01
基本、人間×人間の話ですが、物語の性質上 動物×人間 の表現が出てくる場合があります。ご注意ください。
夢の中で、私は泣いていた。
何故、どうして。理由はわからないけれど。
“誰か”の為に私は泣いていた。
一人、ぽとぽとと涙を落として。
.............
「おはようございます、川下さん。相変わらず早いんですね」
「お、おはよう…ございます」
教室の鍵は、朝一番に着いた生徒が職員室に取りに行く決まりだった。
音を立てすぎることなく、普通の力で戸を引く。真夏でも、流石にこんな朝早くから冷房を入れる程の非常識な教師はどうやらいないようだ。少なくとも、こんな朝早くには。
出勤していた教師は、ただ一人だった。
「確か、電車の都合だと言っていましたね。始発と乗換えで片道1時間半かかるとか」
「…よく覚えてますね」
男はまるで褒められた犬の様に顔を綻ばせた。少女は別に褒めた訳ではなかったのに。
何が面白いのか、にこにこと笑う男は少女の担任である。
担当は化学。若いくせに、他の年配教師よりも授業が上手いので生徒からの人気は高い。らしい。その上顔もそこそこ良いらしいので、特に女子の評判も高い。のだとか。
休み時間でも常に誰かが傍にいる、絵に描いた様な“爽やかで良い教師”だ。
彼の評判は、通学に片道1時間半かけて高校に通う少女、川下かなめには、あまりピンと来ないものだった。何故なら、この男は少し普通と違うからだ。
他の皆の前では“普通”の“爽やかな”男で通している様だったが、かなめはそうは思わなかった。かなめ自身が捻くれている、そうかもしれないが、それだけではない。
男、金城 晶ははかなめに対してだけ、おかしな態度を取る。
「まあ、お座りなさい。まだ7時半ですよ。眠いでしょう?」
「いえ。教室を開けておかないといけないので」
「じゃあ、僕も一緒に行きます」
「えっ、いや、先生は授業の用意が―…」
「鍵はここですよ。ほら」
にこにこと微笑んだまま、金城は自分の胸ポケットを指差した。
その細いけれどごつごつした男の指で、小さく見える鍵を取り出し弄んだ。
「一緒に行きましょう」
おかしな態度、とは、まあ、そのままの意味である。
これは所謂セクハラというものなのかと思う様な場面が今までに多々あった。
かなめは入学以来、生徒の中では毎朝誰よりも早く学校に着いていた。従って事実上、教室の鍵を開けるのはかなめの係となっていた。それについては別段気にすることはなかった。どちらかというと、朝の誰もいない教室の静けさがかなめには合っていたから。
ただ、職員室に行くと決まって金城が居るのだ。そこで金城はにこにこと、「待っていたよ」と言わんばかりの余裕綽々さでかなめを迎えるのだ。常に。
そして、何かとかなめと共に行動しようとする。いつぞや、かなめは金城がヒヨコに見えた時があった。何故か解らないけれど、無条件に付いて来る。しかしそのイメージはすぐ消した。こんなアヤシイ男が可愛らしいヒヨコな訳がない。
「川下さんて、医学か薬学に興味があるみたいですね。図書室で借りてるのは『有機化学の基礎入門』だとか『RNAの謎』だとかですもんね」
だから、そういうのは何処から得た情報なのだ、という。
まさか本当に尾行けているのだろうか。
無言で引いているかなめに対して、という風ではなく、金城は残念そうに眉を下げる。
「化学は医学の基礎ですよ。川下さん、僕の授業もちゃんと聞いてみて下さい」
嫌です。
と口をついて出そうになったが、寸での所で飲み込んだ。
かなめは基本、学校の勉強は好きだ。授業もきちんと聞く。成績も良い方なので、クラスでは真面目で通っている。所謂、眼鏡でお下げの委員長タイプなのだろうか。眼鏡でもお下げでもないけれど。
金城の授業であっても例外でなく、初めのうちはきちんと聞いていた。確かに評判が良いのも頷ける。金城は話術が得意で、昼下がりの時間帯であるにも関わらず寝ている生徒は皆無だった。並の化学教師では間違いなく全滅の退屈な理系科目でも、あの手この手で生徒達を引き込んで行く。その手腕は素晴らしく、かなめは初めのうちこそ彼を尊敬していた。しかし、その憧れもすぐに消えた。
「私は別にサボってる訳じゃありません。金城先生、着いたので鍵を貸して下さい」
意図的に早足で歩いていたので、教室にはあっという間に着いた。金城と余計な話をしない様にする為だったが、本人は気にする風でもなく飄々とかなめに着いて来ていた。背の高い金城は教室の引き戸の上の桟まで手を伸ばすことが出来る。つまり、その腕で鍵を持ち上げられている。
「いい加減にして下さい。私は早く教室に入って本を読みたいんです」
「電車の中で読んでいた本ですか?また帰りに読めば良いですよ」
「そうじゃなくて。…何故、いつも先生は私の邪魔をするんですか」
「邪魔?ですか」
きょとん、という擬音はこの顔の為にあるのかと思う程、金城は白々しく首を傾げてみせた。まるで思ってもみない、とでも言う様に。
「邪魔なんかしていませんよ。僕はただ、君と話がしたいだけです」
「“生徒”との話なら先生と話したい子達が他に沢山いると思いますから、そうしてください」
「聞こえませんでした?僕は“君”と、話したいと言ったんですが」
何故?
私がクラスで浮いているから?
それが心配、とか?
そうだったら。まだ良いのだけれど。
「君こそ。いい加減にしなさい。僕の話を聞くだけでも聞いて欲しい」
一体何の話が始まるというの。
「川下さん。かなめさん。僕のこと、本当に覚えていないんですね」
突拍子もない話になると思います。