1-3
夢と現実の区別がつかないことがある。どうでもいいような日常の風景を夢に見て、それが現実だったかどうかわからなくなる。
しかし、一晩眠って起きたところで、実際見る夢はもっと支離滅裂で馬鹿馬鹿しいものだった。
あれは夢と言うにはあまりにリアルで、現実とするにはアンリアルな出来事だった。
朝、眼を細めるような日差しもなく曇天が広がっている。眠い目を擦って、駅のロータリーへ出る。何事もないまま、学校へ辿り着いてしまう。
結人としても巻き込まれたいかと言えばそうではない。そう何度も怪人に会いたいわけではない。自殺願望があるはずもない。
危険はわかっているつもりだったが、不可思議な事象を前に納得できず、確かな答えを欲している。あるいは、あの少女に会いたいのかもしれない。
だからこそ、この日、結人はある決意を固めていた。放課後、図書館に寄って調べ物をしようと思ったのだ。一度限りでなければニュースになるはずである。
忘れろとは言われたが解決しないまま忘れることはできない。
市の図書館に着けば待ち合わせをしたわけでもないのに少女が立っていた。今日は一人、伊万里と呼ばれていた女子はいない。
いや、これは待ち伏せかと結人は考える。近寄ってきたのは少女の方だった。目の前に立たれて結人は困惑する。どんな顔で会えばいいのかわからなかった。
「やっぱり覚えてるのね」
見上げてくる大きな目はどこか悲しみを宿しているように、そして不安げに揺れている。
言われた意味は結人には一瞬理解できないものだった。
「……忘れるわけないだろ」
何を忘れられると言うのだろう。あれだけの衝撃的な出来事に二度も遭遇して、何事もなかったようにできるはずもないというのに。
「調べようとしても無駄よ。だって、誰も覚えていないのもの」
結人の考えなど彼女はお見通しだったのかもしれない。だから、ここに答えはないと少女は言っているのだろう。
「だったら、君が答えをくれる?」
結人は問う。欲しているのは答え、何より彼女に与えてもらうことを望んでいる。彼女は全てを知っているに違いないのだから。
けれど、少女は二度結人の前から消えている。答えることを拒むように。そして、彼女の仲間は忘れろと言った。なのに、今日は彼女の方から待ち構えていたかのように結人の前に現れた。
「忘れようとしてもできないんだ。だから、教えてほしい」
また拒まれるのではないかと心配になるからこそ結人は続けていた。知ってどうなるとも思えないが、好奇心と言うほど軽々しく考えているわけでもない。
その思いが伝わったのか、少女がゆっくりと頷いた。
図書館の中庭で二人並んで座れば、結人はドキドキしていた。優愛とはまるで違った女の子だと思うのだ。
存在していて存在していないかのような、不思議な儚さを感じる。
「お、俺、正木結人。見ての通り双羽東の一年生」
お互いに名前を知らなければ不都合もある。だから、結人は自分から名乗ることにした。
「久慈希織。私も一年生」
正直なところ同い年には見えないが、年上でなくて安心した部分もある。少し緊張も和らぐというものだ。
「今日は、一人なんだ?」
いつも一緒というわけでもないのだろうか、伊万里と呼ばれていた少女の姿は見当たらない。
「……うん。あなたのこと、どうにかしろって伊万里に言われたから」
だから、わざわざ待ち伏せめいたことをしたのか。結人は嬉しいと思うよりも不安で気分が重くなるのを感じた。
空模様は一日中曇天だったが、結人の心は雨が降りそうだった。いや、もう降っているのだ。絶え間なく疑問の雨が降り注いでいる。
「俺を消すの?」
不安はぽつりと零れる。ゲームのやりすぎだと笑われても構わなかった。彼女達にとって不都合がないとも限らない。結人の存在が問題になる場合、排除されるのではないかと思うのは当然と言えるはずだった。
語り手が存在しないのは皆が闇に葬られてきたからだと結び付けることだってできる。知りすぎた者の末路を今から身をもって知ることになるのかもしれない。
