけ告げて歩き始めた。



 私は扉を開けて暗い家の中へ入った。

 玄関の蛍光灯を残して、ここには何一つ光がない。せめて通り道だけは明るくしようと、廊下の電気だけは点けた。

 自室で荷物を下ろし、子供部屋へと向かう。時間帯を考えるに、あの子は眠っているだろうが、それでも顔を見ないで寝てしまうのは寂しい。

 子供部屋はとても静かだった。ベッドは平坦のまま、心地いい寝息もない。

 誰もいない。

「将太、どこに……」

 私は家中を駆け回った。動転を通り過ぎて血の気が引いていく。深夜にも関わらず、大声を出して将太の名を繰り返す。

「そうだ、電話……」

 誰かに助けを求めようとしたのか、カラカラに渇いた喉が勝手に声を出した。命令に忠実な身体は、その通りに実行しようと受話器を耳に押し当てる。

 その時、留守番電話にメッセージが残されていることに気がついた。既に確認済みなのか、未聴時に点灯するランプは点いていない。

 だからそんなもの聴く必要がないのに、私の指は導かれるように再生ボタンを押した。


 ニケンデス

――私は呪われている。ある瞬間に記憶がなくなり、徐々に偽りの記憶で満たされていく。私は私を信じてはいけない。記憶を信じないで。記録を信じるの――

――もしもし、ママ。パパの家で忘れ物しちゃったから、取りに戻る。じゃあね――

 サイセイヲシュウリョウシマス


 一つ目は私の声。二つ目は将太の声。

 呪い?それはさっき自分が誰なのかわからなくなったアレのこと?

 偽りの記憶で満たされる?だから私は将太がどこにいるのかわからないんだ。

 そうだとしたら今のメッセージから考えて、将太はあの人のところにいる。

 じゃあ、迎えに行かなくちゃ。



 呼び鈴を鳴らす。返事を待つ。

「また君か。しかもこんな朝早くに」

 疲弊した声。どうやら、私は何度もここを訪ねてきたらしい。

「将太に代わって下さい」

 自分を抑え切れない。私はインターホン相手に迫った。

「もういい加減にしてくれ!僕だって辛いんだ!それとも、僕を責めているのか?」

 返ってきた怒声。

 わからない。あの人は何を怒っているのだろう。

「僕だって、あの時仕事に向かったことを何度も悔やんだ。でも送り返してすぐに戻ってくるなんて思わないじゃないか。僕が迎えに行っていれば……」

 この人は何を言っているんだろう。わからない。私は将太に帰ってきて欲しいだけなのに。

 なぜこの人はこんなにも悲しそうに……。

「早く……将太に……」

 うまく呼吸が出来ない。ただ一言。会いたいって言いたいだけなのに。

 なのに……。

「逃避しても、あの事故をなかったことには出来ないんだ!将太はもういない!」

 いない?なぜ?なぜ?

 なぜ?

 いない?

 わからない。

「将太は死んだんだ!」

 わからない。わからない。

 なぜそんな酷いことを言うの?

 なぜ

 私は、その事実を

 こんなにも簡単に

 受け入れてしまっているの?

「涼子、君だってまだ若い。僕達の関係は駄目になってしまったけれど、ちゃんと籍を外してから新しい人を見つけて、また子供を作れるじゃないか」

 少しずつ、あの人の口調が静まっていく。

 なぜそんなにも落ち着けるの?

 駄目だ。声が出ない。喉が潰れてしまった。

「そうだ。僕も混乱していたんだ。取り敢えず話し合おう。部屋まで来てくれ」

 近くで鍵の開く音がする。

 私はゆっくりと――遠ざかった。

「涼子?入ってきているか?いや、待て。迎えに行く。今降りるから待って……」

 私は、私を殺す呪詛から必死で逃げ出した。



 ここは、どこだろう。わからない。

 外に突き出た螺旋階段の中腹で、私は立ち止まって考えていた。

 私はどうしてここにいるのだろう。揺れて、流れて、彷徨って、その終着がこの場所だったのだろうか。

「消えてなくなりたい……」

 そうだ。きっと飛び降りるために、この階段を登っているんだ。

「将太……」

 あの人は、わかっていない。将太の代わりなんていない。あの子は私が産んだんだ。結果だけ授けられたあの人とは根本的に違う。

「そうだ、明日になったら忘れてしまうんだ」

 呪い。今日の私は、昨日の私を覚えていない。明日の私は、今日の私を引き継がない。

 昨日死んだ私は、明日を生きる私とは別の人間であり、また同じ人間。

「だとしたら、この悲しみは永遠」

 私には将太しかいない。それ以外に大切なものが思い出せない。

 無限に繰り返される喪失感を、私は背負い続ける。

「もう疲れた」

 これ以上足が動かない。まだ三階程度の高さ。これじゃあ死ねないかもしれない。

「頭から落ちれば……」

 もし生き残ったとしても、その時は明日の私に任せよう。

 世界を逆転させたまま、私は空へと向かって落ちていった。

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