証明不可《キノウ死ンダワタシ アスヲ生キルワタシ》2
夏休みも、あと一週間で終わってしまいます。本来ならば、だらけてしまうような蒸し暑さの中、この僕、加美野聖はバイトを始めることになりました。
「ヒミコ様、本当にここなんですよね?」
駅から徒歩五分、好条件の立地の割には寂れたビル群。バイト先の建物はひっそりと佇んでいた。
「地下一階、雀荘。一階、マッサージ店。二階……あった」
なんだか高校生には敷居の高い建物だ。その上からは順に、碁会所、何かの会社の事務所。五階は空いているようだ。
「いつまで呆けておるのだ。早く入らぬか」
ここ数日ですっかり定位置と化したバッグから、ヒミコ様が急き立てる。
僕は一度大きく深呼吸をして雑居ビルの重い扉を引いた。
「あ、思ったよりも中は綺麗だ」
ゴミだらけの悪臭漂う、なんていうのを予想していただけに、出迎えが埃の塊だなんて全く気にならない。
それにしても、ここはすごく静かだ。外の穏やかな喧騒に比べ、この建物はまるで死んだよう。それはこのビルが、夜の街の一部だからだろうか。
目的の階へ向かおうと、幅の狭い階段の手すりに手をかけた時、すぐ上の階から扉の開閉する音が聞こえてきた。それはとても小さな音だけれど、音に敏感な空間が階下まで響かせたようだ。
僕は降りてくる人の気配に、一歩下がって道を譲った。時計の針が時を刻むように、一定のリズムで靴音が鳴る。
ヒールから現れたのは、スーツ姿の女性。仕事の合間にでも立ち寄ったかのようないでたちだ。僕には女性の年齢を見極める目がないから、歳の程はわからない。
彼女は降るのを待っていた僕に会釈をして、きびきびとした歩調を緩めずにビルから出て行った。
「こんな僻地にも、お客さんが来るんだ」
呟いて、階段を上り、お目当ての部屋の前までやって来た。
ところで、これはどうやって入室するのが正解なのでしょうか。アンティークな木製の扉が、番人然と立ちはだかっている。呼び鈴がないところを見ると、いきなり入ってもよろしいんですよね?
「えっと、失礼しまーす」
無難にノックと一声かけて、ドアノブをゆっくり回した。
室内は日の高さの割に薄暗い。窓から差す日の光に対して、この部屋は広すぎる。それでも天井に整列した蛍光灯は、一つも役目を与えられていない。
僕の来訪に気付いて、事務所の借主――つまり数分後の雇い主が立ち上がって出迎える。
「あれ、加美野君。どうしたんだい?」
筋肉質でがっちりとした長身の男。しわの目立つワイシャツに無精髭。それとほんの少しタバコのにおい。
「この前の件だったら、依頼主の方からキャンセルがあったよ。留守電に入れておいたんだが、聞いていないのかな」
「そうだったんですか。聞いてないです。でも今日はそれとは関係なくて……いや、関係あるのかな」
僕はカバンに手を突っ込んで、ヒミコ様の隣にある求人雑誌を取り出した。
「はい、これです。『城島探偵事務所』アルバイト募集中って」
端の折られたページをさっと広げて見せる。
「あ、バイト……う~ん、わざわざウチを選んできた気概は買うがね。ここ見てよ」
僕から雑誌を取り上げ、一点を指差す。そこには、募集年齢に二十歳以上・学生不可と書かれていた。
「探偵っていうのは不定期な仕事だから、ある程度時間の融通を利かせられる人が欲しいんだよ」
大人になってから来て下さい、とばかりに雑誌が突き返される。そしてそのままの流れで、城島さんは僕を出口へと誘導し、退出を促した。
そうはさせじと、僕は必死に食い下がる。
「ちょっと待ってくださいよ。どうしてもここじゃないとダメなんです!」
「そう言われてもね。君、昼は学校があるだろう?夜は十時までしか働けないし。正直な話、そう何人もバイトを雇う余裕はないんだ。せめて大学生くらいじゃないと」
「もし雇ってもらえるなら、この前の事件について何もかも話しますから!」
その言葉を聞いて、城島さんの動きがぴたっと止まった。
「……いや、ただ気を失っちゃっただけなんだろう?」
「いえ、真相は物凄いです。怪しいって思ってるんですよね」
城島さんは、しばらく考え込み、「まあ、いいか」と一言。今度は部屋の中心にあるソファーへと僕を招き、自分も向かいにある回転式の椅子に腰掛けた。
「バイトするってこと、保護者の方には了解取ってある?」
僕は肯定したけれど、母さん達に言ったのは、アルバイトを始めるということまでだ。お勤め先が城島探偵事務所とは言っていない。駅前のコンビニで、ということにしておいた。そうしないと、何だか反対される気がして。今僕が偽って頷いたのも同じ理由だ。
「よし、わかった。君を採用しよう。実はこの前のことが気になって仕方がなかったんだ」
説得(交渉?)に折れた城島さんは、部屋の奥にある机から取り出した契約書のようなものを差し出して、もう一度椅子に腰掛けた。
「じゃあ、それを書きながらでもいいから話してくれるかい」
城島さんは、いつの間にか先日の手帳を開いていて、右手でペンを軽く握っている。
「えっとですねえ……」
僕はアルバイト先が決定した瞬間をもって、『グレゴの呪い』の真相を語り始めた。
◇
チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ
呼び鈴を鳴らす。返事はない。
所用のついでに立ち寄ったマンションの十階。
あの人は仕事でいない。
ただ誰も出てこない。
私は来た道を引き返した。
キーボードを叩くように打ち付ける。速く。正確に。それ以外のことを忘れて。
「桜木課長、今日の会議の資料です。ここに置いておきますよ」
長身の男性社員が、私のデスクの上に紙の束を積み重ねる。
「あ、僕もコーヒー飲むんで、課長のもついでに入れてきましょうか?」
「あら、気が利くじゃない白川君」
返事を必要とせず、さっと取り上げられた空のカップ。残り香を嗅いだ鼻腔が、苦味と糖分を欲している。
「課長、疲れてるんですか?僕は坂田ですよ。ひどいなあ、もう二年も直属の部下やってるのに。白川はあっちです」
指を差されたのは細身の男性社員。黙々とパソコンのディスプレイと向き合っている。
「それともあれですか?あいつ今度の人事でウエに行くのが確定してるもんだから、お前も早くウエに行けっていう嫌味ですか?」
坂田君は笑みまじりに肩をすくめる。どうやら気を悪くしたわけではなさそうだ。
「あなたも出世したかったら、早くコーヒーを入れてきて。砂糖は一つね」
「はあ、取り敢えず砂糖の数で課長の機嫌がわかるくらいまでは、ここにいることになりそうです」
自嘲的な言い回しをして、彼はカップを手に去っていった。
「疲れている、か」
一人、離れ小島に残された私はため息をつく。原因は疲労なんかではない。
「呪い、こんなものが」
そこから部署内の全員を見渡すことが出来る。職務に忙殺されている部下は、見たこともない顔ばかりだ。
「少しずつ、完全には破壊しない程度に……」
坂田と名乗った彼は、私の中で何度反芻しても白川という男だった。