けれど、もう後には引けない。
「そんなことしない。私達にはできない」
希織は弱々しく首を振る。彼女自身も当惑しているのかもしれなかった。
彼女にとっても自分の存在はイレギュラーなのかと結人は考える。
「本当は何もかも忘れて、首を突っ込まないでほしい」
危険を認識するからこそ、結人もそうしたいところだった。できることならば。
「でも、無理だと思うから」
「……うん」
結人とて嬉々として首を突っ込みたいわけではない。知ったからと言って何をしたいわけでもない。忘れられるなら、その方がいいのは間違いない。
「みんな、自分が見たもの聞いたものを忘れてしまうの」
希織は目を伏せ、ぽつりと零す。
現実的ではない話ながらも結人は納得していた。そうでなければ、あれだけ人がいて騒ぎにならない方がおかしいのだ。昨日の朝も放課後も何事もなかったかのような異様な雰囲気を覚えている。
「世界が不都合な事実をなかったことにする」
自分だけが切り離されていたような疎外感を結人も覚えている。あれがあるからこそ、信じ難い話ではなくなっている。
「でも、俺は覚えてる」
薄れてしまいそうになるのを何度も思い返し、実際彼女と会えば鮮やかに蘇る。
怪人の姿も、少女の格好も、炎の熱さも何もかも覚えている。
結人にとってそれらのことは恐怖でありながら遠い。どこか非現実的な、それこそゲームように感じてしまうからこそ、調べようと思ってしまったのかもしれない。
「覚えているのはいいことじゃない」
希織が頭を振る。忘れなければならないのだと、それが当然のことだと言うように。
「私達は世界の大いなる流れに逆らう存在、絶望を与えられ、死に追いやられて、それでも魂を取り戻した」
私達とは伊万里のことか、他にも彼女達のような存在がいるのかはわからない。
「それは死んで生き返ったってこと……?」
信じ難いことではあるが、そもそも何もかもがおかしいのだから仕方のないことだろう。
死んだ人間は生き返らない。けれど、隣に座る希織は確かに生きてここにいると感じる。幽霊などとは思えない。結人はこれまで自分には霊感はないと思っていたし、特別霊魂の存在を信じるわけでもない。
希織は首を横に振る。
「死ななかったことになってるだけ、今はね」
希織の言葉には陰りがある。生き返ったことは否定しながらも死を回避したとは言わない。
「失った全てを取り戻すために魔女と戦うの。全てが終わった時、ようやく私は元のように生きられる」
希織は理不尽な死を迎えたのだろうか。魔女に何もかもを奪われてしまったのだろうか。残酷な運命に身を投じて、魔女を倒してこそ彼女は本当の意味で死を回避できるのだろう。戦いに敗れれば、死んでいたことになるのか。
彼女も全てを語るわけでもなさそうだった。だから、結人も自分なり解釈してみることにした。それらのことは彼女から感じるどうしようもない儚さの理由として納得できるものだ。
けれど、魔女とはあの怪人ではなかったはずだと結人は思い出す。あれは確かシモベと言われていたはずだった。
「魔女? あの怪人は何なの? 君は何者なの?」
疑問は口にすればきりがない。希織の困惑した表情を見て、申し訳なさを感じながらも結人にはどうすることもできなかった。
「私達はお互いに自分達が魔法使いだって主張して、相手を魔女だって言う」
確かにそうだった。怪人は彼女を魔女だと言い、彼女は怪人の主を魔女だと言う。どちらも同じ魔女ならば仲間割れということになるはずだったが、違うような気もしていた。それが定まらないからこそ、結人は困っていたのだ。
「魔女ってイメージ悪いでしょ?」
自分の中の魔女のイメージを呼び出して、結人は頷く。ゲームの魔女や古典的な魔女のどちらとも彼女は異なっている。
魔女とはかつて異端であり、迫害の対象であったものだ。ふと魔女狩りという言葉を思い出す。
魔女でないなら何なのか、考えて結人の中に一つ疑問が落ちてくる。
「君達は正義の味方なの?」
