09
「待ちなさい」
カウンターから飛び出て入り口のドアの取っ手を掴んだと同時に金城がかなめの手首を掴んだ。
「っ、放して。早く行かなきゃ…!」
「制服を脱いで。それがあれば僕は貴女に化ける事が出来ますから」
金城が言い終わる前にかなめは自分の手首を掴む手を振り解き、躊躇い無くバイトの制服の前ボタンを外した。
制服の上着は差し出された大きな手によって回収される。
「あと荷物も。これ」
金城はカウンターの下に置いてあった、定期と財布が入っているかなめの鞄をかなめに持たせた。
「それから。あまり急ぎすぎないで。昼までに間に合えば悪いことにはなりませんから」
“何故そんな事を知っているの” とか
“どうして教えてくれるの” だとか
“私に化ける事が出来るってどう言う事” なんて疑問は、頭が真っ白になったこの時のかなめには浮かんで来なかった。
ただ、祖母のことを考えて。彼女がいなくなる時を思い出して―…
その上着に残り香を残すでもなく、かなめはドアを勢い良く開けて駅の方向に走っていった。
..............
「おばあちゃん!」
玄関の硝子扉を急いでスライドさせた所為で、家の塀に乗っていたスズメ達が驚いて飛び立った。
乱暴に靴を脱ぎ散らかし、スリッパも履かずにそのまま居間の引き戸を引いた。
駅に着いてから家に向かって一目散に駆けて来たかなめとは対照的に、祖母は居間でテレビを見ながらいつも通りに寛いでいた。
「ん?あら。かなちゃん?どうしたんよ、バイトは?」
畳の居間にある食卓の上にいくつか梨を転がして、その内の一つを果物包丁で器用に剥いている。
暫く肩で息をして口を開けたまま突っ立っていたかなめは、脱力した様にへなへなと座り込む。
「おばあちゃん、病院に行こう。今から」
「ええ?何でかいまた。ばあちゃんは今日は一段と元気やのに」
「そうかもしれないけど、念のため」
「…なんかあったんかい?」
なりふり構わず走って来たものの、今は元気な祖母に対してどう説明すれば良いのかかなめは分からなかった。
バイトを抜け出してまで、と祖母は疑問を隠せないでいる。それはそうだと思う。
ずる休みなんてした事のない真面目な孫に限って、バイトが嫌で自分を病院に連れて行く事を言い訳に抜け出して来た等という話では確実にないと、彼女は分かっていた。だから余計に。
かなめはどうやって祖母を病院に連れて行こうか、ひとしきり悩んだ。
「占いで、『乙女座は健康診断を受けた方が良いかも』って言ってたんだよ。おばあちゃん乙女座でしょ」
案の定、祖母はポカンとしている。
「あと、バイトはね、店長が今日は帰っていいって。お客さん少ないからって」
我ながら無理があるとは思ったが、それでもここは嘘でも貫き通さなくてはならない。
「かなちゃん占い見るようになったんかぁ。やっぱり女の子やからなぁ」と別の方向で納得している祖母に胸を撫で下ろした。
「そうなの。ね、せっかく暇になったんだから一緒に行ってあげるよ。それにたまには私もあの綺麗な病院に行きたいしさ…」
「ありがとうねぇ。かなちゃんは若いんだから大丈夫だわえ」
壁掛け時計を見ると、針は10時半を指していた。
病院へは歩いて10分もすれば着く距離にあるから、診察の待ち時間を含めてもお昼までには十分間に合うだろう。
田舎の電車は1時間に1本なんてザラであり、タイミングを逃せばたとえ駅には着いても次の便が1時間半後だったりなんてこともよくある。
コンビニを飛び出て駅まで走ったものの、歩いても間に合ったくらいのちょうど良い時間に電車は来た。
駅とコンビニはそんなに離れてはいない。だとしてもかなめは走らずにはいられなかった。
(良かった。きっと間に合う)
それでもまだ押し潰されそうな不安を抱えながら、着替えた祖母を連れて病院へと向かう。