7.この地に幸福があるということ
何故、『拒絶』されたのか。
レ・リは理解が全くできない。
呼んだのは彼女のはずなのに、どうしてその当人から拒まれる?
人間という理解を要しなければ判断できない存在はやはり理解し難い。
が、それでも分かったこともある。
{イィクドゥ。君は悲しんでいるのか}
自分の内側に棲む何かが叫ぶ。
イィクドゥを泣かせるのは辛いと。救いたいと。
だから。
だから、その悲しみから解放させよう。
イィクドゥを幸せにできるのは。
幸せにすべきなのは。
他ならぬ自分だけだ。
◇◆◇◆◇◆
ゆっくりと日が傾き。
青と橙が混ざり合うその境界線が、空に浮かぶ。
そんな頃だった。
激しい動きを見せることのなかった『終界獣』が、突如として天を仰いだのは。
泣き声とも雄叫びとも取れない、人の心裡に眠る原始的な恐怖を呼び起こす産声を上げたのは。
一帯を震わす奇声とともに、初期胚の形状をしていた『終界獣』が歪に崩れ始める。
膨れ、
爛れ、
溶け、
砕け、
千切れ、
弾ける。
それが変死ではなく、変身しているのだと理解するのに時間は要らなかった。
その様に一切の希望を抱くことはできなかったから。
生命の進化とは程遠い不気味で出鱈目な変容を前にし、新兵も歴戦の戦士も、みなが足を止めてしまう。絶望に歩みを止めてしまう。
現実化し始める、六体目の人類終焉。
《止めるぞ!》
カルブの檄に、みながハッと目を覚ます。
すでに先陣を切った〈クルエラフラム〉に、他の〈魔法少女〉があとに続く。
{邪魔はさせない。何者にも}
覚醒し始める『終界獣』の前に前触れもなく現れる『御遣い』レ・リ。
すると、戦闘を続けていた『天吏』が敵対機の『拒絶』を中断し、完全体となりつつある『終界獣』の元へと集結し始める。
逆転する攻守。
しかして、何が変わるということでもない。
人類は世界に対して、あまりにも不利だ。
圧倒的数と物量の前では、攻めているはずなのに身を固めなければ太刀打ちできない。
それでも、〈クルエラフラム〉が放つ巨大な暴力の炎が世界を包み、灰にしていく。
人類原初からの英知の証たる『炎』が、絶望を焼き尽くしてくれる。
そう願って。
祈って。
望んで突き進んでいく。
だが狂い盛る炎のうねりは、滅びの末端すら灼くことはできない。
絶望が目に見えてくる。
肌で感じられるようになってくる……
人類は悪夢のような奇声に包まれながら、黄昏を迎えんとしていた。
それに抗おうにも、時は無情に進み、世界は非情に在り続ける。
その当然を人類がまざまざと痛感している中――
ついに。
ピタリと声が止んだ。
同時に、全ての〈魔法少女〉が『名』を理解する。
《多幸》
幸福の名を冠す滅びの姿は、
ただただ狂おしいほど愛おしく、
甘く、耽美であり、
見る者全てを満たし、
潤し、蕩けさせる。
全ての〈魔法少女〉は完全に停止し、蜜を求める蜂のように『終界獣=《多幸》』へとゆっくり足を向ける。
やがて、目に見える光景と脳裏に浮かぶ情景の境界が、曖昧になっていく。
自分が立っている時間があやふやになっていく。
そこは過去の美しき日々であり。
現在のかけがえのない時間であり。
未来の輝きに満ちた可能性。
あるいは肉体的な満足。
精神的な堪能。
もしくは、直接的な愛。
間接的な慈悲。
全てが一緒くたに。
一片の飽きをさせることなく変質し、抱擁してくれる。
最大幸福という破滅の仔は、万華鏡が魅せる世界のように姿を変容させる。
実際には受け取る人間がそれぞれ別の姿を捉えているのだが。
