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篠原兄妹シリーズ

雨乞い同盟

作者: 柏木一木

1.


 チャイムが鳴る十二時四十分より前に、数学の教師である深川は教室から出ていった。

 これで午前中の授業は終わりだ。しかし、大沢と名前を呼ぶ声はおろか、吐息や喧騒すらも聞こえてこない。クラスメイトは誰一人として席から離れることはなく、鞄から取り出した分厚い参考書をにらみつけている。

 高校三年生、それも九月となると、どこの学校でも見られる光景なのだろうか。

 俺は小さく息を吐き出した。

 ――こんなになるんだったら、特推に志願するんじゃなかったな。

 そう心の中でぼやく。もちろん、それは本音ではない。学校が納得するだけの成績を出し続けた結果、同学年で五人もいない特推――特別推薦入学の枠に入ったのだ。それを教室に居場所がないというだけで捨てるわけがなかった。

 いますぐにでも気を張りつめたこの場所から出て行きたいが、チャイムが鳴るまで教室から出てはならないと校則にある。あってないような校則だが、これを破ったが故に推薦が取り消しになっては元も子もない。

 何の気なしに窓の外へ視線を向けた。

 通学している私立浅谷学園は県内屈指の進学校である。国立T大学の進学率が非常に高いといえば、うちの学校のレベルを推し量ることができるだろう。

 その校舎は丘の上に建てられている。いや、小さな山の上のほうが適切か。校庭を取り囲んでいるフェンスの外側は、傾斜の問題で本来あるはずの町並みは見えない。青い空が広がっていた。

 まるで空中庭園ならぬ空中学園だ、と言う人がいるならば、その人は浅谷学園の学生ではない。旅行ならばまだしも、毎日山登りをさせられる人間が広告のキャッチフレーズのように好意的な表現するわけがないのだ。俺たち学生は、学園まで続いている坂を悪意を込めて、地獄坂と呼んでいる。

 とはいえ、実際に地獄坂を歩いて登校しているわけではない。朝は七時から八時二十分の間、駅から学校まで学生専用の大型バスを走っていた。いちいち料金を取られるわけではないので、誰もがバスを使用する。

 しかし、バスに乗り遅れる最後だ。地獄坂は校舎にではなく、地獄へと通じる階段へと変貌する。

 うちの学校では、二回遅刻すると一回欠席したのと同じ意味を持っていた。遅刻を積み重なれば出席日数が足りず、留年が決定する。ただ、プライドがそうさせるのか、留年してまで居残る人間はいなかった。

 もちろん、遅刻のせいで学校を辞めるような生徒はそうはいない。うちの学校に来るのは、勉強一筋の真面目な学生が多いのがその理由だ。数年に一人いれば多い方だろう。

 ただし、その真面目というのが曲者なのだ。

 深夜まで勉強する毎日を繰り返しているため、稀に寝過ごしてしまうことがある。そうなるとバスに乗り遅れ、寝不足と運動不足の身体で地獄坂を走らなければならない。

 その結果、たとえギリギリ遅刻を免れても授業中に意識を失い、病院へ送られ、若くして過労で入院。その間の欠席はきちんとカウントされる。本末転倒とは、このことをいうに違いない。

 まるで冗談のような話だが、実際に何回も救急車を目にしていた。勉強基準法などは存在しない。誰か過労死するような事件が起こり、マスコミや教育委員会が動かない限りは改善することはないのだろう。

 そんな劣悪な環境であっても、親はそれを無視し、浅谷学園へ進学を希望する。子どもは環境の悪さを悲観しながらも、期待に応えるために努力する。学園側は、結果を出しているから現状を変えようとしない。それなのに悪循環にならないのが、まさに喜劇といえようか。

 学園を否定する思考を遮るかのように、時間の番人たるチャイムが鳴った。

 視線を教室に戻すと、チャイムの音が耳に届いていないのか、先ほどと変わらず勉強に勤しんでいる。背伸びをしたあと、邪魔にならないようにゆっくりと席を立った。

「そこにいるのは、大学が決まった大沢敬一くんじゃない」

 廊下に出て、パンを買おうと購買に向かって歩いていたとき、背中からそう呼びかけられた。振り向くと、一年のとき同じクラスだった相田美歩子が手提げ鞄を持って立っていた。

