息子の婚約破棄の詫びに参りましたら、「奥様の謝罪は、もう受け取りません」と言われました
王都に一軒、わたくしの顔を見ただけで、詫びの箱を出してくる菓子屋があります。
リュエンヌ河岸のその店は、朝の七時に鎧戸を上げます。わたくしが馬車を降りたのは七時を少し過ぎたころで、店主は何も言わずに奥へ入り、白い紙箱を一つ持って出てきました。中身は菫の砂糖漬け。蓋に銀の型押し、細い白のリボン。
「今年も、もう三つ目でございますね、奥様」
わたくしは微笑んで代金を払いました。
ヴァロワールでは、詫びに行く者はこの白い箱を持っていきます。相手が箱を受け取れば、詫びを受けたしるしになります。
三つ目。一つ目は正月、夫が宮廷で外務卿の奥方の香水を「葬式の百合のようだ」と言ったとき。二つ目は先月、息子が学院の剣術の稽古で、相手の子爵家の御子息の眉を切ったとき。
そして今朝のこれは、昨夜のぶんです。
昨夜、王立学院の卒業の舞踏会で、息子のテオフィルは三百人の前で婚約者の手を振り払い、こう叫びました。
「いつも人を憐れむ目で見る女とは、結婚しない。婚約は破棄する」
わたくしは壁際の椅子にいて、楽隊の弓が止まる音を聞きました。
フォンタニエ伯爵家の客間には、朝の光がよく入ります。
わたくしを迎えたのは、マリエット様お一人でした。伯爵も伯爵夫人も、姿を見せません。十八の娘が、舞踏会の翌朝に、一人で客の前に座っている。それだけで、わたくしには用向きの重さが分かりました。
マリエット様は淡い青の昼の服に着替えて、髪をきちんと結っていらっしゃいました。目もとだけが、少し腫れていました。
わたくしは膝の上の箱を、卓の上へ滑らせました。二十年、何度もしてきた手つきです。箱の向きは、リボンの結び目が相手の右手に来るように。
「このたびは、愚息がまことに申し訳のないことをいたしました。昨夜の言葉は、ヴァルブランの家として、すべて取り消させていただきとう存じます。どうかお怒りをお鎮めくださいますよう」
口上は、噛みませんでした。噛んだことは、一度もありません。
マリエット様は、箱を見ました。手は膝の上に重ねたまま、動きませんでした。
「テオフィル様のお母様」
この方は、八つのころからわたくしをそう呼びます。
「奥様に謝っていただくのは、これで十三度目です」
わたくしは、微笑んだままでいました。
「ご子息からは、一度も」
窓の外で、鳩が羽を鳴らして飛びました。
「八つのとき、噴水に突き落とされたときも。十二のとき、誕生日の贈り物をお忘れになったときも。いつも奥様が、この箱を持っていらっしゃいました。ですから今日は、いただきません」
「マリエット様、それは」
「七日のうちに、テオフィル様ご本人が、ご自分の口で仰ってください。そうでなければ、父は七日目の朝、高等法院へ訴状を出します。父はもう、書きあがった訴状を書斎の机に置いております」
人前で一方的に婚約を破棄すれば、相手の家の名誉を傷つけたとして法院に訴えられることがあります。訴えられれば、学院を出たばかりのテオフィルの名が最初に載る公の書き物は、法院の記録になります。
卓の端に、小さな硝子の瓶がありました。両家の香水を一滴ずつ混ぜて調香させた、婚約の香りです。婚約を解けば、贈り物は返すのが決まりです。
「それも、お返しいただけるのでしょうか」
わたくしが手を伸ばしかけると、マリエット様は瓶をそっとご自分の側へ引きました。
「これは、ご本人に取りに来ていただきたいのです」
声は静かでした。最後まで、一度も高くなりませんでした。
帰りの馬車で、わたくしは膝の上の白い箱を見ていました。
リボンは結ばれたままです。蓋の銀の型押しに、窓の光が滑っていきます。
