ただの少年
バシィッ!
ハンガーに戻って早々、乾いた音が部屋中に響く。
遠慮の欠片もなく叩かれたチェーロの頬は見る見る内に赤く腫れ、その瞳の端にはじわりと涙が滲んだ。
すでに叩かれたファルステールとヴェントも、同じような状態だった。
ただ、叩いた張本人であるルノの瞳はすでに赤く腫れ、涙がボロボロと零れていた。
くしゃくしゃの顔に、もはやいつもの柔和な面影は消えていた。
「馬鹿!」
彼女の小柄な体躯から出たとは思えないほどの、迫力と大きさ。
戻って来た直後、こちらの疲労などお構いなしにルノは、走り込んだ勢いに乗る張り手を、まずはヴェントに。
そして間髪容れず、ファルステール、チェーロの順に続けていた。
いきなりのことに三人はわけが分からないが、少なからず心配してとのことだというのは口にせずとも分かっていた。
「なんでみんな逃げなかったの!? なんで、よりによって『終界獣』と戦っちゃったの!?」
「……いや、僕はそれが目的だったし……一応、言った気がするんだけど……」
「それでも!」
どうしたものかと、叩かれた方とは逆側の頬を掻くヴェント。
チェーロはルノの全てを理解してか、優しい笑みを向けている。
ファルステールはただただ困惑するだけだが。
「それでも……本当………………死んだら……ヴェントくん達が死んだら………………一緒にいた大切な人が消えたら、どれだけ苦しいのか、辛いのか、悲しいのか……きちんと考えてよ、馬鹿………………大馬鹿……」
言いながら、ルノはその場に崩れ落ち、両手で歪んだ顔を覆う。
時折、何かを口にしているのだが、嗚咽交じりの言葉ははっきりと形にはならない。
何度も。何度も。何かを伝えようと唇が動く。
ただやはり、声は聞こえるが何を言っているのかは分からない。
でも、形にはならないけど、何を伝えたいのかははっきり伝わる。
痛いほど。
辛いほど。
苦しいほど。
胸が張り裂けそうなくらい、
嬉しいほど。
それでもルノは、一番言いたいことをなんとか言葉として紡ぐ。
「お帰り、三人とも」
泣きながらも、満面の笑みを浮かべるルノの顔は、やはり好きになってしまう。
だから、三人は息を合わせることもなく自然と一緒に口にした。
『ただいま』
◇◆◇◆◇◆
「ったく。本当は先生がお前らを叩いてやりたかったんだけどな」
ルノに泣きつかれてから約五分後、ファルステールを始めとした三人はラーフォに第五格納庫の休憩室に呼ばれた。
その彼女の第一声だ。
苦笑を繕うのだが、どう捉えても泣き顔に近い。
戦闘秘匿義務によりルノには今、別の休憩室で待って貰っている。他の教師が彼女を落ち着かせているだろう。
洟を啜り、教師としての体面を取り繕うとやや声のトーンを落とす。
「ヴェント。お前には言ったよな?」
「はい」
「チェーロ。お前が誰よりも理解しているはずだろう? 大事な人が消える悲しみを」
「はい」
「ファルステール――ありがとう」
「……はい?」
怒られるのかと思いきや、礼を言われたことにファルステールは困惑する。
そうなることは分かっていたのだろう。ラーフォが言葉を続ける。
「もちろん怒っているよ。でも、お前がいてくれたから、この二人は帰って来られた。先生はそう思っている」
涙で滲む恩師の瞳を見、ファルステールは素直に嬉しかった。
そして、みんなが無事に帰って来られてよかったと心の底から思う。
「よかったよ……本当に、よかった……無事に帰ってきてくれて……」
堪えていたラーフォだが、涙がどうしても零れてしまう。
「あぁ……くそ」
眼鏡を外し、裾で乱暴に涙を拭くラーフォ。
その隙間から覗ける表情は、どこか自嘲気味に微笑んでいるように見えた。
「お前らのために泣いてやるのは、学園を卒業するまでって決めてたんだけどな」