希織は人々を襲う怪人を二度も倒して見せたが、結人の中には釈然としないものがあった。
正義というには彼女は純黒の衣装に身を包み、悪の手先といった方がしっくりくるような格好をしていた。伊万里にしてもそうだ。
「白黒、善悪はっきりさせなきゃ気が済まない?」
希織の瞳が鋭い輝きを宿して、結人を見ている。触れれば切れるナイフのような、ひんやりとしたものを感じる。怒っていると結人は察した。
「時間がないから言っておく――」
早口に希織が言った。
「――あれは光、私は闇。でも、それをあなたの物差しで計らないで。私を信じて。そうしたら、絶対に守るから」
結人が理解しきらない内に爆発音が響いた。
希織は立ち上がって音がした方向を睨んでいるようだった。
静穏に包まれていた図書館の周辺は一気に騒がしくなる。また怪人かと結人が見上げた先にそれはいた。
図書館の屋上に小さな人影がある。白と赤の少女が立っていた。
「粛清する!」
少女が手を振るえば、次々に光の球が周囲に生み出され、落下していく。それは中庭や外を歩く人間に向かい、弾けて皆がバタバタと倒れていく。
きっと命までは奪われていないだろう。また何事もなかったようになるのだろうとだとしたら、攻撃の意味は何なのか。無意味ではないか。考えたところで結人にわかるはずもなかった。
ふわりと少女が結人達の前まで降りてくる。
「これは正義、これは勇気、全ては公平でなければならない」
淡々と彼女は言う。人々を倒しておきながら何が正義だと憤りたくもなるほど傲慢な物言いだ。
ふと、結人はその声に聞き覚えがある気がしていた。どこで聞いたか、誰だったか繋がらない。
顔を見ても判断できない。これだけ目に痛いほど派手な少女ならば知っているはずだ。ゲームの登場人物か、声は声優かと考え出す始末である。
炎の如き紅蓮の髪はくるくるときつく巻かれ崩れることを知らないかのようだ。白と赤を基調としたワンピースを纏っている。女子のファッションに疎い結人でもロリータファッションというものかと思い至る。リボンやフリル、レースといったものがふんだんに使われているか。しかし、生地を押し上げるはちきれんばかりの胸は少女らしからぬようにも思える。全体的にふんわりとして希織とは何もかも対照的であるようだ。
もう一度考えてみても知らないはずだと思う。けれど、知っていると感じる。
「それは憤怒」
希織が言い放つ。敵意が剥き出しだ。いつの間にか彼女は変身して剣を手にしている。
「いいえ、これは慈悲、怒っているのはあんた」
白と赤の少女がすっと白い手袋に包まれた手を希織へと向ける。
「一番フェアじゃないのは誰よ……!」
希織は本当に怒っている。その激情に呼応するかのように揺らめいて見えたのはそれが炎によって作られた剣だと知っているからか。
「あんたに決まってるでしょう?」
白と赤の少女は嘲笑う。少女と言うには邪悪な表情をしている。
纏う可愛らしい衣装が純白に鮮血を散らしたようにも見えてくるくらいだ。こんな少女は知らない、知り合いでありたくないと結人は強く願う。
「汚らわしい魔女め……!」
希織が明確な憎悪を込めて叫ぶ。
これが魔女か、結人はまた自分が蚊帳の外になっているのをいいことにまじまじと観察する。魔女と言うには予想外の格好をしている。可愛らしくも、その悪意は隠せないと言ったところか。
「汚らわしい? 闇から生まれたくせに、あたしを侮辱するなっ!」
魔女はヒステリックに叫ぶ。
「その闇を生み出したのはあなた自身じゃないの」
焼き焦がそうとするかのような剣の熱量とは裏腹に希織自身からは冷気めいたものを感じる。錯覚にすぎないのだろうが、彼女は冷静さを欠いているようには見えなかった。静かに怒りを露わにしている。
「あたしは悪くないっ! 何も悪くないっ! あたしは何もかも全てにおいて絶対的に正しいのよ!」
喚き散らして、まるで子供の喧嘩だ。罪の擦り付け合いとも言えるのかもしれない。しかし、そんな可愛らしく平和なものではない。
