9.この世界に君がいるということ
真っ先にヴェントの意志を後押ししたのは、チェーロが口にする勇気を讃える、胸の奥底を燃やし、振るわせる歌であった。
ファルステールも構え、ワンドを《多幸》に向ける。
が、敵は何をしてくるというわけでもない。
ただただ、幸せを植えつけてくるだけだ。
その間に〈ノクタラメント=〔夜鶫歌姫〕〉の後方にまで来た〈ファルサコロソ=〔チオザヴァント〕〉。一度、背部のホルスターに二本の剣をそれぞれ収める。
〔チオザヴァント〕のスカートの両脇が、それぞれ外側へと飛び出す。
それは腕を入れるような形となっており、装着することで不相応な巨腕となった。
次に、スカートの前部分(太腿の辺り)が割れ、畳まれていた隠し腕が姿を見せた。
それらは『破邪の利剣』が最大の力を発揮するために必要な準備だ。
ホルスターの『破邪の利剣』を抜剣し、それぞれの峰同士を合わせる。すると、柄部の底が下へと伸張した。
四本の腕は、一つとなった『破邪の利剣』の柄を掴んで支える。
半ばから折れたような形になった剣を、さらに剣尖部の役割を果たすスカートの後背部に接続した。
振り下ろせば、それは所持者よりも遥かに巨大な諸刃の剣――活動限界時間を極端に短くさせるという意味でも――となる。
これが最大出力形態と化した、内在概念割断刀『破邪の利剣』の本来の姿。
陽のような光が『破邪の利剣』の節々に点り、刀身を一気に橙へと染めた。
点灯はそれだけでなく、〔チオサヴァント〕からは七色の光が放たれ――〝魔石〟によって発生する膨大な魔方陣が通常では起こりえないほど現れては崩れ、理想の事象を召喚し続けているためだ――、その姿を神々しく輝かせる。
《二人とも、準備はできた! もう一度行く!》
重量の武装を持っているにも関わらず、その速度は先程とそこまで変わらない。
あっという間に《多幸》との距離を詰めると、腕とも脚とも言える奇妙な部位に『破邪の利剣』を突き立てた。
が、再び切り裂かんとするものの、切っ先は『拒絶』され、貫くことさえできない。
すると元はスカートであった部分と、断頭剣部であった部分それぞれに装備されたブースターが稼働する。
それに反応して、『拒絶』していた変容し続ける皮膚に刃が通るようになる。
《行けぇええええええ!》
咆哮とともに、突き刺していた部位が《多幸》が切除される。
すぐさま傷口に剣を突き刺し、身体と剣のブースターを駆使して回転した。
体内を螺旋状に抉られる《多幸》が声を上げるが、それが悲鳴なのか歓喜なのか判断ができない。
ただ、それを聞くだけで心が甘い蜜で満たされるようだった。
しかし、ヴェントはまるで意に介さず、《多幸》を貫通する。
巨体の頂点まで上がった〔チオサヴァント〕は、ブースターを逆噴射させて、《多幸》の身体に着地する。
太陽の輝きを放つ『破邪の利剣』は、首のような部分を斬り裂いた。
そして、次は肩を斬り、背中。翼。舌。鉤爪。鬣。花弁。尾。鼻。触手を……速さこそないが、確実に《多幸》を破壊していく。
反撃の兆しを見せつけるヴェントだが、それに加勢できる者は誰一人いなかった。
それは英雄と絶望との激戦に参戦する隙がないわけでも、『天吏』の残党に阻まれているわけでもない。
『終界獣=《多幸》』の特性そのものが原因だ。
確かに〈ノクタラメント=〔夜鶫歌姫〕〉の歌によって、最大幸福という猛毒が中和されている。
とはいえ、それでも自らの手で数多の幸せを拒み、否定し、あまつさえそのことごとくを叩き潰せる精神など持てるはずがない。
幾戦の死線を繰り抜けた勇者でも、万人の幸福をたった一人のエゴでなかったことにできる者はそうはいない。
自らの幸せを捨て、他者の幸せを叩き潰し、ただ唯一の正しさを貫けるものなど、もはや人としての精神を超越している。
そして、その超人は数多の物語の中でこう呼ばれる。
英雄、と。