二十年、この箱は、わたくしの手を離れたら戻ってきたことがありませんでした。
石畳で車輪が跳ね、箱の中で砂糖漬けが小さく鳴りました。わたくしは、箱が膝から落ちないように、両手で押さえました。
*
夫のジェラールは、朝食の間で『シャンテル新報』を広げていました。
わたくしが戻ったことは、銀の珈琲ポットに映ったのでしょう。夫は紙面から目を上げずに言いました。
「済んだか」
「受け取っていただけませんでした」
新報の端が、少し下がりました。
「箱をか」
「はい。七日のうちにテオフィルが自分で謝らなければ、伯爵は訴状を出すそうです」
夫は新報を畳み、卓に置きました。それから、焼き菓子を一つ取って二つに割りました。
「娘のわがままだ。七日もあれば片がつく」
「どのように」
「人前の恥は、同じだけ人の集まる場で、家の者が詫びの礼をすれば、法院は取り上げない。誰が詫びてもいい。決まりはそうなっている」
知っています。わたくしは、二十年その決まりの中で生きてきたのですから。
「六日目に、デュランベール侯爵夫人のサロンがある。あそこなら百人は来る。そこで、お前がやれ」
夫は割った焼き菓子の片方を口に入れ、ついでのように付け足しました。
「ついでに、外務卿の奥方にも、いつものように一言添えておけ」
テオフィルの部屋の扉は、ノックを三度しても開きませんでした。四度目に、内側から声がしました。
「母上が行けばいいでしょう」
「今度は、あなたでなければいけないそうです」
「いつもそうだったじゃないですか。母上が行けば、それで済んだ」
扉の向こうで、寝台の軋む音がしました。
「僕が行ったって、あの人は、またあの目で僕を見るだけです」
「あの目とは」
返事はありませんでした。
わたくしは扉の把手に手をかけて、それから離しました。
その日の午後、わたくしはもう一度フォンタニエ家へ行きました。
今度は伯爵夫人に会うためです。エミリエンヌとは、王立学院で同じ組でした。十五の春、二人で回廊の噴水に硬貨を投げて、いい縁談が来ますようにと願ったこともあります。
娘の頭越しに、母どうしで話をつける。わたくしは二十年、そうやって物事を収めてきました。
エミリエンヌは自分の居間にわたくしを通し、侍女を下がらせました。わたくしが口を開く前に、彼女は立って、窓辺の裁縫箱を持ってきました。
蓋を開けると、白いリボンが入っていました。
細い絹のリボンが、巻いて、一本ずつ糸で留めてあります。
「十二本」
エミリエンヌが言いました。
「マリエットがとっておいたの。あなたが箱を持ってくるたびに、あの子がほどいて、巻いて、しまってきた」
わたくしは一本を手に取りました。留め糸に、小さな字で日付が書いてあります。星暦一一三二年、夏。婚約の宴の日。テオフィルが八つで、マリエット様を噴水に突き落とした日です。
次の一本は、その年の冬。馬車の扉で指を挟ませた日。その次は、誕生日の贈り物を忘れた日。学院の廊下で、皆の前で「地味な女」と言った日。
どれも、わたくしは覚えていました。箱を抱えて、この家の門をくぐった日です。
テオフィルがこの家の門をくぐった日は、一つもありませんでした。
「ねえ、オノリーヌ」
エミリエンヌは、わたくしを名で呼びました。学院を出てから、この人に名で呼ばれたのは久しぶりでした。
「あなたが箱を持ってくるたび、あの子は受け取るしかなかったのよ。侯爵夫人のお詫びを断れる伯爵家の娘なんて、この王都のどこにいるの」
わたくしは、リボンを裁縫箱に戻しました。指が、留め糸の結び目をうまく撫でられませんでした。
「あの子は十年、許さないという自由を、一度も持てなかった。だから昨夜、泣きもしないで帰ってきて、朝になったら一人で客間に座っていたの。初めて、自分で決められると思ったのでしょうね」