ばつの悪そうに笑うラーフォに、三人は釣られるように笑みを返した。
◇◆◇◆◇◆
――『終界獣』殲滅戦の翌日。
休校になり、先の戦闘のレポートも一通り書き終えたファルステールは、独り校庭の隅にあるベンチに座っていた。
ヴェントは今、〈チオサヴァント〉の調整を行っているだろう。
ルノはクラスメイトと教室内で自習をしている。
チェーロは……校内のどこかで気楽に歌でも歌っているかもしれない。
中庭の中央にそびえる巨大な時計塔は問題なく、十三の時刻を示している。
自分達はこれを守ったのだ。
「で、どうするんっすか?」
どうやら、どこかで気楽に歌っていなかったらしい。
できれば歌っていて欲しかった。
今はなんとなく独りでいたい気分だったから。
「どうするって……レポート?」
「まぢで言ってるんですか?」
顔を覗き込んでくる彼女の空色の瞳は、外界のどの空よりも美しいとさえ感じる。
だが、今はそれに見惚れている場合ではない。
何かわけの分からないことに巻き込まれぬ前に、適当に話をはぐらかさねば。
「いや、他とは言えば……まぁ、〈魔法少女〉の戦闘があれば駆り出される可能性が増えるから、それなりに本気で訓練しないと……とか?」
「んなもん、どーでもいいんですよ!」
「どうでもよくは――」
「るーのんに告白しないの!?」
「はあぁ!?」
頭の片隅にもなかった頓珍漢な発言に、ファルステールは自分でも間抜けな声を上げたと思う。
だが、チェーロは数度と見ている瞳をしていた。
至って真面目な、それでいて深刻なものを。
一息つく。
ファルステールとチェーロが同時に吐きこそしたが、含まれているものはまるで違う。
もう一度。ほんのちょっとだけ息を止め、ファルステールは自らの心を確かめる。
そして、吐く。
「いや……ルノさんにはヴェントがぴったりだよ」
「はあぁ?」
チェーロのこの上ない不愉快な顔をする。
見ている方も。している方もだ。
「ファルにゃんは何様?」
「何様って……別に、俺はただ、二人にくっついって欲しいって思えるようになったんだよ。実際、あいつらは両想いなんだ。それにヴェントとは親友だ。そいつらの幸せを願って何が悪いんだよ?」
「バッ――」
思いっきり溜め――
「――ッカじゃないっすか!」
――吐き出す。
昨日、ルノに怒鳴られたばかりだと言うのに、今日も別の女の子に叱られる。
一向に、穏やかな日々は取り戻せそうにない。
そんなファルステールの心境などまるで知らずに、チェーロは語気を荒げる。
「だから! ファルにゃんの本当の気持ちはどうだっていうのさ!? 言葉にしてみろっていったのはどこの誰さ!」
『浄玻璃の鏡』ではないというのに、心の内側を乱暴に言い当てられ、言葉を失う。
肩で息をするチェーロからどう逃げようかと視線を泳がせると、ナルツィスや他の女子と一緒に別館に向かうルノの姿が映る。
気づいたのは野生の勘か。
自分が気づいたということは同時にルノも、ということだ。
何をするか。
だいたいの察しはつく。
だから慌てて口を塞ごうとする。
が、硬く固められた拳骨を額にお見舞いされ、僅かの間だが意識が飛んだ。
「ちょーどいいところに――おーい、るーのん! ファルにゃんがとっても大事な話があるってさ!」
「ちょっ!? おい!」
諸手を振って呼ぶチェーロに、ルノはわけも分からず寄って来る。他多数を引き連れて。
「いいから! ルノさん、いいから!」
「よくない! ほら行ってこい!」
手招きするチェーロと、腕でバッテンを作るファルステール。
どうしていいか分からず、とりあえず近づくルノは「どうしたの?」とチェーロを気にしている。
ナルツィスを始めとした数名の女子の視線は、明らかにファルステールに向いている。
しかも、チェーロに似た顔を浮かべながら。