ただ独り、絶対幸福という名の巨大な絶望に立ち向かうヴェントの様は、まさにそう呼ぶに相応しかった。
(俺はそんな風になって欲しくなんかないぞ。お前は、真っ直ぐな馬鹿……人間でいいんだよ……)
口に出せなのは、ファルステールでさえ、今の彼の英雄的に行為に身勝手にも救いを求めているからだ……
その中で、事態はさらに変容する。
あろうことか、〔チオサヴァント〕の左腕のパワードアームが中に収まった腕ごと砕け散る。
それは活動時間の限界刻限が迫っているという意味でもある。
一瞬だけだが停止する〔チオサヴァント〕に、止まらない変化する体躯が鞭のようにしなり強襲――それは攻撃ではなく、変形の動きでしかないが――する。
「黒殲破!」
漆黒の一閃が鞭を弾くと、ヴェントはブースターを最大出力で放射し、離脱した。
《助かった、ファルステール!》
今の一撃が精一杯だ。
いくらチェーロの歌を間近で聴き、気持ちを最も知れているとはいえ、《多幸》を振り払う心をファルステールは持ってはいない。
せいぜい、親友の命を守るという大義名分の下で、〔チオサヴァント〕に触れさせないようにするのがやっとだ。
腕一本を失ってもなお、勢いを衰えさせることなく孤軍奮闘するヴェント。
彼による《多幸》の完全消滅が現実のものとなりつつある中、それらと〈ノクタラメント〉に割り込むかのように『御遣い』レ・リは現れた。
{何故、我を『拒絶』する!?}
誰に向かって叫んでいるのかは、もう考える必要もない。
ただ、当の本人であるチェーロは歌で返す。
その歌こそが答えであるから。
{我の存在理由はイィクドゥを救うことだ! その世界を守ることだ! 我はそのために現出したのだぞ!?}
どうして『天吏』や『終界獣』が、そして何より『御遣い』レ・リが人類を滅ぼそうとしなかったのか。
《多幸》などという、特異な破局が現れたのか。
理解した。
イィクドゥ。つまりはチェーロの世界を守るために、悲しませないためにするためだ。
ただ、それだけだった。
{『御遣い』を現出させたのは汝ら人間だろう!? 〝魔石〟と世界との間に生じた、極限化した相互『拒絶』による『空隙』を埋めるために! 『空隙』をなくために名を与え! 意味を加え! 『空隙』を消滅させた結果が『御遣い』だろう!?}
レ・リは初めて表情を如実に変化させた。
ただそれは、どういったものなのか判断しにくい。
怒りか。
嘆きか。
それとも、純粋な悲しみか。
心に響く『御遣い』特有の声は、伝達手段ゆえというだけではないようにさえ思える。
{我は『御遣い』という名の下、イィクドゥを救うために生じた!}
世界そのものと繋がる怨者の真実の訴えは、ファルステールに一つの答えを浮かび上がらせる。
チェーロがどうして救われたのか。
その真実を、浮き彫りにした。
「クレスツェントは、現出した『空隙』にその『意味』を与えたのか」
『空隙』という空間は現出してはならないから。
現出することはできないから。
それに意味を与えることで、『空隙』を『空隙』ではなくすのだ。
『空隙』に『チェーロを救う』という意味を与えたから、彼女は救われたのだ。
{我を呼べ、イィクドゥ! 我なら汝を救える!}
だから必死なのだ。
純粋に、それしかないから……
「もう、大丈夫だよ。ボクはもう救われてるよ。ううん。救われてたんだ」
彼女の決意が強くなるほどに、レ・リはその姿をおぼろげにしていく。
もはやそこに、人類を滅ぼす裏切り者という形は残っていない。
{いいだろう}
そう口にしたレ・リの表情は、さっきまでとは嘘のように無に変わる。
いや、無ではなく限りなく冥い闇。
深淵そのものだ。
『御遣い』の顔は覗いた者に恐怖を与え、同時に自らに潜めていた闇そのものを映すようであった。
それはまさに怪物の貌。
実に人間らしい顔だった。
{我に与えられた存在理由を汝らが『拒絶』したように、我もまたそれを『拒絶』しよう}
ヴェントは〔チオサヴァント〕をボロボロにしながらも《多幸》という人類の破滅から救おうと足掻く。
