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きらきら

作者: 天水しあ

コバルト短編小説新人賞「もう一歩」の作品です。

 入学式が終わる頃には、体育館の窓から見える空が、薄曇りから重苦しい灰色に変わっていた。式が終わり外に出ると、雪が結構な勢いで降り出していた。

 今日は夕方から天気が崩れるって言ってたジャンよ、天気予報! まだ昼前だって! 

 そう空を呪う私の横を親子がバサバサ傘をさし、通り過ぎていく。用意のいい人たちだ。

 私と同じく傘を持たない人たちは揃って玄関前にたむろしていた。親たちみんな携帯使ってるよと思ってたら、じきタクシーやらマイカーやらが列をなして到着し、あっという間に人々ははけた。金と人脈のある人たちだ。

 傘も金も同伴の親もいない私はというと、止んでよー、と祈りながら空を見上げるだけ。せめて小降りになって......という私の切実な願いをあざ笑うように、空はゴォゴォと鳴り出し、大粒になった雪は今や横殴り。

 春なのに。思わずため息。これから四年もある学生生活を暗示してるようだわ......暗い気持ちに陥りながら、「せめて屋根のあるところで座りたい」と心から願った。そこでふと思い出したのだ。

 学校には誰でも入れる図書館があることを。

 入学式の後片付けを始めた通りがかりの職員を捕まえ、図書館が開いていることと場所を確認した私は、すぐさまそこへ向かった。

 それは体育館の対角線上、構内の端にポツンと建っていた。学食を通り抜け、人気のまるでない廊下を、言われたとおり進んでいくと、突きあたりにある自動ドアの向こうに、書棚が並んでいた。

 ヴィィーン。

 重く鈍く、自動ドアが鳴る。

 中に入ると、とたんに温かな空気が私を包み込む。ああ、何てありがたい。

 図書盗難防止用のゲートをくぐると、左手にあるカウンターから、少し身を乗り出してこちらを見る姿があった。オカッパ黒メガネ、いかにも読書好きだった少女が、背も横も大きくなりました、って感じの人だ。私は軽く会釈して、入口右手の新聞コーナーに向かった。