徐々に頭の中が真っ白になり、肉体の内側が震え、意識が外へと抜けていく。
何もかもが、幸せと思えてくる。
数多の幸福に包まれる、まさにその時だった。
――歌が聴こえた。
自然と涙が零れる、悲しい歌が。
幸せを覆い隠すほど、強く。
◇◆◇◆◇◆
何事もなかったかのように、〈ノクタラメント〉は『終界獣=《多幸》』の眼前に立っている。
チェーロがレ・リに別れを告げた次にはもう、ファルステール達は周囲を『拒絶』した空間から帰還していた。
時間という概念が通じない以上、どれほどあの状態にいたのかは分からない。
だが、そう長い時間ではないということは、『浄玻璃の鏡』に備えつけられた計器に示される〈星域〉内時間を見れば把握できた。
自分達が存ぜぬ僅かに、事態は最悪にまで陥っていた。
眼前には、千変万化する人類の終わりの塊。
(こうも冷静でいられるのは、チェーロのお陰か)
全てに幸せという誤解を享受させる怪物を見てもなお冷静でいられるのは、チェーロがその怪物の本質を理解しているから。
ファルステールが幸福に塗り潰されないのは、チェーロの本当の幸せを理解したから。
「まるで、ボクに向けられているみたい」
幸せな思い出をくれる化物に、苦笑するチェーロ。
『終界獣=《多幸》』を見ると、チェーロとクレスツェントの、二人の時間が思い起こされる。
不器用な彼の、懸命で、馬鹿馬鹿しくて、優しい姿が映る。
「でも、クレスツェントじゃないんだろ?」
「うん。そうだね。確かにああやって、ボクに何かあるとクーはすぐに慰めてくれようとするよ。あんな風に不器用にさ。でも、あそこまで露骨じゃないから。いつも傍にいてくれる。それだけで充分だってことは、分かってくれていたから」
『浄玻璃の鏡』はクレスツェントという少年を教えてくれる。
それがはこか、自分の知っている人物の姿と重なった。
幸せな時間の多くを共にしている、馬鹿な親友と。
「今なら、歌える」
チェーロが口を開く。
すると、なんの言葉で綴られたのか分からない、譫言や奇声、喃語などとさえ捉えられるかもしれない歌が始まる。
しかし、その声と節の美しさは、確かに悲しいと歌なのだと伝わる。
それはゆっくりと始まったかと思えば、胸を掻き毟らんばかりに早くなりもする抑揚。
そこに混ざった高低差の激しい声色は、まるで感情の変化そのものを表すよう。
紡がれる旋律は、聴いているこちらまで泣きそうになってしまう。
心臓を包むように、歌い手の心情がこちらの胸に沁み渡る。
その歌によって『終界獣=《多幸》』を魅入っていた〈魔法少女〉達の反応が、徐々にではあるが正常反応を始めるようになる。
偽りの幸せに目が覚め始める。
(やっぱり、あの夜に聴いた歌だ。でも……)
でも、違う。
まだ彼女と顔を合わせる前に聴いたものとも、『拒絶』された空間にいる前まで歌っていた歌とも違う。
何が違うのか。具体的には言うのは難しい。
ただ、胸に伝わる想いは、前とは別の何かが含まれていた。
(温かさあるんだ)
つくづく不思議な歌だ。
歌詞は分からないというのに、彼女の気持ちそのものが紡がれているということは分かる。
悲しみもまた、いつか幸せの一つとなる。
そう信じられる、信じさせる歌だとファルステールは感じ取れる。
(――そうか。単純なことだったんだ)
やっと分かった。
彼女の歌が。
意味が。
チェーロは元から、歌を歌っていない。
チェーロの歌は、そもそも歌ではない。
ファルステールが理解した瞬間に、それは起こった――
「――〈ノクタラメント=〔夜鶫歌姫〕〉?」
それは『浄玻璃の鏡』を介して伝わる、真実の名。




