13
「金城先生」
金城は駅にいた。そこで何をしていた訳でもなく、ただ他の電車待ちの客と同じように車線前に立っていた。
「やあ、かなめさん。体の方は大丈夫ですか」
かなめに気づいた金城はいつもと変わらずにこにこと笑う。真夏なのにスーツ姿で大荷物の長身の男はこんなど田舎の駅には不似合いだ。
「と言っても僕の所為ですね。すみません」
「先生、辞めるって」
聞きたいのは、本当はそこではない。しかしなかなか本題を言い出せない。
「はい。前にも言いましたけど、僕はここの住民ではないですから。他の先生達もあっさりて感じだったでしょう?」
地味に得意気な顔をしたので、やはりこの男自身が何か細工をしていたのだと思う。そうでないといくら何でも担任を受け持つ一教師がこんな簡単に辞職出来る訳が無い。
「それに僕にはやることがあるんです。聞きます?」
「聞きます。何故ですか」
いつもの調子でにやにやとわざとたらしく聞いてきた金城に、かなめは躊躇いも無く即答した。
「…珍しいですね。攻めて来ますね今日は。いきなりだと僕もちょっと準備が」
「そういうんじゃなくて。いつもそうやってはぐらかす。私は先生に聞きたいことがいっぱいあるのに」
「もう先生じゃないですよ。ただの男です」
「“ただの”、じゃないでしょう。今朝のは貴方が見せたんですか。私、少し思い出したんです。私は本当にあの黒猫だった」
「そうです。僕が見せました。貴女は知らないといけない。何もかもを忘れている呪いを解かなければ、また悪夢を繰り返すことになる」
かなめはぞっとした。あの夢の様な記憶は夢ではなく、大昔の現実だった。前世のかなめの身に本当に起きた事なのだ。
同じ過ちを犯して、またあの化け猫の様に嘆き悲しむことになる。何より大事なあの人をまた失ってしまう――。
今となっては何故忘れていたのかただただ腹立たしい。それでもまだ尚思い出した記憶は断片的なのだ。
「教えてくれてありがとうございます。でもまだ全ては思い出せてないんです。それで…」
「うーん。僕は今すごく板挟みになってます。理性と欲望の」
「は?」
「今朝僕がどうやって貴女に記憶を取り戻させたか覚えていますか」
そういえば。
意識を失ってからの記憶の事ばかりで、その直前に起きた事などまったくもって忘れていた。
数秒間悩んでやっとその時の光景を思い出す。
「!!!!」
「そうあからさまに“何の事?”みたいな顔をされると傷つきますね。…つまり、もっと知りたいなら貴女は僕とのさらなる接触が必要であり、唇が触れ合うだけでは全然足りないという訳なんですよね。で、僕は何をしてあげれば良いんでしょうか?」
「な、な、何もしなくていいです―――!!」
珍しく苦笑しながら顎をさすって目を泳がす金城に、かなめは真っ赤になって叫んだ。
車線前に立つ他の乗客が一斉にかなめの方を見る。
「…そういう冗談はやめてさい」
「冗談じゃないんですけど。あ、電車が来ましたよ、かなめさん。行きましょう」
「行きましょう、って。貴方は何処に行くんですか」
「え、貴女の家ですけど?」
「!?」
今、この男は何て言った?
「あの…多分聞き間違いだと思いますけど、いやそうじゃなきゃ困りますけど、今私の家とかなんとか言いました?」
「ええ。僕引っ越したもので。貴女の家の近くに。だから送って行こうと思ってるんですけど」
「ああ、そう言う事ですか……って」
「かなめさんのそういう所すごく面白いですよね。すぐ早とちりする。それとも本当に貴女の家に泊まりに行った方が良かったですか?」
にこにこと小首を傾げて笑う。
もう何から突っ込んだら良いのか解らない。むしろ突っ込んだら負けな気さえして来る。
かなめが溜息を吐いたと同時に電車が目の前に停車した。
大荷物をものともせず、金城は颯爽と電車に乗り込んだ。かなめも慌てて後に続いた。
本当は色々スルーしたかったが、一応聞いておいた。
「何でわざわざあんな遠い所に」
「かなめさんがいるからに決まっているでしょう」
即答だった。
「…あの、そういうのって、私が前世で貴方と知り合いだからですか?昔の好でとか」
今度は返事は無く、金城は無言で荷物を座席の上に並べる。こんな辺鄙な場所でなければ帰宅ラッシュのこの時間帯、座る場所なんか無いくらい乗客が居るのだろうが如何せんここはその辺鄙な場所。他の乗客は少なく、二人の会話は誰に聞かれることも無かった。
不審に思い、少しだけ不安になって後頭部を向けた金城を覗き込む。夕暮れのオレンジの光が金城の色素の薄い癖毛を煌かせる。今朝も同じような光景を見た。あの時は朝日で、見えたのは彼の後ろの首ではなく整った顔だった。
「僕は理性と欲望の間で揺れているんです」
先程と同じ台詞を零した。
俯いたまま、少し開いた足の上に腕を乗せ、両手の指を組む。
彼がそう言った意図が分からない。
ただ何か触れてはいけない様な気がして。いつになく面持ちが真剣に見えて。沈黙が暫く続き、耐えられなくなったかなめは何か言おうと考えを巡らせた。
「駅に着いたら、荷物どれか一つ持ちますから」
「何を言ってるんですか。好きな人にそんなことさせられません」
ゴトン、とひときわ大きな揺れが座席に置いた紙袋を一つ倒した。