 新聞......少ないなあ。仕方ないか、新設のちっちゃい田舎大学だもんね。学費も安いし。

 とりあえず寝坊して読み損ねた今日の地方紙を手に取ると、新聞コーナーの横、壁に沿うように置かれたスツールに腰を下ろした。

 見れば、新聞コーナーの少し先に雑誌コーナーがある。こちらもショボい。オープンキャンパスやパンフレットで何度も見た、第一志望大学のものとは雲泥の差だ。

 あちらはここの倍以上はあるフロアでかつ四階建てだったのに、ここは狭い空間に雑誌も新聞も図書もAVコーナーも、全て収まり切ってるようだ。はあ、またしてもため息。

 パラパラと新聞をめくっていると、カラカラと音をさせながら、カートに雑誌を積んだ女子職員二名が、目の前を通り過ぎていった。 

 二人は手前と裏側に分かれ、古い雑誌を新刊と入れ替え始める。ほどなく元文学少女が先に作業を終え、裏面に回った。

 せっかくだから新刊雑誌を読むか、私は新聞を戻し、雑誌コーナーに向かう。外は相変わらずの天気だ。

 雑誌を物色していたら、裏から声がする。

「彼また来てるね。入学式に来る在校生なんていないのに、ホントよく頑張ってるわよね」

「気の毒だよね。インフルエンザで本命を受験できなかったなんて。こんなトコ、滑り止めでしかなかったはずなのにね」

「ホント。でも、漫画みたいな話よね」

 ウフフ、二人はひっそりと笑いあった。

 あ、イタタタタ。

 思わず左手で胸を抑えてしまう私。

 どうにもいたたまれなくなり、私は適当な雑誌をさらって奥へと向かった。 

 天気のせいか、職員の言うとおりに入学式だからか、図書館の奥に人の姿はなかった。

 ――彼以外は。

 だからすぐ分かったのだ。職員が話題にしてたのはこの人だって。

 彼は図書館最奥にある学習コーナーの片隅に座り、じっと外を見ていた。正面から現れた私に気づくことなく。

 黒ぶち眼鏡の奥の目は切れ長で、面長な顔を支える手は白く長い。どこか物憂げなその姿に、私の心は一瞬にして捕らえられたのだ。


「こんにちは」

 入学して二週間も経つと、元文学少女司書の小林さんとも雑談をする仲になった。私はすっかり勉強熱心な図書館の常連扱いで、新刊情報を教えてもらったり、リクエストを訊いてもらったりと、なにかとオイシイ思いをしている。「図書館は上手に使えば、結構役立つのよ」と小林さんは言う。ごもっとも。

 私は昨日借りた本を返すと、新聞・雑誌コーナーから何か一つ手に取り、奥へと向かう。円形のフロアを壁に沿って反時計回りに、ひたすら進む。

 館内は、フロア半分の外側が学習コーナーになっている。大きな窓ガラスに沿って、低い衝立付の個人学習机が三個ずつ、向かい合わせに延々と置かれているのがそれだ。

 中央部の丸い空間には、余裕ですれ違える広い間隔で書架が並べられている。それが図書コーナー。

入口の雑誌・新聞コーナーと、その裏の小説棚(「9門」と小林さんは言う)、そしてカウンター脇にあるAVコーナーにはそこそこ利用者がいるものの、奥に行けば行くほど人が少なくなっていく。たまにいるのは教授くらいだ。せっかく真新しい図書館なのに、もったいない。

 ――ま、静かでいいんだけど。

 思いながら、私は奥へとひたすら突き進む。

 学習机には、時折自前の鏡を持ち出して念入りに化粧する女子学生や、背中合わせの椅子を向かい合わせにして談笑するカップルや、漫然とスマホやゲームに興じる一人モノがいたりするのだが、今日は見事に誰もいない

 ――いた。

 個人学習机の低い衝立から、彼のツンツンとした毛先が見える。その姿を確認した私は、ぐっと直角に曲がって書棚の列に入り込んだ。

 さすがに入口の新聞雑誌を持って奥まで行くのは怪しすぎると思った私は、彼の座る学習コーナーに一番近い書棚の本を利用するようにしていた。幸い? そこは私の専攻である心理学コーナーのため、無理なく無駄なく本が選べる。

 そこから軽く読めそうな本を何冊か選び、書棚の間にある通路を抜けると、そこは図書館の最奥にある閲覧コーナーだ。

 円柱を囲むように台形スツールが置かれている閲覧コーナー。彼のいる学習コーナーから二本目の円柱、窓正面が私の定位置だ。

 手にした本とバッグを真新しい水色のスツールに置き、ゆっくりとコートを脱いで畳みながらチラリと、彼の方を見てから座るのがお約束。勉強に夢中で机にかじりついているときは、ツンツンした毛先しか見えないけど、外を見ようと顔を上げているときには綺麗な横顔が見える。綺麗といってもフェミニンってわけじゃなく、長い指は意外と骨ばっているものだから、ちょっとドキドキしちゃったり。今日は顔が見れてラッキーとひそかに思いつつ、私はいつものように雑誌を開いた。

 ――まあ思い込みといえばそうなんだけど。

 読めそうな記事を探して雑誌をパラパラとしながらそんなことを思う。

 ――毎日の生活に楽しみって必要じゃん? 

