◆1章 それぞれの日常
1.清水亮輔
車内には人の姿はほとんどなかった。
午前11時。
亮輔はこの時間に電車に乗るのは初めてだった。
いつもは朝の通勤ラッシュの時間帯に乗り、満員電車の悪い空気を吸いながら学校に通うのだ。
今日に限ってこの時間に乗っているのにはわけがある。病院に行くためだ。
サッカー部でレギュラーの亮輔は、昨日の試合で倒れた時に手首をひねってしまった。
試合中は気にならなかったが、試合が終わると激しい痛みに襲われ、今日学校を休んで病院に行くことにしたのである。
亮輔はふと鞄から保険証を取り出して眺めた。
家族構成
清水 良子(母)
亮輔(兄)
真由(妹)
……あのクソ親父……。記憶が断片的に蘇る。
一週間に一度しか帰ってこないくせに、帰ってきては酒をあびるように飲み、母さんに暴力をふるう父。
稼いだ金は競馬につぎ込むため、母さんがパートで得た金だけで質素に暮らしていた日々。
亮輔はそれ以上思い出すのが嫌になり、目を窓の外に移した。
無機質な地下鉄の壁がただ右から左に流れるのを見ていると、少しずつ心が落ち着いてゆくのが分かった。
2.小林聡士
「やべーな、早くしないと皆勤賞が……」
聡士はつぶやいた。
中高一貫校に通う聡士は中学1年から高校2年になる今まで一度たりとも休んだことはなかった。
当然ながらこの記録に誇りを持っていた。
しかし、今、その記録に最大の危機が訪れている。
寝坊である。
昨夜、テスト勉強を遅くまでしていたせいか、今朝聡士が起きたのは10時半であった。
この時点で無遅刻無欠席の記録は断たれたのだったが、諦めの悪い聡士は無欠席記録だけは譲れない!とばかりに家を飛び出たのだった。
しかし、悪いことは重なるもので、今日は中間試験で、学校は11時半に終わってしまう。
すなわち、11時半のチャイムまでに校門をくぐれるかが勝負の分かれ目である。
聡士は携帯電話を見た。液晶画面は11時を表示していた。
3.大村空
『もうすぐ着くよ。今から楽しみ♪(^o^)』
「送信!っと」
空は送信ボタンを押した。しかし、
『エラー:電波状況がよくありません。電波状況のよい所でもう一度送り直してください』
「そっか、地下鉄乗ってるんだった」
空はそう言うと携帯電話をしまった。
今日は空の通う高校の創立記念日。
そこで、友達の佳奈と映画を見に行くことにしたのだ。
佳奈とは中学で出会い、今では親友と呼べるくらい仲がいい。
積極的な性格で、しょっちゅう合コンを計画している。
空もいつも誘われるのだが、空は自他共に認める照れ屋で、毎回断っている。
「空かわいいから絶対すぐに彼氏できるのにな〜」
空が断るたびに佳奈はそう言う。
当然空にはいままで彼氏ができたことがなかった。
「まあ、いたところでどうってことないし」
なんて言ってみても、半分は強がりだってことは自分が一番分かっていた。