「お久しぶり――って、同じ学校なのにまったく会わなかったというのも不思議な話だねぇ」

「その久しぶり会った人間に、『大学が決まった』なんて嫌みったらしく言うのは、やめた方がいいぞ。ただでさえ嫌われているのに、さらに敵を作るだけだ」

「嫌われ者上等だね」

 俺の悪態に、相田は唇の端をつり上げる。

「大体、嫌っているのって、あたしに告白してこっぴどくフラられた人でしょ。どうでもいい人に嫌われても、ぜーんぜん気にしない」

「同性にも嫌われているのは?」

「嫉妬なんじゃないの」

 彼女はケラケラと笑った。

 そんなことを平気で言える性格が問題なんだ、という台詞が喉から出そうになったが、無駄だと思って止めた。

 しかし、そう言うだけあって、相田は人並み以上の容姿とスタイルの持ち主であった。

 彼女は、女性でありながら一七〇センチを超える長身であり、ファッションショーに出るモデル並にに腰が高く、胸も大きい。目測だが、Dカップはあるのではないだろうか。

 肩胛骨まで伸びた黒い髪は、少しカールがかかっているためか、羽毛のように軽く柔らかそうに見える。だが、同時にかつらをかぶっているような印象を相手に抱かせるのはなぜだろう。

 注意深く見ると、彼女の生え際がうっすらと色素の薄くなっている。脱色したなごりならば、逆に生え際が黒くなっていなければならない。つまり、髪の毛を黒く染めているということだ。

 彫りの深い顔立ちや肌の白さ、そのスタイルなどは、日本人ばなれしている。サバサバした性格から察するに、ハーフで海外で暮らしていた経験があるのかもなのかもしれない。

 そう思っていたのが、同じクラスだった一年生のとき、オーラルコミュニケーションの授業で彼女とペアと組んだことがあった。もし、海外暮らしをしていたのならば、英語が堪能のはずだ。しかし、彼女はリスニングはともかく、リーディングは滅茶苦茶だった。

「そう言う相田は、進路を決めたのか?」

「うん。決まっているよ」

 相田は艶のない髪の毛を掻きあげた。

「大学に行かないで、美容師になる」

 その返答に対して、俺は少し顔をしかめる。そのことに相田は気づいたらしく、すうっと目を細めた。

「なに? こんな勉強勉強という学校にいて、大学に行かないっていうのは馬鹿だって言いたいわけ?」

「そういう訳じゃ……いや、そういうことなんだろうな。なんでうちの学校に進学して大学に行かないのか、俺には正直わからない」

「わからなくて結構。将来を決めた上での行動だからね。大沢みたいに、逃げたわけじゃないから」

 逃げた?

「どういうことだよ」

 意識するより前に、足を一歩踏み出していた。口調も怒気を含んだものであったが、相田は気後れすることなく口を開く。

「よくも悪くもうちの学生だってことだよ。魅力のない男と魅力のない女の集まり。その中でも、大沢は最悪だね。魅力のない人間は魅力のないことを自覚しているけど、アンタはそのことに気づいていない。クズもいいところだ。一度死んで、人生やり直した方がいいんじゃない?」

「相田……自惚れているにもほどがあるぞ」

「ははは、負け犬になに言われても、あたしは気にしなーい」

 知らずに拳を握っていた。衝動に任せて殴ろうかと思ったが、息を深く吐き出し、気を落ち着かせる。

「じゃあな。おまえと話していると、気分が悪くなる」

 この場から去ろうと背を向けると、相田は俺の肩をつかんだ。

「なんだよ」

「そんな負け犬に、いい話があるんだけど」

 俺がどう返してよいのかわからず、無言になっていたのを相田は肯定と取ったらしい。

 彼女は笑みを浮かべて、妙なことを口にした。




2.


 昼の空模様は、大きなひつじ雲が一つ浮かんでいるほかは、澄み切った青空だった。そして今は、頭上には星々が煌めいている。

 どう天気が崩れても、これから厚い雲が空を覆い、雨が降るとは思えない。それなのに、俺は傘を持って、学校へ続く地獄坂を歩いている。

「なんで、こんなところを歩いているんだ?」

 そうぼやきながら、つい先日の昼休みのことを思い出していた。

「大沢、雨、降らしてみたくない?」

「あめ?」

 オウム返しのように答えると、相田は「れいにー」と日本人らしい発音でそう言った。

「雨を降らすってことか?」

「そうそう」

「なんの意味があるんだ?」

「意味のためだよ」

「……はい?」

 まるで、禅問答のような会話だった。

「なに言っているのかわからない」

「わかるように言っていないからね」

 ヒヒヒヒ、と相田は笑った。

「わかりたければ――」

「明日の八時に雨傘を持って学校に来い、か。本気で雨乞いをしようというのか?」

 周りの木々も紅葉し始め、秋の様相を呈していたが、肌にまとわりつく夏の暑さはまだ健在であった。上り坂を一歩踏み出すのにも足が重く、喉が渇いてしょうがない。受験のせいとはいえ、あきらかに運動不足だった。

