4.超越する美歌
薄暗い階段を上るファルステールの足取りは非常に重い。数十分前に見た、ルノの愛らしい笑顔も今では霞んでしまっている。
普通、生徒が自由となる放課後に南校舎の屋上に行くことなどない。
屋上で青春を謳歌する光景は、漫画やドラマだけの話。ましてやT字状の箒とチリトリ、それにゴミ袋を手に持っていくなんて考えたことすらなかった。
「なんで、掃除なんかしなきゃいけないのかね……?」
深夜中庭を出歩いていたことが担任のラーフォにバレ、罰として屋上の清掃を命じられた。
今日から一週間、早朝八時と放課後に十五分間の屋上清掃を。
普段なら見て見ぬふりだというのに、今週は緊急風紀強化週間らしい。
化粧っ気のまるでないあの女教師の『体のいい見せしめだから、しっかり反省している風にやれよ』なんて楽しそうな態度を思い出すだけで、腹が立ってくる。
しかも、せっかくルノと二人きりになれたというのに、それまで邪魔したのだ。
一度、呪いや災いの類が降りかかって欲しいと切に思う。
というかいっそ、〝魔石〟を使ってやろうかとさえ思う始末。あの石は人の願いを召喚できる石なのだから。
(ま、無理なこともあるけど……)
〈魔法少女〉さえも召喚できる〝魔石〟だが、その望みが非現実的なものであればあるほど、希少な高濃度の石を使わなければならなくなる。
(ったく。どうせ緊急風紀強化週間だってあの人の陰謀だろ?)
昨日の夜中に、たまたまうろついているファルステールを見つけ、どうやっていじめてやろうかと画策したに違いない。
彼女はいつも、生徒をいじめて楽しんでいるのだから。
(そういえば、もう一人犠牲者がいるんだっけ?)
担任曰く、罰を受けている者はもう一人いるとのこと。そいつも運がなかったんだな、と小さな同情を抱く。
そんなことを考えながら六階まで上り、屋上へ続く置き場に困った荷物が散乱する――文化祭や体育祭などの備品が目立つ――踊り場に着く。
あとは錆ついたこの鉄扉を、力を入れて開くだけ。
ギギギッと悲鳴を上げたのは一瞬。
隙間から、それが流れ込んで来た。
まるでその先に花畑でも広がっていると思わせる、香りを運ぶ風のような――
――歌。
鉄扉の隔たりからわずかに漏れる、暖かな陽に照らされるような、身体の芯から温もりが広がるような調子が沁みる。
ドアノブに触れた手が止まっていたことに、数秒経ってようやく気づいた。
聴こえて来るものの歌詞は分からないが、心に何かが届くのは確かだ。
この美声にファルステールは聴き覚えがあった。
(間違いない。昨日の夜に聴いた、あの歌声だ)
自分と同じ罰を受けていることも合致する。
同じ理由で咎められているのだから。
少しだけ湧く興味。
果たしてどんな人間が、美しい歌を歌っているか。
ファルステールの想像(妄想)の中では、とても美しい少女が浮かんでいた。少しばかり、ルノに似た少女が。
相変わらずの、どこの言葉か分からない歌詞も興味を煽る要因の一つ。
喉を鳴らし、ゆっくりと鉄扉を開く。
黄昏空の下で聴こえる、それは――
【♪カッパ カッパ カッパのスナイパーがやって来た
カッパ カッパ カッパのスナイパーがやって来た】
思いっきりずっこけるファルステール。
【♪お皿の対策バッチリ もう あの日の過ちは繰り返さない
放つは非情の弾丸 頬を伝うのは 果たして何か
汗か 涙か それとも……
それとも それとも 皿を濡らす雑巾の雫か】
それこそ文字通り、痛いほど理解した。全てを。
昨夜の歌と今回の歌。
どこの言語かどうかが分からなかったのではない。
(あまりにもぶっ飛び過ぎた歌詞に、脳が言語として変換できなかったんだ……)
だってそうだろう?
歌声はびっくりするぐらい綺麗なのだ。
それはもう、聴き惚れてしまうくらいに。
そんな声でこんなカオスな歌詞が飛び出ると、一体誰が想像できるというのだ。
そしてこの時にはもう、最初のインスピレーション。暖かな陽うんぬんなど、跡形もなく吹っ飛ばされていた。
「あんた……なんつう歌を歌っているんだよ?」
「うにゃあ!?」
少女は全身をびくりと跳ねさせ、「なっ、何者!?」驚きの眼で振り返る。
その少女。見れば見るほど、近づけば近づくほど、想像とはかけ離れていた。
まず、第一印象としては猫のような少女だな、と感じた。
それとファッションなのか寝癖なのか分からない、中途半端な長さの髪。高くも低くもない背に纏う制服は自分と同じデザイン。
肩にある朱の学年紋が一本ということはつまり、同じ邀撃科の第一等の一年生ということだ。
ただ、想像を越した部分もある。
眼鏡の奥にある、空色の瞳だ。
双眸だけは歌声に見合った美しさと純粋さがある――太めの赤い眼鏡フレームがよりそれを引き立たせていた。
しかし、全く持って少女に見覚えがない。邀撃科は人数があまり多くはないため、ほとんど顔は知れているはず。
じっと少女を見つめていると、どこか剣呑な眼差しで返していた。
「まさか、盗み聞きしてたんですか? えっろ」
「……いや。あんなに大きな声で歌ってたら、誰だって気づくだろ?」
身体を隠す少女に、ファルステールは半眼で言う。
「それに昨日の夜も歌ってたんだろ?」
「えっ! なんでそれを!?」
眼鏡の奥の瞳を真ん丸くして驚く。
だがすぐに、少女はにハッと何かに気づいた。
「まさか、ボクの隠れファンですか?」
「残念だけど違う。俺もあんたと同じ理由でここにいるんだ」
「歌うの?」
「即答でボケるなよ」
思わず突っ込む。
が、少女の純粋無垢な瞳を見て。「いや、本気か?」少し目まいを覚える。
「掃除だろ? あんた、その手に持っているのはなんだ?」
じっと見つめ、「マイク」ロック歌手みたいにT字状の箒を持つ。
躊躇いのない純粋な瞳と行動に、ファルステールはぐったりうな垂れる。
「ところでところで。ユーのお名前は?」
にこやかに、少女はファルステールの顔を覗き込む。
いきなり近づいた顔。それこそ顔がつきそうなくらいの距離に思わず驚き、仰け反る。
頭の中がこんがらがったまま、「おっ、俺はファルステール! ファルステール・クヴィンデクドリ!」素直に自己紹介をしてしまう。
そして、なかなか収まらない胸の動悸を掌で感じながら、「で、あんたは?」
「ボクはチェーロ・オクデクセス」
浮かべた屈託のない笑みには、人を騙したという罪の意識もなさそうだ。
ただ、それを見てしまうと少しくらいの悪戯は許せる。
そんな不思議な魅力があった。