 特に今の私みたいなのには、さ。

 そう、彼は身近なアイドル。こうやって姿を見て喜ぶ、それだけで十分。お話ししたり、まして付き合ったりなんて望まない。そんなことになったら、どうせ散々傷ついて、このささやかな楽しみまで失うだけだって。

 この間、駅の階段を下りてホームに出たら、少し先の方で彼が電車を待っているのが見えた。どうしよう......近づいてみようかな......なんてガラにもなくドキドキしてたら、「咲谷ちゃん!」と勢いよく肩を叩かれた。振り返ったらクラスメートの女子。

 彼女はにっこりと人のいい笑みを浮かべ、

「わあ奇遇だねー。一緒に帰ろうよ。あ、あっち空いてるからあっちに並ぼ」

 そう言って彼女は、彼とは反対の方向に歩き出した。ガッカリする反面、よかったって気持ちもあった。それだけの縁だって分かったから。そう、この距離だからいいんだって。

 外は曇天。まだ4時前だというのに、やけに薄暗い。あらら、何か白いモノがチラついて来ましたよ。もう4月半ばだっていうのになあ。

 窓の向こうに広がるのは、田舎大学の数少ない自慢であるだだっ広い駐車場。その向こうには田んぼ。その向こうには、裾の広い、どっしりとした山。まだ雪の残る見事な山。

 一体この景色のどこに毎日飽かずに見られるほどの魅力があるっていうのかしら......そう思っていたら、彼が勉強を再開したらしい。

 ガリガリと、机を削っているかのような鉛筆音が辺りに響きだした。私は止めていた手を再び動かして、雑誌をめくる。

 私がパラリと雑誌をめくり、彼がワシワシッとテキストをめくる。そしてガリガリガリ。この、無機質な音のハーモニーは、なんだか落ち着くんだよなあ。

 雑誌を読み終えたとき、音が突如止んだ。チラリと見ると、彼がまた妄想モードに入ったようだ。白い細面に映える黒縁メガネ。で、いつも黒づくめ衣装。だけど日によってハイネックだったりシャツだったりしてるので、毎日同じ服を着ているわけでは、ない。黒愛好家というところか。

 外を見る。で、気晴らしに時々勉強。というのが彼のスタイル。ただ「ヤるときゃヤる」という主義らしく、勉強する時の姿には、思わず拝みたくなるくらいの凄みがある。

 そして彼についてのもう一つ。

 こうやって毎日側に座ってるっていうのに、彼はいまだ私の存在に気づいてはいない様子。鈍いよなあ。まー存在感ないしな私。「いたの?」ってどんだけ言われてきたことか。

 でもそれも当然か。私と彼とでは、人間の質が違うんだもん。

 同じように来たくもなかった三流大学に来ることになって、ぼんやりと、ただダラダラと毎日を送る私に対し、努力の日々を送る彼。ここから抜け出そうと必死な彼の目に、私なんかが映り込まないのは当然のことなのかもしれない。

 入学式から数日、またまた人気のない雑誌コーナーで職員の会話を聞いてしまった私。

「彼、再受験しなかったんだね。私てっきり第一志望校を受け直すとばっかり思ってた」

「ホラ、それだと大学に5年行くことになるじゃない? 親に迷惑かけたくないから、編入で本命大学を目指すって言ってたわよ」

「編入学って、確か3年次でしょ? じゃあ来年また受験ってことね。すごい努力家!」

『本命受験日にインフルエンザ……ごめん、悪いけど笑える』

 そう言って大爆笑した同級生たちは朝、反対方向の電車に乗って行く。満員電車に詰め込まれて、街の中心に向かっていく。私もそっちに行くはずだったのに、行きたいって思っていたのに、何で私、通勤時間でも余裕で座れる田舎行きの電車に乗っちゃってるの?

 会うたびオシャレが上手になっていく彼女たち。そのキャンパスライフは外国の話かと思うくらい、きらびやかで刺激的で、高校のときの私服をいまだに着ている私とは、もはや別のイキモノとしか思えなかった。自然会っても、私一人がだんまりすることが増えた。