「なんで、俺は、こんなとこ歩いているんだ?」

 もう一度、同じ言葉を呟いた。

 下心はない。

 相田だってそうだろう。もし、あいつならば、あの場で好意を持っていることをきちんというはずだ。恋愛沙汰にうんざりしている人間が、こんなまどろっこしいことをするとは思えない。

 逆をいえば、ここまでやらせるということは、あの場所では言わない、言っても意味がない、そんな理由があるのだ。

 しかし、その理由とはなんだろうか。考えてもわからなかった。

 そうこうしている内に荘厳な構えの校門を捉える。その脇に人影が立っていた。その人影の方も俺に気づいたらしく、手を振っている。小走りで相手の元へ向かった。

「遅いよ」

 と言った人影は相田だった。制服ではなく、Tシャツにジーパンというラフな格好をしている。

 初めて見た相田の私服姿であったが、気に留めず携帯電話を取り出した。七時五十五分。時間を確認すると約束の時間まで五分も時間の余裕がある。

「遅れてない」

「十分前行動って言うでしょ」

「五分前行動だろ」

 うーん、と相田は首をかしげる。

「間を取って、七分と三十秒行動にしようか。なら、二分遅れている。大沢、遅いぞ」

「ふざけるな」

 この女は、相手をいらつかせるような言葉をわざわざ選んでいるのだろうか。

「冗談だって。んじゃ、行こうか。みんな待っているよ」

「みんなって、ほかに誰がいるんだ?」

「もしかして、二人っきりって思っていたわけ? このスケベ」

「俺は……なんでもない。なに言っても無駄ってことを忘れていた」

「そんなにスレなさんな、と。さあ、登るよ」

 相田は、そう言うと校門に長い足をかけた。

「お、おい。当直の教師とかはいないのか?」

「大丈夫。こんな辺鄙な場所にやってくる人はいないし、盗むようなものがないと思っているんでしょ。それに重要な場所には警備システムをちゃんと用意しているだろうし、ねっ」

 小さく息を吐き出したあと、もし、スカート姿だったら下着が見えたのにと、心にもないことを思いながら、彼女の姿を追った。

 学園の敷地を両足に立って、周りを見渡す。夜の学園にやってきたのは初めてだった。見慣れているはずの光景が妙に新鮮に見える。

「なーに、ぼけっとしているのよ」

 人が感慨にふけっているを邪魔するように、相田は俺の背中を押した。しょうがなく、押されるまま身を委ねる。

 どうやら、彼女は校庭へ向かわせたいらしい。

 うちの校庭は、山の上に建っているせいか、ネコの額のような広さしかない。学園側が運動に力を入れていないのもあるのだろう。部活動はまったく盛んではなく、どこも一回戦敗退の体たらくだ。

 その狭い校庭の方から話し声が聞こえてきた。その様子から察するに数人はいるようだ。

 周りに灯りがないため、性別など詳しいことはわからないが、彼らは車座をつくり、傘を差しているのは見える。UFOか幽霊を喚ぶ儀式と言われても納得できそうな異様な光景だ。

「ちーす。新しい仲間を連れてきたよー」

「早く来いよ。早くしないと雨が降ってくるぞ」

 その集団に向かって相田が叫ぶと、思いの外元気な返事がきた。

 まるで、今すぐにも雨音が聞こえてくるような言いぐさであったが、先ほどとなんら変わらない星空が広がっている。

 まさか、これから本気で雨を降らそうとしているのだろうか。

 そう訝しみながら車座に近づくと、眼鏡をかけた男が一人が立ち上がった。

「初めまして、僕たちは君を歓迎するよ」

 男は笑みを浮かべて、右手を差し出した。座っていたときは気づかなかったが、向かい合うように立つと彼は身長が高かった。

 一八〇センチはあるだろうか。背の高い人間に見下ろされているせいか、少し威圧的なものを感じる。少し逡巡したが、なにかされるわけではない。彼に倣って手を差し出し、そして握った。

