6.この傍にあなたがいるということ
何も起こってはいない。
ファルステールが真っ先に感じたのはそれだ。
だが、何もなかったはずはない。
確かに、今も〈ノクタラメント〉の『浄玻璃の鏡』の中で、パイロットスーツを身に纏っている。
『終界獣』を眼前にした、あの一瞬までとさほど変わらない。
チェーロも同様だ。心の奥に秘めていた感情がなお、収まることなく溢れ続けていることも含めて。
〈ノクタラメント〉の前に『終界獣』が佇んでいること。
周囲では〈魔法少女〉と『天吏』との戦いが激化していくこと。
やはり何かが起こったであろう、刹那の瞬前と変化はない。
(まさか、ここは例の『空隙』!?)
「……多分、あの時とは違う」
どうして分かると訊ねようとしたが、覗き込むチェーロの潤んだ瞳がそれを遮る。
眼鏡の奥のそれが、あまりにも綺麗で耽美であったから。
「ねぇ、ファルにゃん」
「ん?」
「ボクね……」
「……うん」
「ボク……ファルにゃんのこと、好き……」
「えっ!? えっ――」
突然のことに、ファルステールの頭は真っ白になり、言葉も感情も出てこない。
どうしていいのか分からないでいる中、チェーロはそのほんのりと紅い唇を動かす。
「……好き……に、なろうとした……」
「…………へっ?」
いきなりの連続に驚き切る間もなく、チェーロはお構いなしに続ける。
「ボクはね。最低なんだ。クーのこと忘れようとして……クーの願いを聞こうとして……」
まるで自身が体験したかのように、クレスツェントの言葉が思い浮かぶ。
『僕のことを覚えていてくれても構わない。ただせめて、僕に縛られないでくれ。思い出にしてくれ。チェーロには幸せになって欲しいから』
その今際の言葉が、顔が、想いがファルステールの脳裏に霞める。
「だからボクは……最初に会ったファルにゃんを好きに、恋愛感情を持とうとした。ファルにゃんが聴いた最初の歌ってのはさ、別れの歌だったんだ……ただ、歌っていっても、歌詞なんてなかったんだけどね……ただ……クーと別れるための、望みを叶えるための、決別と決意の歌だったんだ……」
今でも、あの夜のことははっきりと思い出せる。
あの歌詞の分からない綺麗で、だけど悲しい歌を。
「でもね、別に誰でもよかったわけじゃなかった……ファルにゃんは優しいし、こんなボクの話を聞いてくれるし……何より、クーと似てて、でも、全然違くて……」
こんな状況とはいえ、女の子に褒められ慣れていないファルステールの頬は紅く染まってしまう。
心臓も、先程とは全く別の高鳴りを覚える。
それにパイロットスーツにヘルメットをしているはずなのに、近づくチェーロから甘い香りが漂い、ファルステールの鼻孔をつく。
錯覚だとは分かっているものの、蜜を求める蟻のように身を寄せたくなる。
「だけど……ずっと我慢してたけど……駄目だった。ボクはね、願っちゃったんだ……ううん。願ってたんだ……」
「何をだよ?」
ズズズッ……
モニターに波紋を起こしながら現れる、それは――
「クーに会いたいって……」
――『御遣い』レ・リ。
かつて、クレスツェント・クヴァルという人間だった者……
「〝魔石〟はそれを叶えちゃったんだ……ボクの願いを届けちゃった……『天吏』の突然の襲撃だって……ボクが願っちゃったから……叶っちゃったんだよ……ただ、クーに会いたいから……」
「そんなこと、あるわけ――」
「でも、確かにここにいる!」
ヒステリックな声を上げ、現れつつある『御遣い』レ・リを指差す。
「仕方ないじゃない! どうしたって、ボクはクーのことが好きなんだ! 大好きなんだ! ファルにゃんのこと……ファルステールくんのこと、色んな理由をつけて好きになろうとした。運命だって無理矢理当て嵌めようとした……」
くしゃくしゃの顔で、ぼろぼろと涙を零すチェーロ。
綺麗で陽気な歌を歌う彼女のものとは思えないくぐもった声で、絶望を口にしていく。
「けどね……そうすればするほど、やっぱりクーのことが好きなんだって気づいちゃうんだよ……分かっちゃうんだよ! クーに言い訳して! 自分に言い訳して! 好きになろうとしているんだって!」
酷く、酷く、歪んだ顔で……
今までの、どの彼女には想像できないほど、醜く歪んだ顔で……
笑って、
泣いている。
彼女自身どうしようもない感情が溢れた、見ている方が辛くなる顔で……
「ボクはね……クーと一緒になれるなら……もう二度と喪わなくていいなら……ファルステールくんが死のうが……関係ないんだ……」
できるなら、抱きしめたかった。
抱きしめて、大丈夫だから、と伝えたかった。
そこには恋愛感情などなく。ただ、彼女を救いたかったから。
彼女の屈託のない、少しだけ憎らしい笑みを向けて欲しかったから――
「クー、分かる? ううん。分からなくてもいい。君が、クーがいればそれだけでいい」
{ようやく会えたな、イィクドゥ――ただ残念だが、〈創天球儀〉に君が求めているものは見つからなかった}
「ずっと言いたかったんだ……ボクね。クーのことが――」
――そうだっていうのに、このバカ娘は!