エミリエンヌは裁縫箱の蓋を閉めました。
「テオフィルが来たことは、一度もないわ」
帰り道、わたくしは馬車を途中で降り、河岸を歩きました。
数え直していたのです。十二本のリボン。夫のぶんの白い箱は、その何倍あったでしょう。外務卿の奥方、侍従長のご夫人、王妃様付きの女官たち。わたくしは誰の前でも、上手に頭を下げました。王都で一番、詫びのうまい奥方。陰で何と呼ばれているかも、薄々は知っていました。
あの子は、自分で謝ったことがない。謝り方を知らない。
知らないのは、わたくしが一度も、謝らせなかったからです。
マリエット様は、十年、許すしかなかった。
菓子屋の前を通りかかると、店主が鎧戸の内から会釈しました。わたくしは会釈を返し、店に入らずに通り過ぎました。
もう、代わりには謝らない。
そう決めたとき、河の風が冷たくて、外套の前を合わせました。
*
三日目の晩、わたくしはテオフィルに言いました。
「明日、フォンタニエ家へ参ります。わたくしは謝りません。あなたが行くのです」
息子は夕食の皿から顔を上げ、父親の席を見ました。夫は宮廷の宿直で、その晩はいませんでした。
「母上は、ついてくるんですか」
「門までは」
四日目の朝、二人で馬車に乗りました。
テオフィルは窓の外ばかり見ていました。十八にもなって、膝の上で手袋の指を一本ずつ引っぱる癖は、八つのころと変わりません。
フォンタニエ家の門の前で馬車を降り、わたくしは三歩うしろに下がりました。
門柱の脇に、呼び鈴の紐が下がっています。テオフィルはその紐に手をかけました。
かけたまま、動きませんでした。
朝の通りを、牛乳売りの荷車が通っていきました。車輪の音が遠ざかって、また静かになりました。テオフィルの肩が、上がって、下がりました。紐を握った手の甲に、筋が浮いていました。
わたくしは、自分の右手がもう前へ出かかっているのに気づきました。紐を代わりに引いて、門をくぐって、いつもの口上を述べる手です。わたくしはその手を、左手で押さえました。
テオフィルが紐を放しました。
振り向かずに、通りを走っていきました。学院の礼服の裾が、角を曲がって見えなくなりました。
わたくしは門の前に一人で立っていました。中へは入りませんでした。
馬車へ戻りかけたとき、二階の窓のカーテンが一度だけ揺れました。風はありませんでした。
その日の夕方に出た『シャンテル新報』には、風刺画が載りました。
額が床につくほど深く頭を下げた貴婦人。その膨らんだスカートの陰に、礼服の少年と、勲章をつけた男が並んで隠れている。絵の下には一行。
――ヴァルブラン家の詫びは、いつも奥方の膝で。
わたくしはその絵を、居間で、しばらく眺めていました。よく似ていました。髪の結い方まで。
世間は、ずっと知っていたのです。知っていて、白い箱を受け取ってきた。
夫は宿直から戻るなり、新報を暖炉に投げ入れました。紙が丸まり、絵の貴婦人の頭から燃えました。
「明後日だ」
夫は声を上げませんでした。怒るときほど声を低くする人です。
「デュランベール侯爵夫人には、もう触れを出してある。ヴァルブラン侯爵夫人が、フォンタニエ家に詫びの礼をすると。やらぬなら、お前を領地へ下がらせる。侯爵家の女主人は、詫びるのが務めだ」
暖炉の中で、勲章の男の絵が黒くなっていきました。夫はそちらを一度も見ませんでした。
その晩、テオフィルの部屋の扉は、ノック一つで開きました。
息子は寝台の端に座り、学院の礼服を着たままでした。朝、走って帰ってきて、そのまま脱いでいなかったのでしょう。
わたくしは扉を閉め、部屋の椅子に腰をおろしました。しばらく、どちらも何も言いませんでした。
「あの人は」
先に口を開いたのは、テオフィルでした。