「友愛を込めて、まずは自己紹介。人に訊ねる前は自分から、というわけで僕から言おうか。僕の名前は、篠原雄一。好きな食べ物はタマネギとナス。趣味は暇つぶし、かな」

 初めて見る顔であったが、篠原雄一という名前には聞き覚えがあった。

「もしかして、あの篠原――さんですか?」

「あのっていうのが、留年したってことを指しているなら、その通りだよ」

 大して気にせずに、篠原さんはそう言った。

 篠原雄一。彼は数年に一度に現れる、遅刻が理由で出席日数が足りなくなった愚かな学生ではない。高校一年生のときに交通事故に遭い、やむを得ず二度目の一年生を繰り返してしまった、その年に主席入学をした学生だった。

 頭がよいことは、うちの学園に主席入学できたことで証明されている。大学検定試験に受験すれば必ず受かるだろう。

 そうすれば、一年間を不意にすることもなく、今年大学生になっていたはずだ。

 しかし、彼は学校に残ることを選んだ。

 その理由は誰にも見当がつかなかったし、理解できなかった。そのため、何を考えているのかわからない、変人と陰では囁かれている。

 俺は、篠原さんとは同じクラスになったことがなく、一度も話したこともなければ、顔をつき合わせたこともなかった。あったとしても廊下ですれ違った程度だろう。

 自分の自己紹介をしながら、変人と呼ばれている篠原さんを見る。

 相田と隣り合って立っていれば、お似合いのカップルに見えなくもない。といっても、身長だけを取ってみればだが。

 篠原さんはポロシャツをズボンに入れ、レンズの厚い黒縁眼鏡に手入れもしない髪と、学園の大多数を占める冴えない男子生徒のようだ。多少、身なりを整えれば十分見られる容姿をしているが、興味がないのだろう。俺も似たような格好をしているので、人のことをいえないのだが。

 篠原さんと俺のことが端を発して、他の人も自己紹介を始めた。全員を知っているわけではなかったが、聞いたことのある名前が多い。実力力テストの上位にいるような人たちだ。

 俺のように推薦が決まっているわけではない。センター試験の検定料の納付はすでに始まっている関係からか、より一層勉強に身が入るころだ。それは、クラスの様子を見れば一目瞭然である。

 しかし、ここに集まっている人たちは、そんなことを歯牙にもかけていないようだ。その表情には笑みを浮かんでおり、受験を忘れて楽しんでいるようにしか見えない。

 久しく感じていなかった学生らしい空気なのだが、夜中の校庭という舞台は似つかわしくない。それでも、雨乞いをしようと集まっているのだ。

「さて、自己紹介を終わったということで、初めての人もいることだし、この集まりの簡単なルールを説明しようかな。傘を差すこと。人に迷惑をかけないこと、以上。これで終わり」

「え?」

 思わず、篠原さんのことを見た。

「それだけなんですか? てっきり、手をつないで歌いながら、踊るものかと思っていましたよ」

「マイムマイムかい? たしかに、あれは水に関係しているけど、僕たちはそんなことをしないよ」

 篠原さんはにっこり笑った。

「さっき説明したとおり、とくに何もしない。傘を差す以外にはね」

 釈然としなかったが、主催者――発言の主導を握っているからそうなのだろう――の意見に逆らってもしょうがない。これ以上の追従を止めた。

「じゃ、雨を降らそうか」




3.


「結局、あれはなんなんだ?」

 その問いに対し、目の前に座っていた相田は、お茶が入ったペットボトルから唇を離した。

「なにって、雨乞いだよ」

「あれが、雨乞い? なにもしていないじゃないか」

「なにもしないのが、雨乞いなんだよ」

 あのあと、俺たちは一時間ほど雑談しただけで解散した。もちろん、その間に雨が降ってくることはなかった。

 他の人たちは満足そうに校庭を後にしたが、最初に感じた釈然した思いが俺の心から離れることはなかった。

 ――あんたたちは何をしようとしているんだ?

 ――なんか意味があるっていうのか?

