18
ここまでで良いと言われた時、やわらかな、しかしはっきりとした拒絶を感じた。
それなのにあのキス。熱が籠って息が出来ない程、長い間唇を貪られていた。
(そういえば、自分からしてしまったんだった。)
あの声の主の事を知っていると金城が零した瞬間、かなめは知りたいと思った。知らなければいけないと思った。例えその条件がふざけた物だったとしても。
そうなればもう、即行動に移してしまっていた。そんな事をすればどうなるか等、考えてもいなかった。
帰り道の電車の中で『無理強いはしない』と言っていた。彼の言葉に嘘はないと、なんとなくだがそう思う。金城はかなり胡散臭いが、信用できない人間ではないとかなめは直感で感じていた。祖母を助けてくれたからなのか、それとも何か別の理由なのか。
―――触れられても良いと思ったならば、その時は…
そう弱弱しく囁いたあの時、彼は目を伏せて遠慮がちに触れてきた。まるでかなめの反応を直接伺うことが出来ないまま、それでもそうしないと居られないとでも言うように。
そうだ、あの時の弱々しさを感じていたのだ。抱きしめる腕の強さが、荒々しい口付けが、彼が何故か弱気になっていることをかなめに肌で伝えていた。
それがかなめに自分からキスなどしなければ良かったと後悔させる。
(どうしてあんな顔をするんだろう)
立ち止まって片手で胸を押さえる。その手をゆっくりと上へと這わせ、指で自分の唇に触れる。
(…傷つけてしまったから。彼を。…私を)
情報の代償にやすやすと身体を提供してしまう危うさを、かなめは初めて恐ろしいと思ってしまった。
分かってはいたのに。自分は彼を利用して傷つけてしまうのだと。それは仕方の無い事だと。
そしてそれは自分にも返ってくるものなのだと。
金城はこんな自分をどう思ったのだろうか。
解らない。深く熱く口付けて来て、その割りに引くときはあっさりと離した。
こんな阿婆擦れ女に愛想を尽かしたのだとしても、金城はきっちりと代償をかなめに渡した。
―――今夜、夢を見ると思います。残念ながら全てを見せて差し上げる事は出来ませんが。
猫だった自分を人間にしてやると言ったあの声の事が分かるかもしれない。
かの声の主は神なのだろうと思っていたが、金城が知っていると言っていたのだ。
もしまた会う事が可能ならばお礼を言いたい。
そして転生の条件とは一体なんだったのか。祖母に関係する事なのだろうか。
気が付けばもう目の前に自宅の塀があり、玄関の明かりが点いたままなのを確認したかなめは急いで家の中に入った。
祖母はもう食事の片付けをほぼ終える頃だった。
「おかえり。先生、ちゃんと家に着いたんかえ?」
「うん、多分。途中までで良いって言われたから」
「そうかい?色々話をしてたんかいな、近い言ってたのに中々帰って来ないから」
かなめはあのキスの事を思い出し、赤面した。
思っていたよりも時間が過ぎてしまっていたみたいだ。
それに気付いたのかそうでないのか、祖母はあからさまににやにやと揶揄する様に笑いながら、洗い終わった食器を拭いて伏せている。
「へえ、そんで、かなちゃん。先生25や言ってたね。ばあちゃんは、恋には年の差は関係ないと思うでよ」
「………はい?」
「ええ男やないの。もう先生と違うんやろ?そんなら、もう自由と違う?あの人だったらかなちゃん大事にしてくれる」
「ちょ、ちょっと待ってよおばあちゃん!いきなり話が飛びすぎだよ!」
「女の子はね、ええ人に嫁いで子供産んで、幸せになるんが一番ええ。かなちゃん、ばあちゃんはかなちゃんには幸せになってもらいたいんだわ。そうしたらばあちゃんも安心なんよ」
祖母の菩薩の様な微笑みが胸を刺す。
彼女の口から『嫁ぐ』なんて言葉は聞きたくなかった。
「そんな…嫁ぐなんて、全然考えてないよ…」
「かなちゃんは優しいから、ばあちゃんと一緒におってくれるんや。でもな、かなちゃんはかなちゃんのことをもっと考えなあかん」
「………」
「そうか。確かにちょっと、急に言い過ぎたかいなぁ。あの先生があんまりにもええ人やったから、ばあちゃん色々考えてしもうた。優しい目してかなちゃんのこと見てたでなぁ」
何を思い出したのか、心底楽しそうに笑う祖母。
そんな彼女とは対照的にかなめの気分は沈んでいく。祖母のお喋りが籠って遠くに聞こえる。突然周囲の音が聞こえなくなり、キーンと耳なりが鳴った。
「…私はおばあちゃんとずっと一緒にいたいよ。結婚なんかしない。おばあちゃんが嫌って言っても…」
もう一緒にいるのは嫌だと思われているのだろうか。
ほぼ孤児だった自分の面倒を今の今までずっと見てくれた。それが彼女の負担になっていたのだ。
16になったのだから、早いところもう別の家に嫁いでいけば良いのだと言っているのだろうか。
そんな事は言い難いから、たまたま金城という男がきっかけになりこんな風に話を切り出されたのだろうか。
ぼろぼろと涙が零れていく。台所の床にひとつふたつみっつ、染みが広がっていく。
突然泣き出したかなめに祖母はおろおろと狼狽し、何度も謝った。
かなめも声にならない声でごめんと零す。困らせるつもりはなかったのに、と。
祖母が背中をさすってくれていたお陰で幾分落ち着いたかなめは、淹れてくれたお茶を飲みながらまた後悔した。
今日は後悔ばかりしている。なんて不器用な人間なのだろう、とかなめは苦笑した。
元々が人間ではなかったからなのだろうか。変わったのは外見だけなのではないか。
あの頃からなにも変わってない。何も出来ない。
「ばあちゃんを大事にしてくれて、本当にありがとうね。こんなええ子が孫なのに、一緒にいるのが嫌なんか、思うわけないやろう」
祖母も目を赤く腫らしていた。かなめは何度も何度も頷きながら祖母の心地良い声を聞いていた。
お互いに泣き疲れた二人は久しぶりに一緒に眠ることにした。