 同じような気まずさをあっちも感じたようで、先週、私抜きで会っているのにバッタリ出くわし、気まずいのなんの。以来お互い連絡していない。

 家に帰れば、この不況で日々帰りが早くなっていく父さんと、勤務時間を減らされたパートの母さんが、タバコ代がどーだお小遣いがあーだって、ささいなことでケンカばかり。

 そんなある日のこと。

 大学から帰ると、それは楽しげに夫婦が話していた。珍しいなあと会話に耳を傾けたら、

「家から充分通える大学に行ってくれるなんて親孝行な娘よね。第一希望は遠いし、2年になったら校舎変わるから下宿するなんて言われて、もうどうしようかと思ってたわ」

「お前、落ちればいいと思って、メシに何か入れたんじゃないのか?」

「いやだわー。いくら何でもインフルエンザにかからせる食事なんてないわよ」

「だよなあ」

 久々に夫婦で笑うネタが、それですか。

 ガックリと肩を落とした私に、追い討ち。

「お父さんの業界が厳しいこと知ってるでしょ? いつリストラされるか分からないし、あたしの職場も最近危ないのよねえ。何でファミレスのバイト辞めちゃったの? 帰りも早いんだし、またバイトさせてもらえば」

 ……。

 リストラされるかも、ならいいじゃん。

 私なんて本当にリストラされたんだから!

 『ごめんね咲谷ちゃん。また急にバイト入ってもらって。例の「問題児ちゃん」がまたドタキャンだよ。困ったもんだよなあ、あの子にも。同い年なのにどうしてこうも違うのかねえ。君は本当によくやってくれて助かるよ。大学入ってもバイト続けてくれるよね?』なーんて言っていた店長だったのに。

 『なんか店長がさあ、専門行っても週一でいいからバイト来てくれって。なら時給上げろって話だよね。しかも最近「遊びに行こう」ってシツコイしさあ。鏡見ろよ、三十路妻子持ち男がって感じだよね』

 バイト後、ロッカーで問題児がキッチリ口紅を塗り直しながら話しかけてきた。へえ、店長はこういうイケイケ女子高生が好みなんだあ。でも店長この前、人手が余ってるって主任とコソコソ話してたのに、どうしたんだろ。急に誰かが辞めることになったのかなあ。なんて思ってたら、何と私が「クビ」だった。

 『今月末までは来てもらっていいから』と大人の顔で店長は言ったけど、私は翌日から行かなかった。解雇するにしても一ヶ月分の給料は保証しないといけないってのを後から知った。きっと私が申し出を断ることが分かってて言ったんだろう。

 春休み前に急にバイトに行かなくなったことを不審がる親には、「言ってたじゃん。大学生になったらもっと割のいいバイトしたいってさ」なんて笑顔で言ったけど、もう悔しくって眠れなくって。何でなの、私ちゃんとやってたし、店長もそう言ってたじゃん! と、それだけが頭をグルグルしていた。

 なのに二週間後、店長から携帯に電話が来て、「立て続けに人が辞めたからさあ、人手が足りないんだよね。今なら戻ってきてもいいけど」と軽い調子で言われた。もちろん断って、着信拒否した。二度とかけてくることのないことは知っていたけれど。そうせずにはいられなかった。あまりにも私の気持ちを無視した扱いに、涙が止まらなかった。

 でも変わらなかった、何も。

 いいコでいたけど、助けてってお願いしたけど、誰も私なんか見てもくれてなかった。

 同級生は毎日楽しそうだし、親もなんだかんだで仲いいし、お店は続いてるし、この間バッタリ会った問題児も、「あのバイト辞めたー。今のトコ時給いいんだ。アンタもまあ、大変だったけど、頑張りなよ。じゃあ」と笑顔で彼氏と去っていった。

 私以外の誰もが普通に平和だった。

 一人で暗い顔をしている私が悪いんだ。

 こんなもんか。私の人生。

 映画なんかで無様に逃げまくった挙句、あっさり殺されるその他大勢、なんだ。

 山を賑わせる枯れ木、みたいなもんなんだ。

 そう思ったら、流行もお洒落も美味しいものも、大好きな読書さえ、どうでもよくなった。こんな私が、着飾ったり趣味を楽しんだりするなんて無駄、無意味、ちゃんちゃらおかしいったらとしか思えなかったから。今はただ息をして、淡々と毎日を送るだけ。