 自室のベッドに寝ころびながら、そのことを考えていたのだが、何もわからなかった。

 次の日の昼休み、廊下を歩いていた相田を捕まえ、こうして話を聞こうとしているのだが、半ば予想通り彼女はのらりくらりと応えるだけだった。

「もっと、具体的なことを言ってくれないか。なんで雨を降らさなきゃいけないんだ? 雨を降らすなら降らすで、なんでなにもしないんだ? ただ喋っているだけなら、やらなくても同じだろう」

「本当にわかっていないねー」

 相田はバカにしたように顎を上げ、見下すような視線を俺に送った。

「あの場にいたのにわからないなら、説明してもわからないよ」

「そういうなら、まず説明してみろ。それでも理解できないのならば自分がバカだと納得しよう。しかし、説明しなければ、本当に理解できないのだってわからないだろ。さあ、どうなんだ」

 自分がムキになっていたのはわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。

 しかし、相田は笑みを浮かべ、

「太陽を見つけたら天の邪鬼に傘を差そう。

 雨音が聞こえたら傘を閉じて打たれよう。

 厚い雲が覆ってる曇りの日はどうしよう。

 曇りの日はどうしよう――かね? それがわかれば、答えは出ているよ」

 前半はまるで詠うように、後半は問いかけるようなことを言って走り出した。

「ああ、それと同じ曜日にまたやるから、気になったら参加してよ。でも、雨天中止だから気をつけてね」

 そして、彼女は目の前からいなくなった。

「わけがわからない」

 取り残された俺は、購買で買ってきたやきそばパンをかじる。添えてあった紅ショウガが床に落ちた。




4.


 ――また、来てしまった。

 そう心の中で呟いた。

 今日も星空が広がっており、雨が降る気配は欠片もない。それなのに、目の前では、傘を差した人たちが楽しそうに会話をしている。俺は、他の人と話している篠原さんに近づいた。

「ちょっといいですか?」

「ちょっとというのは、何秒かな?」

 意地悪そうに篠原さんは応える。

「二人きりで話をしたいので、俺に時間をください」

「告白をするつもり?」

「なら、しばらく身体を貸してくれませんか?」

「やっぱり、大沢くんは男色家なのかい?」

 相田と同じく、この人もまともに話をする気がないのだろうか。

「冗談だよ。そんなに怒らなくたっていいじゃないか」

 どうやら、俺の顔はそうとう険しいものとなっていたようだ。

 わかったことだが、相田にしても篠原さんにしても、遠回しでは会話を明後日の方向に持って行きたがる、そんな性質があるらしい。ならば、直接訊いた方が早い。

「本当に、雨を降らす気ですか?」

「そうだよ」

 さも当然のように篠原さんは言った。そう返ってくるだろうと予想していた俺は、矢次に別の質問を訊ねる。

「しかし、どうやって?」

「一つ質問をしよう。大沢くん、君は、努力しなければ夢は叶わないと思うかい?」

「そうですね」

 気を落ち着かせるために、息を吸う。

「努力をしなければ叶わないでしょう。楽をして夢が叶うほど世間は甘いとは思いません。でもそれが――」

 質問に質問で返されたので、話題を修正しようとしたが、かぶせるように篠原さんは喋り始める。

「宝くじを買い、当選日に調べてみると、なんと一等が当たった。連番で買ったので前後賞も君のものだ。そのお金で、夢であったお店を開くことができた。それは、努力した結果なのかな?」

「……なにを、言いたいのですか?」

「努力をしなくても、夢を叶えることができる。努力をしなければ絶対いけないってわけじゃない、という証明さ。これをなんて言うか知ってる?」

「……奇跡?」

「たんなる偶然」

 また禅問答ような会話になった。最近では、相田と篠原さんとくらいしか話していないのに、その二人と会話として成り立っていない。もしかしたら、俺に問題があるのだろうか。

「そんな、たんなる偶然を僕たちは夢想する。だって、そうだろう? 誰だって努力をしたくないし、楽をしたい。この集まりは、それを叶えるための場なんだ」

「……?」

 新興宗教――その言葉がまず浮かんだ。

「と言っても、別に新興宗教ってわけじゃないからね」

 すぐに笑って否定された。

「雨を降らすというのは、比喩的なものなんだよ。自然を人間がどう願っても自由に動かすことはできない。でも、『あー雨降らないかなー』と思ったときに、たまたま雨が降ることもありえる。その程度のものだ。その程度のものでも、僕たちは期待したい。努力しなければならないという現実から逃げ出したいんだ」