「八つのときから、母上が謝るたびに、僕をああいう目で見たんです。可哀想な子を見る目で。母上の後ろから、僕はいつもそれを見ていた」
息子は床を見ていました。
「十年、ずっとです。何をしても、母上が謝って、あの人が許して、僕は何もしなかった。何もさせてもらえなかった。一度くらい、僕が決めたかった。だから、皆の前で」
それで、三百人の前で。
いちばん悪いやり方で、生まれて初めて、自分で何かを決めた。
「それなら」
わたくしは言いました。
「終わらせるのも、あなたが決めなさい」
テオフィルは顔を上げました。目が赤くなっていました。
「無理です」
声が割れていました。
「今朝、見たでしょう。僕には無理です。……母上がやればいいでしょう。父上もそう言っている」
息子は、もう一言だけ言いました。
「それが母上の役目でしょう」
自分の部屋に戻って、わたくしは鏡の前に立ちました。
スカートの両脇をつまみ、右の膝を沈めます。床に着く寸前で止め、頭を下げる。背は丸めず、首だけを深く折る。息を吐ききってから、口上を始める。
宮廷の礼法で、いちばん深い礼です。王様の前でする礼より、深い。
鏡の中の女は、きれいにそれをやってのけました。王国の誰よりも、うまく。
一度頭を下げれば、全部終わります。訴えは消え、テオフィルの名は法院に載らず、夫は満足し、わたくしはこれからも、この家の奥方でいられる。
鏡の中で、膝を沈めたままの女が、わたくしを見上げていました。
わたくしは長いこと、立ち上がれませんでした。
*
デュランベール侯爵夫人のサロンは、王都でいちばん噂の早い部屋です。
六日目の午後、緑の絹を張った大広間には、百人を超える人が集まっていました。皆、新報を読んできた顔でした。扇の陰で、誰かが小さく笑いました。
フォンタニエ家の三人は、窓際に並んで立っていました。伯爵は腕を組み、エミリエンヌは手袋の指を握り、マリエット様はその間で、背筋を伸ばしていました。詫びを受ける側の家の者がいなければ、公の詫びは成りません。それにしても、来ていただけるとは思っていませんでした。
わたくしの右に夫。うしろにテオフィル。
息子は今朝、着替えを手伝いに来た従僕を追い返し、自分で礼服を着てきました。襟が少し曲がっていましたが、わたくしは直しませんでした。
サロンの主が、羽根の扇を閉じました。
「皆さま。本日は、ヴァルブラン侯爵夫人より、フォンタニエ伯爵家へ、お詫びの礼がございます」
広間が静まりました。
わたくしは一人で、中央へ歩み出ました。寄木の床の、花の模様がちょうど円になっているところ。そこが、詫びる者の立つ場所です。
フォンタニエ家の三人に向き直りました。
スカートの両脇を、指先でつまみました。
右の膝を、沈めはじめました。
体は、手順を覚えていました。
二十年、何度もやってきたことです。頭で考えるより先に、膝が下りていきます。床までの距離が、少しずつ縮んでいきます。
このまま下ろせば、すべて終わります。
訴えは消え、テオフィルの名は法院に載らない。夫は満足し、わたくしは領地へ下がらずに済む。広間の百人は、いつものヴァルブラン侯爵夫人を見て、扇の陰で少し笑って、それでおしまいです。
そしてマリエット様は、また許すしかなくなる。十三本目のリボンを、ほどいて、巻いて、しまう。
下ろさなければ。
明日の朝、訴状が出ます。息子の名は、法院の書き物に載ります。夫はわたくしを領地へ送るでしょう。そして、そこまでしても、テオフィルが前に出てくるとは限らない。一昨日の朝、あの子は呼び鈴の紐さえ引けなかったのですから。
膝が、床まであと指二本ぶんのところまで来ました。
頭を下げる前に、礼法どおり、相手の目を一度だけ上目に見ます。
マリエット様は、わたくしを見ていませんでした。