 ガリガリガリ。音が再開した。

 同じ不幸に遭っても、これだけ違う私たち。いつか飛び立ってしまう彼を、憧れを持って遠くから眺める、今の関係が一番正しいわ。

「はあ」

 小さくため息。どこでスイッチが入っちゃったんだろう。最近はあんまり思い出さずにいられたのになあ。 

 相変わらず続いている鉛筆音が、やけに胸に刺さる。「お前はダメなヤツだ」と言われてるみたいで。いたたまれなくって、私は席を立った。

 手にした本を全部棚に戻し、雑誌も返して、何も借りずに図書館を出た。

 自動ドアを出ると、渡り廊下の窓ガラスを雪が打ち付けている。しまった、天気も確認せずに出てきちゃったよ、私。

 しかし引き返そうとは思えなかった。しゃーない、学食で時間潰すか。

 いつもは多くの学生がたむろしている学食も、天気のせいか人はまばら。私はカップのホットカフェオレを買うと、山側の窓際席に座った。温かくほろ苦い甘さのカフェオレは、私を優しく包み込んでくれる。ホっと一息、なんだか落ち着いた。

 外を見れば、ホコリみたいに細かく散っていた雪は、粒がはっきり見えるほど大きくなっていた。強くなる風がぴしぴしと窓を揺らしている。これは電車止まるかもね。バスってあるのかなあ、なんて思いながら窓の外を見ていた。

 すると突然、手元が少し明るくなった。

 見上げると窓の外にぼんやり丸い光があった。薄い雲の向こうから僅かに覗く、太陽だ。

 こんな空でも、太陽はちゃーんと光ってるんだ......そんな当たり前のことに妙に感動していたら、ふいに、目の端に光が流れた。

「うわあ......」

 眩しさに思わず目元に手を翳し、私は声を上げていた。

 ホンの少しだけど、雲が切れた。

 すると太陽が夏の日差しみたいに一瞬だけ、強く輝いたのだ。舞い散る雪に反射して、辺りに眩しい粒が散る。灰色の空に、光の破片が飛び交っている。きらきらきらきら。

「君も見たんだ。キラキラ」

 声に振り向くと、そこに彼が立っていた。

いつもは見えない左頬に、ポツンと赤いニキビが浮いている。長いまつげ。そして初めて聞いた低音の声は、心地よく耳に残った。

「き、きらきら?」

 ちょっと待って私。何で聞き返す声が震えてるのよ! しかも吃ってるし!

「そう、キラキラ」

 対する彼の言葉は、ハッキリキッパリ、とても歯切れがいい。

「あれ見るといいことあるって郷土史研究のえっと、立花教授が言ってたよ、咲谷さん」

「な、何で私のこと」

「そりゃ、あれだけ図書館で会ってれば気づくでしょ。でもってこの前は駅のホームで見かけたよ。友達にそう呼ばれてたから、さ」

 彼はそう言って、はにかんだ笑顔を見せた。メガネの奥で細められた目がひどく優しげで、私はもう、どうしたらいいのか全然分からない。

 彼は言った。

「あれが、冬のキラキラ。で、もうすぐ春のキラキラもあの山で見られるんだ」

「......じゃあ夏も、秋も?」

「もちろんあるよ。よかったら来月、一緒に春のキラキラを見に行かない?」

 それから。

 私は変わらず、授業後は図書館へ直行した。 

 借りた本を返して小林さんと雑談をし、雑誌を持ったあとに心理学の本を手にとって、奥の閲覧コーナーへ向かう。そこではやはり彼が勉強をしている。

 ただこれまでと違うことがある。

「こんにちは咲谷さん」

「こんにちは内海先輩」

 お互い、顔を見合わせて挨拶する。それからそれぞれ勉強と読書に励む。時折、お互いが息抜きをするタイミングが合うときは、軽く世間話など。

「そっか、咲谷さんもインフルエンザになったんだ......」

 話の流れで、そのことを話した。私はにへらと笑ったけれど、先輩は真剣な顔をして、

「それは辛かったね......」

 しみじみと言ってくれた。それはこれまで見たことのない反応だった。

だから、私は思わずポロリとしてしまったのだ。閲覧コーナーで。人気がないとは言え、公衆の面前で。隣の先輩はオロオロしてたけど、すぐに学習コーナーに置いたままの自分のカバンのところに行き、ポケットティッシュを持って戻ってきた。鼻水まで出てきたから、私は恥ずかしながら遠慮なくティッシュをもらった。どうにか声を絞り出して謝ったら、「気にしないで」とだけ先輩は言い、その後は黙って隣に座り続けてくれた。