「つまり、ガス抜きの場ということですか」

 初めからわかっていたことだった。勉強しなければならないときに、こうやって集まっているというのは、現実逃避でしかない。

 でも、俺がここに来なきゃならない意味というのはなんなんだ? もう受験が終わった身である。逃避することがない。逃避する必要がないはずだ。それなのに、なぜ相田はここにつれてきたのだ。

「さて、ご察しのとおり、大沢くんはこの中の人間とは事情が異なっている。すでに推薦入学が決まり、暇を持て余しているだけだしね。それなのに、美歩子くんに連れてこられた理由。それは一体なんだろう」

「わかりません」

「速攻で答えるね。少しは考えなきゃだめだよ」

「この一週間考えていましたから」

 篠原さんは、少し呆れたような表情を浮かべたが、そう答えると納得したらしい。

「そう。なら別の方向から攻めていこうか。美歩子くんの将来の夢を知っているかい?」

「美容師になるっていうことだけは聞いていますけど」

「なぜ、その道を選んだか知っているかい?」

「好きだから美容師になるんじゃないですか?」

「君はだから、美歩子くんに人生を後ろ向きに爆走するダメダメくんと言われてしまうんだよ」

 そこまで言われたことがないのだが、裏ではそんな会話をしているのか。なんて女だ。

「君は、美歩子くんの髪の色が普通の人と異なっていることは知っているだろう。正直、彼女はわざわざ髪を染めなければならないことに、うんざりしていた。だから、髪の色をとやかく言われてない職種を選んだ。もちろん、好きだからなんだけどね。君もそこまでは考えたんじゃないかな」

「なになに? もしかして、あたしの話をしているのかな?」

 と突然、相田が話しに割り込んできた。

「そうだ」

 はっきりそう言うと、彼女は呆れたらしく、ため息を吐いた。

「少しは否定しなよ。陰で人の話をするなんて、あまり気持ちいいものじゃないし」

「大沢くん改造計画の流れでそうなったんだよ」

「あーなるほど」

 篠原さんがそう言うと、相田は納得したようにうなずいた。

 しかし、なんだ、その改造計画っていうのは。それにすぐに納得するということは、あらかじめ打ち合わせしていたものなのだろうか。

「どこまで話したの? 大沢がクズだとか、大沢が後ろ向きに爆走しているとか、そのへん?」

「……本当に、そう言っていたんだな」

「なに?」

「なんでもない」

 相田は少し釈然としない表情を作ったが、すぐに元に戻った。

「今は、美歩子くんの将来設計の話をしていたんだよ。本人が来たことだし、本人の口から語ってもらおうかな」

「オッケー。あたしの夢だね。第一候補はキャリアウーマンでした!」

 ――ん? どういうことだ?

「あたしのお母さんがそうなんだよね。OL。でも、バカにしたもんじゃないんだよ。サラリーマンって。大きな会社の社長になれば、スポーツ選手とかよりもお金を貰えるようになる。ま、お金だけじゃないんだけどね。とにかく、お母さんはバリバリ働いて働きまくっている、そんな人でした。その姿にあこがれたから、キャリアウーマンになりたかった、と」

「なら、どうして」

 ――まっすぐにその道を歩まなかったんだ? と言い切る前に、相田は言葉を被せた。

「頭を働かせろよ、バーカ。訊けば答えると思っているん? だめだよ、そんな考え方じゃ。自分で考えて自分で答えを出す。これが重要なり」

 そう言われては考えないわけにもいかない。

 まずは状況を整理してみよう。彼女は美容師の道を選んだ。それは、髪の色が問題だった。彼女は母親と同じキャリアウーマンになりたかった。しかし、なろうとしなかった。

 いや、なれないと思ったから、諦めたのではないだろうか。それはなぜか。ここまでわかれば、答えを出すのは簡単だった。

 髪の色が、彼女の道を否定したのだ。

 日本という国は、まずは見た目から人の価値を決める。たぶん単一民族だからだろう。多少差違があったとしても、アメリカのように肌や髪の色、言語など多種多様あるわけではない。慣れていないのだ。