「大好――」
「言うんじゃねぇ!」
ファルステールの人生に於いて、最大音量の声がチェーロの告白を遮る。
思ってもいない怒鳴り声に、チェーロは蒼い瞳を丸くして硬直した。
「いいか! 絶対に! 絶対にそいつにはそれは言うな!」
一方、レ・リは腰の辺りまで現出し、チェーロに触れようと手を伸ばす。
ファルステールはチェーロを庇うように『御遣い』に対して背を向け、彼女の瞳と真っすぐ向き合う。
「いいか! よく聞けよ!? 俺はな! 三年間想い続けていた子に告白する前に振られ! しかも、その好きな子は俺の親友のことが好きで! そいつもその子が好きで――!」
早口で捲し立てられ、半ば放心状態だったチェーロは口を挟むことなんてできない。
彼女は戸惑い、何が起こったのかよく分からない顔をしていた。
「――でも、そいつは自分よりも他人の幸せを優先しちまうから! だから自分の感情を自分でも気づかなくなるくらいに隠して! で、もっと馬鹿な俺は気づいちまって! んでもって今度は、別に恋愛感情を抱いていなかった友達に、告白をしたわけじゃないのに振られたんだぞ! で、死にそうになってる! しかも、そいつの心中に付き合う形で!」
ぜえぜえと肩で息をする。一気に喋ったため、喉と舌が渇く。
それでも、やめる気はなかった。
それに彼女が聞いていなくとも構わなかった。
「どうだ! なんかもう最悪だろう!? 不幸だろう!? 俺の十六年の集大成がこれだよ、こんちくしょうめ!」
怒ってはいない。
むしろ、おかしいほど笑いそうだった。
だがそれでも絶望はしていない。
いや、まだ絶望なんてできやしない。
「チェーロ! あんたは言ってたよな、こういう言う沈んだ空気は好きじゃないって! 俺も好きじゃないさ! 誰だって好きじゃないに決まってる!」
ゆっくり。ゆっくりと滲み出てくるレ・リをファルステールは指差す。
「あんたはこいつで満足なのか!? こんなクレスツェントもどきでいいのか!?」
「もどきじゃない!」
「偽物だろうが! あんたは言ったんだろ!? こいつの顔が好きって! 声が好きって! 温もりが好きって!――今のこいつに、それがあんのか!?」
「でも……」
「答えろ! あんたが求めたのは! 想いを伝えたいのは! 本当にこいつなのか!? こいつでいいのか!?」
ファルステールが指差すレ・リの動きは実に緩慢だ。
触れようと伸ばす腕は、まるで目に見えない膜を突き破らんとするかのようにぎこちない。
しかしそれも、チェーロの解答一つで解消されそうで恐ろしかった。
「だって……」
「らしくねぇんだよ! あんたはもっと我儘だろう!? 本当に欲しいもんなら妥協なんてするな! あんたが求め続ける限り、俺は協力してやる!――いや、求めなくても俺は諦めてなんかやらないぞ! だからなんでも言え! 今の相方は俺なんだ!」
言いたいことのほとんどを言ってやると、応えるようにチェーロは小さく微笑む。
「ボクは分かってるんだよ……? 本当は、ただファルステールくんが生きたいから必死なんでしょ?」
皮肉に歪んだ邪悪にも取れる頬笑みは、ファルステールの胸元を確かに抉る。
何せ、ここは『浄玻璃の鏡』だ。隠せるものなど何もない。
「そうだよ! 俺が生き延びたいから必死なんだよ! 童貞のまま死ねるかってんだ!」
言わなくてもいいことを勢い任せで口にしてしまい、身体中が上気する。変な汗まで滲み出てくる。
だからか。半ばやけ気味に叫び、訴え、求め、導き続ける。
「それに俺だって、あんたが本当は死にたくないことくらい分かってるよ! 諦めたくないことくらい知ってんだよ! だけどな、いいか! いくら『浄玻璃の鏡』であんたのことをなんでも知られるからって! 想いは、あんたから直接伝えてくんなくちゃ意味がねぇんだよ! 願ったところで、望んだところで! その意志を言葉にしてくれなきゃ、あんたが本当に願うことなんて誰も分からねぇんだ!」
こんなにも異性に対して声を荒げたことも、真っ直ぐ目を見つめたことない。
それ故に、彼女がどう返してくるのか……不安で、怖い。
「……ははっ」
笑い声が漏れる。
それは渇いた、悲哀の色はなく。
むしろ……
「それで、誤魔化してるつもりなの?」
むしろ、心の底から楽しそうに笑っている。
それは、いつもの。一番見たかったら笑みだ。
「ファルにゃんのそんな、後先考えない馬鹿正直なとこ好きだよ……馬鹿みたいで」
「馬鹿を二度も言うなよ」
「いいんじゃない? 馬鹿同士でしょ?」
チェーロは瞑目すると、やや大げさに深呼吸を一つした。
「それにボクも処女のままでは死んでられないや」
「ぶっ――!?」
「うん。ボクは。クーに――本当のクーに会いたい」
すると、クレスツェントが――いや、レ・リが空間の奥へと引き戻されていく。
{どういうことだ、イィクドゥ?}
「そういうことだ、レ・リ」
ファルステールの宣告にレ・リは本当に何も理解できない、ただただ現実を受け入れられない動揺を浮かべる。
空間に沈むレ・リの顔は、伸ばす手は、まるで助けを求めているようにも見えた。
「さようなら――それと、少しだけありがとう」
まだ寂しさの名残りがある笑みを、チェーロが贈る。
それが人間であるチェーロ・オクデクセスと『御遣い』のレ・リを繋いでいたものを、完全に断ち切った。




