02
あの時、2番目に早い子が来ていなかったら、どうなっていたのだろう。
かなめは文庫本のページを捲った。面白いと思って読んでいた筈が、途端にどうでもよくなってしまった。何故だろう。間違いなく、金城のせいだ。
「僕のこと、本当に覚えていないんですね」
常ににこにこと微笑んでいる金城が、不意に真剣な顔つきになった。
眉をしかめて真面目な顔でかなめを見下ろす姿は、辛そうだった。悲しそうだった。何故そんなに泣きそうになっているのだろう。そして“覚えていない”とは一体なんのことなのだろう。
まるで金城とかなめが以前に一度出会っていたかの様な口ぶりだ。
「川下さん、どうかしたの」
さっきから、ずっと聞きたかったのだろう。金城との会話を中断させた2番目に早く着いた生徒がかなめに問うた。
「なんでもないよ。先生に授業をちゃんと聞けって言われただけ」
それは本当の事だった。嘘なんか吐いていない。そもそも、別に嘘を吐く必要もないのだけれど。
「川下さんて、金城先生が嫌いなの?唯一聞いてないよね、授業」
「わかるの」
「うん。下向いて、何かノートに書いてる時もあれば、本読んでる時もある」
にやっと悪戯ぽく笑うクラスメイト。佐山という。彼も電車通学で苦労しているらしい。いつもではないが、大体彼が2番目に教室に入ってくるのでよく話す方だ。
「俺も、別に特別好きじゃないけど。皆に人気だからって合わないなら無理に好きにならなくても良いんじゃない。でも授業はまあまあ解りやすいから俺は聞いてるよ」
「そうね。でもどうしても、生徒をえこひいきするような先生は苦手」
佐山は合点が言った様にあーと笑った。
「確かに、金城って川下さんのこと特別扱いしてる気がする。あ、でもそれ、他の皆は気づいてないと思うよ。かなりビミョーだし」
俺鋭いからさ~、と笑いながらがら下敷きを団扇代わりに扇ぐ。そろそろ他の生徒も登校して来る時間だった。
...........
朝のHRには金城の姿はなかった。これは別段おかしい訳ではなく、金城はHRに参加しない事が多々あった。金城の事が好きな生徒達は残念がっていたが、自由におしゃべり出来る点で言うと担任が居ない方が良いとも言えた。
しかし、午後からの化学の授業には当然、やってきた。
そして授業が終わった後、かなめは金城直々に呼び出しを食らった。
「日直の川下さんは放課後、職員室に来るように」
運悪く、今日の日直はかなめだった。
かなめは内心、かなり気が進まなかった。今朝の続きが始まるのかと思うと、もう面倒くさい。“覚えていない”云々は、もしかすると金城の策略かもしれない。
それでも一応担任の言いつけなのだ。実は日直に対する唯の事務連絡かもしれないのだし、行かない訳にはいかない。
「ああ、川下さん。後で行くので、向こうの多目的室に行っていて下さい。ハイこれ」
そう言って渡されたのは多目的室の鍵。職員室の引き戸を引くなり目の前には金城がいて、なかば強引に退出させられた。
ああ、これはやっぱり面倒くさいかもしれない。
...........
多目的室。なんて都合の良い名前だろうと思う。
鍵を開けて入るやいなや、かなめは真っ先にすべての窓を全開にした。ここを個室の閉鎖された空間にしたくなかった。実際、熱気が籠っていたので大正解だった。ただし窓を開けたからと言って涼しくなることはない。真夏の夕方なのだ、暑くない訳が無い。
暑いのは出来る限り無視をして、放課後の野球部の声が明け透けに聞こえてくる広い空間に満足した。後ろで戸が引かれる音がして振り返る。肩を越したあたりの黒髪が、頬に貼りつく。
「その警戒心は女性として大切にしなければいけませんが。もしかして、僕を疑っているんですか。何もしませんよ」
「何の用ですか。帰りの電車のこともあるので出来れば手短にお願いします」
「じゃあ、手短に。川下さんは、猫は好きですか」
「は?」
いきなり、猫?
これも雑談なのか。
「…あまり好きではないです、けど」
正直に答えた。かなめは昔から猫が苦手だったから。特に黒猫が怖かった。
訝しがるかなめをよそに、金城は意味のわからない、驚いた様な嬉々としている様な変な顔をした。瞳がきらきらと輝いている。何か、そんなに喜ばせる様な返事をしてしまったのだろうか。金城も猫が嫌いだから気が合って嬉しいとかだったら嫌だなとかなめは思った。
「かなめさん。良かった。やはり貴女は貴女のままだった。少し忘れているだけで。僕を、この姿を見たらきっと」
嬉しさが最高潮に達したときに、人間はこんなにも輝いて見えるのか、と思った。
しかし彼の場合比喩表現ではなく、本当に“輝いて”いた。
金城の色素の薄い、少し癖のある髪は瞬く間に金色に輝き、華奢だがごつごつした男の体躯は透ける様に白い肌を露にした。男にしては大きい双眸も長い睫毛も、燃え尽きない流れ星の様に光って落ちた。
後光とは、神の様な聖人が発するえも言われぬ神々しい輝きのことを言うが、それを発する本体は最早、“人間”ではなかった。
金色のたてがみを額になびかせ、その額からは水晶の様な長い角が生えていた。
海の底かと思う程に神秘的なダークブルーの瞳。
多目的室という日常の中で、明らかに非日常の生き物がそこにいた。
角のある馬の形をした、これは、確か。
そこには現実世界では存在するはずもない生物、一角獣がいた。