 翌日、気まずい思いを抱えながら、新しいポケットティッシュを持って図書館に行くと、先輩はいつものように「こんにちは」と声をかけてくれた。渡したティッシュを「よかったのに。でもありがとう」そう言って受け取ると、いつもどおりに勉強を始めた。

 やがてゴールデンウィーク。

裏山の桜は満開である。

「これが春のキラキラなんですねえ」

「そう」

 私たちは約束通り、お互いが空き時間の二限に図書館で待ち合わせて一緒に裏山を歩いた。その後は学食で同じAランチを食べた。

 その後は、変わらず図書館だけのつながり。でも前みたいに姿を見てる時よりも、一緒に話をするときの方がずっと楽しかった。別れる時は後ろ髪引かれまくりだった。

 でも言えなかった。もっと一緒にいたいって。だってこれ以上一緒にいたら、私のつまらなさがバレてしまう。何より、先輩に「そこまでは」と引かれてしまうのが怖い。だからアドレスも訊いてない。向こうからも訊いてこない。つまり、そういうこと。どうせ来年は別の学校なんだから、そう自分に言い聞かせた。経済学部二年の内海浩介先輩。それが分かっただけでもう十分。

 そして。

「これが夏のキラキラですかあ」

 ドーンっ。向こうの川で大きな花火が上がった。夏休み前日に開かれる市民花火大会だ。

「そう、結構よく見えるでしょ? ここなら混まないし。あ、足元暗いから気をつけて」

 言われる側からコケた私の手を、先輩ががっしりと取った。どっとあがる心拍数を感じながら、体制を整え直してお礼を言ったけれど、手はそのままだった。そっか、私ドジだからな。心配してくれてるんだ。うん。

 そのまま花火を見ながら山を下り、大学近くのイタリアンレストランに着くまで、手を繋いだままだった。放した手は汗でじっとりしてたけど、全然イヤじゃなかった。

「次は秋のキラキラですね。今度は何です?」

 注文を終え、ウェイトレスが離れていくのを見送った私は、のんびりと尋ねた。

 すると先輩はガックリと肩を落とし、大きくため息をつく。

「……どんだけ鈍いってか、どんだけ天然」

「え?」

 訊き返した私に対し、先輩はコップの水を一気に飲み干す。そしてダン! とコップを置き、その手を首筋に回す。困った、と言わんばかりに緩く首を振った。

 そしてまたしても、はあっと一つ息をつき、

「秋のキラキラ......もそうなんだけどさ、その前にどっか行こうよ」

「どっかって?」

「たとえば――映画、とか、ディスニーとか、君が行きたいとこなら、どこでも。だから、咲谷――いや千紗ちゃんの連絡先教えてほしいんだけど、ダメかな?」

「失礼します」

 そこへさっきのウェイトレスが滑り込むようにして膝を折り、先輩の横についた。

「お客様、セットのドリンクですが、食前、食後、どちらにお持ちしたらよろしいですか?」

「あー、どっちでも。いや、それじゃ困るか、じゃあすぐに……いや、後にして!」

 耳まで真っ赤にして慌てふためいてる彼がおかしくて、なぜか涙が出てきた。でもここは人気のない図書館ではない。

「あ、暑いよねー」

 動揺をごまかすように、ハンカチで額を拭う彼。私も「本当に」と言ってカバンからハンカチを取り出し、汗を押さえるフリで目元を押さえた。よし、もう大丈夫。

 私は顔を上げて、言った。

「先輩の携帯って、赤外線通信できますか?」

                          




(終わり) 







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