「マジか? マジでこのタイミングで!?」
小声で訊くとチェーロは力強く頷く。
休校ということもあり、校庭には多数の生徒がいる。
校舎を繋ぐ廊下や、学校外も近いので人通りは多い方だ。
しかも、チェーロは告白するまでは離れないだろう。
数名の、ファルステールの好意をどういうわけか分かっている女子もそのはずだ。
「えっと……どうしたの、ちぇー?」
「あの! ルノさん――」
上擦る声などもうどうでもいい。
衆人環視の中で、ファルステールはやややけくそ気味に意を決す――
◇◆◇◆◇◆
『まず始めに、これは僕が感じたことで、単なる主観です』
いつものように邀撃科用教師室のベランダで煙草を吹かせるラーフォは、その一文をなんとなく思い出した。
それはファルステールが、『終界獣』殲滅戦などを纏めた戦闘報告レポートとは別に添付された、感想文のようなものの書き出しだ。
ラーフォが上司と軍へ彼の報告書を提出する際、それだけは机の奥底にしまった。
恐らくだが、少なからず彼らに宛てられたものではなかったから。
(さて、これからどうすればいいんだろうね……? 教師として……大人として……)
その紙に綴られるものは、授業では教えられることない世界の危険な真実であった。
だが同時に、希望が垣間見えるものでもある。
『今回の戦いで、僕は多くのことを知ることができました。そして何より、今まで持っていた常識のことごとくを見直さなければいけないと感じました。
それは人間と世界の関係についてです。
今までの僕は、なんの理由もなく、理不尽に世界に『拒絶』され続けているのだと思っていました。
ですが、それは少し違うのではないでしょうか。
世界は人間を理解しているのではないでしょうか。
それを強く思えたのは、チェーロさんの歌です。
彼女は心の感情そのものを口にしていました。
『終界獣』は、それに反応を示すような態度を取っていたように見えました。
元々、『終界獣』は人間の絶望へと変質します。
それは人の絶望を理解しているからこそ、できることではないのでしょうか。
また、『御遣い』は自らを『レ・リ』と僕に名乗りました。
人間と合わせるために。
そして『御遣い』レ・リはチェーロさんを求めていました。
いや、厳密に言えば救おうとしていました。
それが『御遣い』レ・リの存在理由そのものだったから。
相互『拒絶』の極限化によって生まれた現出した『空隙』を埋める理由こそが、それだったから。
これらから、少なからず世界は何かしらの方法で、人間を受け入れる術を持っているような気がします。
今のところそれが、人類にとって負のものでしかないだけで。
ですから、いつの日か。
希望的憶測であり馬鹿げたことかもしれません。
だけど、もし仮に人間と世界を結ぶ『何か』が現れれば、僕達は『拒絶』し合うことなく共存していけるのではないかと思います。
『御遣い』とは別の。
『空隙』の現出によって、無理矢理意味を当て嵌められた存在ではなく。
意志を持って、自らに意味を当て嵌められる人間が現れれば。
目を瞑って願いを喚ぶのではなく、視野を広げて自らの手で掴んでいこうとすれば』
◇◆◇◆◇◆
そんなファルステール・クヴィンデクドリという、どこにでもいる恋に翻弄される少年が書いたレポートが。
下手な歌詞のような着飾れた願望と、剥き出しの感情が入り混じる言葉の羅列が。
のちに世界をほんの少し動かす、きっかけとなる。
決してそのレポートと『ファルステール・クヴィンデクドリ』という名前が、表には出ることはない。
しかし、拙い感想文が小さな歯車となった。
人類の希望によって誕生した、『救世の英雄』と呼ばれるようになる少年。
その彼を動かす、小さな、それでも確かな歯車の一つとして。