魔女が再び手を振るえば、光球が空中に生み出され、希織と結人の前でパチパチと明滅し、弾けた。目眩ましか、魔女は図書館の裏へと走る。
どこからともなく現れたくせに瞬間移動はできないのか、それとも誘い込もうとしているのか。光の球は足止めというには弱かった。
「逃げるなっ!!」
やはり冷静ではなかったのか、希織も魔女を追って走る。結人も反射的にその背を追った。どうするべきか、わからない。罠なのかもしれない。行けば危険かもしれないが、彼女の側を離れるのはもっと危険に思えた。
「くそっ……」
少女らしからぬ悪態を吐くのは希織だ。薄暗い図書館の裏で希織の前には白い怪人が立ちはだかる。魔女の姿はどこにもない。
もう何も驚かないと結人は自分がこのおかしな状況に慣れてきてしまっていることに気付いていた。怪人の姿にも見慣れて恐怖も感じなくなっている。
身の危険を感じても希織が助けてくれる。彼女は必ず怪人を倒すという一種の信頼か。魔女によって倒れた者達も何事もなく日常に戻って行く。どこかでは自分も死なないと思っている。感覚が麻痺している。
「最低な置き土産だわ」
吐き捨てて、希織が剣を構え、怪人へと斬りかかる。
怪人は何体でもいるのだろう。それだけ魔女はたくさんのシモベを飼っているのだろう。あまり想像したくないことだったが、無限に湧き出てくるのかもしれない。
倒しても倒してもきりがないからこそ、希織は魔女自身と戦いたいのだろうか。怪人がそれを阻止する。自分の主を倒させまいとする忠誠心があるのだろうか。捨て駒のようでもある。結局、何なのかはまだわかっていない。
「下がってて」
希織は前を向いたまま言うが、自分にかけられた言葉だと結人は理解していた。昨日のようにまた背後から怪人が現れるのではないかと思うものの、自分がいては戦いにくいのだとも理解しているつもりだった。
しかし、その一瞬が希織の隙だった。怪人は見逃さず、仕掛けてくる。
ぶんと振るった怪人の腕は希織には全く当たらない。そもそも届きもしない距離なのだが、希織の体が浮いた。吹き飛んだのだ。結人の体をも衝撃が襲う。
「いてててて……」
何が起きたか、体が痛む。自分も吹き飛ばされたか、地面に背中から叩き付けられたのだと認識して結人は気付く。
自分の上に何かが乗っている。もぞりと動くのは希織だった。偶然か、無意識の内に受け止めていたかはわからないが、互いに無事と言えるだろうか。
それにしても、軽い。重みはあっても希織の体は結人が思うよりもずっと軽い、確かに体が小さいが、ちゃんと食べているのかと改めて心配になるくらいだ。
「このまま……」
「ん?」
希織が何かを言った気がするが、聞き取れない。
「一気に片を付けるから」
今度ははっきりと聞こえた。そして、希織が右腕を伸ばす。結人はとっさにその体を支えていた。掴んだ白い両肩はやけに小さく、何にも覆われることなく白さが目に眩しい。
「紅焔よ――」
お馴染みのフレーズに応えるように炎が揺らめく。ぶわっと熱風が結人をも襲い、一瞬目を開けていられなくなる。
「――食らえ」
一際低く刺々しい言葉は何を表していたのか。何とか目を開けた結人は信じられないものを見て、驚倒した。
炎だった。確かにそれは炎だった。けれど、これまで見たものよりも純度が高いとでも言うべきか。
龍だった。炎であり、龍の形をして頭上にあった。
龍は口を開け、ごぉっという風の音が咆哮を思わせる。そして、一気に怪人を丸ごと飲み込む。
「ぐぅ、あああああぁぁぁぁぁっ!」
濁った声は怪人の断末魔か、圧倒的な火力で焼き尽くす。前の怪人を襲ったのが小火であったかのように、今回は間違いなく大火である。怪人一体だけを焼いたことが不思議になるほどの火力である。この一体が焼け野原になってもおかしくはない。
あまりにあっけなく、炎と共に怪人の姿も消える。希織はよろよろと立ち上がるが、すぐに壁に背中を預けるようにしてずるずると座り込んでしまった。
大丈夫かと心配になって結人は近付く。