右腕のパワードアームも砕けるが、中の腕は残っている。
その腕で柄を掴み直し、機体強度や活動限界時間を超越した動きを召喚し、強き意志を持って破局に立ち向かう。
{全ての『空隙』は人類が突破者となった瞬間に消失する。その超越の兆しはもうすでに現れているのは、分かっているだろう!?}
この中の幾人が、『御遣い』の断末魔の叫びを理解しているか。
それは分からない。
{人類の究極願望の帰結に伴って現出する『完全』は、果たして誰が望んだものなのだろうな!? はははっ! 我はそれを見届けよう! 我が存在理由は、我自身が決める!}
ファルステールに分かることは、その皮肉の意味だけ。
その言葉が怒りか。悲しみか。自棄か、それ以外か。それとも、その全てか。
何一つ、共感することはできなかった。
レ・リの心を『拒絶』できないが故に。
チェーロは最後に、また違った歌を歌い始めた。
それはクレスツェントのためのものではなく、レ・リのためのもの。感謝と別離の歌を。
{あの日、我を『御遣い』として埋めた『空隙』の意味は、この瞬間に変わる! 我はもう、『完全』なる世界が現出されるまで『拒絶』されることはない! それでも『拒絶』しようものなら、その時こそ『完全』は現れる!}
もうチェーロの歌は届かないようだった。
薄紫色の瞳は怨嗟に埋められたいた。
一方、ヴェントはレ・リの宣言など構うことなく、『破邪の利剣』の柄を右腕と隠し腕で掴む。
理論上の活動限界時間を迎えつつあるが、ヴェントの『全てを守る』という強い意志がそれらを全てを払拭していた。
ヴェントは『破邪の利剣』を分離させ、左右へ斬り開かんとする。
ただ機体の至るところでガタがきている。
いくら意志が限界を超越しているとはいえ、時間をかければ全てがふいになってしまうだろう。
《うぉぉぉおおおおおおおおおおおお!》
喉が張り裂けんばかり絶叫。
それこそ、感情そのものが吐き出されるような。
呼応するかの如く、〔チオサヴァント〕の発光はより強くなる。
そこからはもはや理屈などない。
『破邪の利剣』は根元まで突き刺さる。
さらには硬質の肌と『拒絶』の抵抗と格闘し続けていた〔チオサヴァント〕の両腕が、徐々に左右へ動くようになっていく。
《裂けろぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!》
ヴェントの意志が最大限に召喚されると、《多幸》の巨体が真っ二つに分かれて行く。
完全に分断される頃にはもう、その存在ごと『拒絶』し尽くしていた。
その時には『御遣い』も『天吏』とともに、相互『拒絶』領域から姿を消していた。
チェーロもまた、歌を終える。
彼には届かなかった歌を。
《索敵開始!》
カルブの命令はもはや、勝利宣言に近しい。
みなは浮かれてはいけないと分かりつつも、人類の大勝利に気持ちが踊りそうになる。
モニターに映る残り時間。
数字が一つ一つ減っていくごとに、共感チャンネルから送られてくるその感情が膨れ上がっていく。
――そしてついに、待ち望んでいた時間へ到達する。
《索敵終了。相互『拒絶』領域に反応なし――戦闘は俺達の勝利で終了する!》
責任者であるカルブの報告に、みなが抑えていた歓喜が爆発する。
「……終わったんだ」
ファルステールはぽつりと呟き、背もたれに体重を預ける。
どっと沸く喜びの声が共感チャンネル越しに聴こえるが、どこか遠くからのもののように感じる。
睡魔が一気にやって来たからだと自覚し、まだそれには早いと自制する。
「帰ろ、ファルステールくん」
「ああ。みんなのところに行こう、チェーロ」
眼前には、
踏み躙られ……
穢され……
破壊の限りを尽くされた……
それでも美しいと思わせる世界が広がっていた。
◇◆◇◆◇◆
そして、この日こそ。
これから多くに知られる、英雄伝説の始まりであった。