 金髪の女性と黒い髪の女性、どちらが真面目に見えるのか、と訊かれれば、多くの日本人は後者を選ぶに違いない。

 その選択は決して正しいとはいえない。人の価値とは内面が重要視されなければならないからだ。しかしまだ、日本人は日本人らしい価値観で人を選ぶ。

「相田。キャリアウーマンになりたいというのは、絶対なりたかったのか?」

 俺がそう訊ねると、相田は唇だけで笑みを作った。

「絶対じゃなかったよ」

「そうか」

 美容師の道を選んだのは、現実を知り、見据えた上での行動だった。もちろん、このまま無理して大学に行き、キャリアウーマンになれないのか、といえば、そうではない。

 しかし、何が何でもなりたいわけではなかったら、別の夢を選ぶ。確実とまでいわなくても、自分が納得できる道を確率論で。

「はい、ここでストップ」

 篠原さんは、手に持った傘を俺に向けた。

「この続きは、また来週。ラストシーンは、ラストシーンにふさわしい舞台でないと」

 これには、相田も意味がわからなかったらしい。二人で顔を合わせて、疑問符を浮かべた。

「次回、雨が降るよ」

 まるで百パーセントはずれる予言者のように、篠原さんは断言的にそう言った。




5.


 学園がある山の麓までたどり着いた。ここからでは校舎は見えない。

 地獄坂を登る。常夜灯には羽虫が群がっている。それが広い間隔で建てられているせいで世界が暗い。道の脇に生えた木々が、煌々と光を発する建築物を隠しているので、なお一層そう感じる。

 手に持った傘の感触を確かめるように強く握りしめ、空を見上げる。

 家を出るときに確認した天気予報で降水確率○パーセント言っていたとおりに、満天の星空が広がっていた。

 秋初めは日本に大小様々の台風が来訪してくるというのに、俺たちが学校に集まる曜日はルーレットのジャックポッドを当てるが如く、晴れの日ばかりだった。

 今日もいつものように雨も降らないのだろう。いつものように意味もなく傘を差して、会話をしただけで終わるに違いない。

 しかし、篠原さんの言葉が気にかかる。

 ――次回、雨が降るよ。

 あれは言葉の綾なのだろうか。いくら考えても、わからなかった。

 上り坂が緩やかになり、校舎が姿を現した。校門まで登り校庭に向かうが、まだ誰もいなかった。七時四十分。どうやら、少し早く来てしまったらしい。

 腰を下ろし傘を差して人を待つ。次第に人が集まってきた。その人たちに軽く会釈したあと、とりとめのない会話をする。相田が元気よくやって来たので、携帯電話で時間を確認。七時五十五分。

