12
微かに開けた目に映されたのは天井の白だった。
少しの間ぼーっとそれを眺めていたけれど、急に思考が戻って来てがばっと起き上がる。
「痛っ」
急激に身体を動かしたせいか、頭が鈍く痛んだ。肩に鉛か何かが乗っているのかと思う程身体が重い。まるで熱を出して寝込んだ次の日の様だ。
見るとここは学校の保健室だった。かなめはそのベッドで寝ていたらしい。カーテンが張られていて見えないが養護教員や他の生徒の気配はなく、ここにはかなめ一人だけの様だった。
重い肩を自分の腕で抱く。
夢にしては既視感の強いあの場面場面を思い出し、瞑目する。
思い出した、と言えばそうなのかもしれないし、違うかもしれない。
それでもはっきりと認識してしまう事実。
助けられなかった。
恩人を。何よりも大切な彼女を。
泣いても後悔しても戻らない過去を埋めたくて、来世を願った。
それなのに。
(なのに私はまた―――…)
「川下さん?」
突然ガラッと引き戸が引かれる音がして、名前を呼ばれた。
聞き覚えはある。いつもかなめの次に登校して来る、クラスメイトの佐山だった。
「あ、寝てたらごめん」
「起きてる。大丈夫」
「うわあ、俺起こしたかな」
「ううん。今丁度目が覚めた所」
「そっか。良かった。それにしても大丈夫?朝と昼にも来てみたんだけど川下さん全然起きなくてさ。もう放課後なんだよ」
「えっ?放課後?私ずっと寝てたの」
「うん。朝俺が来た時、珍しく教室開いてないから川下さんどうかしたのかなって思って。職員室行っても誰も先生いないし。あ、先生と言えばさ、」
佐山が興奮気味に話し出した事柄が、かなめの思考をまた停止させた。
.............
保健室から突然飛び出していったかなめを、佐山は驚いて追おうとしたが戻って来た養護教員に事情を聞かれ結局そのままになった。
かなめは学生鞄をめちゃくちゃに肩に掛けたまま走った。職員室の引き戸を盛大な音を立てて引くと、その音と音を出した人物を見た教師達が驚いて一斉にかなめを見た。
「あ、あの…金城先生は」
「あれ、川下さんが遅刻とは珍しいな。今朝の朝礼で言ってたやろう」
「突然な事で皆びっくりしてるけど、仕方の無いことやから。本人の希望をね」
教師達も困惑しているのだろう。かなめが彼の名を出すと話した事のない教師達も次々と話の輪に入って来て悩ましそうに声を落とす。
『金城先生、辞めるんだって』
佐山が残念そうな面白がっている様な興奮気味の声でそう言った。
そう言えば金城は珍しくスーツを着ていたのだった。普段もそれなりに整った格好をしていたが、真夏だということもありラフな格好が多かったというのに、今朝だけは確かにスーツを纏っていた。
「…理由は?」
「うーん。聞いたけど、『他にやることがあるから』って。まあ、珍しいことでもないからな。夢を追うことを選ぶのもそれはそれで良いと思うよ」
「でも引継ぎとかあるじゃないですか。担任ですし。私のクラス、どうなるんですか?」
「それもそれで、なんとかなるだろ~」
「生徒はそんなこと気にしなくていいのよ」
何かが変だ。田舎だから教師がおっとりしていてこんな風に一人の教師が突然辞職してもゆるく対応出来るなんていうことはない。むしろ田舎の方が風当たりは強い。かなめは教師間のドロドロした力関係をなんとなく知っている。いくら人気の爽やか化学教師金城先生でも、こんな急な話で簡単に辞められるはずがない。
それともやはり、『金城先生だから』なのか。
金城の机の方向に目をやると、綺麗に整頓されていた教科書やファイルやプリント類の束、スタンドライト等が全て取り払われて机は何もないまっさらな状態になっていた。
「先生はどこに」
「もう帰ったよ。君はクラスのお別れ会にも出なかったのか?」
「いえ、あの…」
今朝学校に来た時の事を思い出す。
土曜のことに礼を言おうと職員室に入り彼を見つけるなり、話をした。礼はいらないと言われ、そこで微妙なセクハラ発言を受け、それから真剣な瞳がかなめの目を覗き込んでいた。気づけば自分と彼の距離は目と鼻の先になっていて、完全にゼロになって――…
そこで記憶が飛んだ。そしてあの夢を見た。
「失礼しました」
礼をして職員室を出る。教師達はもうそれぞれの残業に取り掛かっていた。
夢の事、金城の事。どちらも思い過ごしや嘘なんかではなかった。
そしてあの夢は“夢”ではなく、確かに自分の記憶の断片だった。
あの猫は確かに自分だと思った。終いには黒い毛を針の様に尖らせて、血の様に赤い双眸を暗闇の中で光らせていたあの猫。
いや、化け猫と言った方がいいかもしれない。無残にも悲しい記憶の中の自分。
少し思い出した前世の記憶。それと金城の正体。この二つは繋がるのかもしれないが、まだそこまでは思い出せない。不確かな憶測もまだ不十分で形が無い。
早足で駅に向かって歩く。
彼がまだ学校にいるとは思えなかった。綺麗さっぱり片付いた机を見たらなんとなく本当に去ったのだと感じた。
会いたい。
金城が恐らく望んでいるであろう意味ではなく。あの記憶の続きを知っているのは彼しかいないのだ。彼に会って聞きたい。すべてを知りたい。
あの声は誰のものだったのか。
『―――条件を呑むならばお前を人間にしてやろう。』
自分はその声の主によって人間にされ生まれ変わったのだろうか。
そしてその条件とは一体何だったのか。
確証はないけれど駅にその答えがある様な予感がして、気づけばかなめは走っていた。