「十分前行動っていうのはどうしたんだ」

「人の揚げ足をとってなにが楽しいん?」

 と相田は悪びれもなくそういったあと、小さく舌を出した。

「そういえば」

 きょろきょろと相田は周りを見渡した。

「篠原さんはまだ来ていないね」

「いつもは、もう来ているんだけどな。どうしたんだろう」

「また事故にあったのかな?」

「物騒なことをいうなよ」

 そんな軽口を叩き合っていたが、篠原さんは約束の八時になってもやってこなかった。

「みんなーどうしよっか」

 相田が叫ぶ。

「んまー、強制参加ってわけじゃないから、別に篠原さんがいなくても始めちゃっていいんじゃないか」

「そうだね。だったら始めちゃおうか。それじゃー、雨を降らしましょうか」

 彼女はそう言って、傘を空に掲げる。

 そして、篠原さんのいない雨乞いは始まった。


「本当にどうしたんだろう。篠原さん。彼がいないと、この前の続きができないんだけど」

「いなくてもできるってことじゃない。篠原さんは、大沢を見捨てるほど無責任じゃないし。まー見捨てたっていい気がしないでもないけどね」

「なんだよ、それ。俺はそんなにだめ人間なのか?」

 思わず呟くと、相田はすごい勢いで頷いた。

「あのな」

「この場所に集まった人には、三種類の人間がいます。さて、それはいったいなんでしょうか」

 彼女はそう言いながら、指を三本立てた。

「三種類? 篠原さんと受験から逃避している人、あとは受験より先をみている相田みたいな人じゃないかな」

「ブー。違う違う。それだと、自分のことを忘れているじゃん」

「なら、四種類っていうのが正しいんじゃないか?」

「それがわかっていないっていうんだよ」

 絶対に三種類と、相田は三本指を立てた手を俺の鼻っ面まで近づけた。

「篠原さんと俺とそのほかっていうことなのか。消去法だと、それしかないんだけど」

「それが正解」

 それはないと思っていたので、少し慌てた。

「ちょ、ちょっと待てよ。なんでそうなるんだ」

「だから訊くなって。自分で考えろよ」

 しょうがない。また頭を働かせることにした。

 しかし、どんなに考えてもわからなかった。そのことを正直に言うと、相田は深くため息を吐く。

「ま、しょうがないのかな。自分でわかるようなら、そもそもこんな場所に連れてくる必要なかったし」

 手に持った傘をくるくる回し始めた。

「じゃーさ。努力ってなんだと思う?」

「なにかを成し遂げるための行為」

「違うよ」

「は?」

「努力なんて、とても打算的なものだよ。努力しなければならないことを知っている人は、なにを努力しなければならないということも知っている。つまり、必要不必要を選んでいるっていうわけ。わかるでしょ。三教科受験をするのに、習った教科すべてを勉強する人はいない。センター試験を受験するのに、苦手な教科を完全に捨てる人はいないようにね」

「…………」

「ここに集まっている人は、自分のこと以外のことを打算的に考えている人。自分のことだけを打算的に考えている人。そして、自分のことも考えていないだめ人間の三種類がいるっていうわけ。一つ訊いてもいい? 大沢は、なんかやりたいことがあるの? ないでしょ」

「……ない」

 なにもない。

 将来のことをまだ考えたくなかった。毎日毎日勉強するのもいやだった。親の小言を聞くのもいやだった。だから、別に行きたくもない大学の推薦入学を志願した。

 それが逃げているというなら、そうなのだろう。

 それのなにが悪いんだ!

「いまこの場所に集まっている奴らと何が違うんだ? 今もこうやって、みんな、受験から逃げているじゃないか! 俺とあいつらは同じだ。大学に受かれば、俺よりもいい大学に行くかもしれない。しかし、その大学へ行って、なにかしたいというわけじゃない。将来を決めて、大学に行く奴なんてそうはいないだろう。なら同じだ。同じだろう!」

「ちがうよ」

 それを言ったのは相田ではなかった。いつ来たのか、篠原さんが俺の横に立っていた。

「少し、遅れてしまったようだね。ちょっと、妹がへんなことに巻き込まれてしまったみたいで、その後始末をしていたんだ」

 彼はにっこり笑って傘を広げた。その傘は、なぜか白い日傘だった。

「もうそろそろだ」

「なにが――」

 すると、何かが傘を軽く叩いた。顔を上げると、先ほどまで星がキラキラ光っていたのに、今はいっさい見えなくなっている。

 雨が、降っていた。

「どうして、気づかなかったんだ?」

「差していた傘が邪魔して、空を見えなくしていたんじゃないかな?」

「それにしたって――」

「それは、それということで。さあ、僕たちのお祭りも終わりだよ。僕たちは雨を降らそうとしていた。もう雨が降ってしまった。つまり、解散ということだ」

 雨音が激しくなる。皆、空を見上げていた。

 篠原さんは集まった全員に聞こえるように大声をあげる。

「僕たちは雨乞いという奇跡を起こしてしまった。奇跡はそう簡単に起こるものではない。ならば、奇跡には頼らず進むべき道を歩もう。だから、この会合は終わりだ。これからは、晴れの日には傘を閉じ、雨の日に傘を差そう。自分の未来をつかむために!」

 集まった人たちが、呼応するように大声をあげる。そして、持っていた傘を放り投げた。

 その光景は、相田が詠ったことを思い出した。


 ――太陽を見つけたら天の邪鬼に傘を差そう

 ――雨音が聞こえたら傘を閉じて打たれよう


 それは、現実に対しての最後の抵抗なのだろう。


 ――厚い雲が覆っている曇りの日はどうしよう


 これが答えと相田は言った。

 曇りとは、なにも選んでいない中途半端な俺のことだ。受験という現実から逃げたくせに、未来を見ているわけじゃない。

 どうしようもない。それが俺だ。

 しかし、まだ人生が終わったわけじゃない。人生の岐路は、これから先、何度も立たされることになるに違いない。一度は選択肢を放棄したが、今度はきちんと選ぶのだ。

 どうしよう、と訊かれたら、こう答えよう。

 雲を吹き飛ばして、晴れにする。

 雲を集めて、雨を降らす。

 荒唐無稽な返答だけど、そう言おう。

 俺も持っていた傘を放り投げた。


 みんな、濡れ鼠になっていたが、楽しそうに笑っている。

 その中で、俺も笑っていた。

 読んでくれてありがとうございます。

 最後のラストシーンを書きたくて、書いてみたらこんな話になりました。

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