その目は、わたくしの頭の上を通り越して、うしろへ向いていました。わたくしのうしろに立っている、襟の曲がった息子のほうへ。
憐れむ目ではありませんでした。
待っている目でした。
十年前も、去年も、きっと昨夜も、あの方はああして待っていたのだと思いました。白い箱を受け取りながら。
留め糸に小さな字で書かれた、十二の日付が見えた気がしました。
わたくしは、膝を伸ばしました。
広間の空気が、ひと息ぶん止まりました。
わたくしはまっすぐに立ち、フォンタニエ家の三人に向かって言いました。
「本日、わたくしは、詫びに参ったのではございません」
扇の陰の笑い声が消えました。
「二十年、わたくしはヴァルブランの家の者として、夫と息子の代わりに頭を下げて参りました。皆さまも、よくご存じのとおりです」
声が一度だけ震えました。わたくしは息を吸い直しました。
「それが、息子から自分で謝る機会を奪い、マリエット様から、許さないという自由を奪ってきたと、ある方に教えていただきました。ですから、ヴァルブラン家の詫びは、今日からは、した者がいたします」
夫が、わたくしの横に一歩寄りました。
「オノリーヌ、下がれ」
囁き声でした。百人の耳には届かない高さの。
「外務卿の奥方さま」
わたくしは、広間の奥の、羽根飾りの帽子の方へ顔を向けました。
「正月の、香水のことでございます。あれも、今後は夫が自分で申し上げます」
羽根飾りが揺れ、広間の目が、ゆっくりと夫へ集まりました。夫の頬が、白くなりました。
わたくしは誰にも礼をせず、花の模様の円から出て、脇へ退きました。
振り返りませんでした。
円の中は、空になりました。
寄木の床の花の模様が、午後の光を受けていました。誰も立っていない床を、百人が見ていました。
長い間でした。どこかで誰かの扇の骨が鳴りました。暖炉の薪が崩れる音がしました。
「テオフィル、動くな」
夫の低い声が、うしろでしました。
わたくしは、まだ振り返りませんでした。振り返れば、あの子の背を押してしまう。それも、代わりに決めることです。
窓際で、マリエット様が顔を上げるのが見えました。
足音がしました。
革の靴底が寄木を踏む、少し速すぎる足音でした。わたくしの横を通り過ぎていきました。
テオフィルは、花の円の中では止まりませんでした。そのまま広間を横切り、窓際の、マリエット様の前まで歩いて、そこで立ち止まりました。
しばらく、息子は何も言いませんでした。正面から、マリエット様の目を見ていました。十年、母親の背中越しにしか見たことのない目を。
それから、頭を下げました。
膝はどちらも沈まず、背中が丸まって、首だけががくんと落ちる、礼法のどこにもない礼でした。両手は体の横で、拳になっていました。
「あなたが、僕を憐れんでいると思っていました」
声は大きすぎて、それから急に小さくなりました。
「本当は、僕が、僕を憐れんでいました。皆の前で、ひどいことを言いました。……申し訳ありませんでした」
顔を上げませんでした。
サロンの主が、閉じた扇を手のひらに打ちました。
「形は、ずいぶん崩れておりますけれど」
広間じゅうが、その声を待っていました。
「詫びは、詫びですわね」
公の詫びは、その場の主が見届けるものです。礼の形ではなく、口上が詫びの相手に向いていたかどうかを。それで、明日の訴状は出せなくなりました。
マリエット様は、テオフィルの下がった頭を見ていました。
「門まで来てくださったのは、知っていました」
息子の肩が、びくりと動きました。
「お詫びは、お受けします。許すかどうかは、これから考えます」
マリエット様は、手提げから小さな硝子の瓶を出しました。婚約の香りです。
「婚約は、戻りません」
瓶を、ご自分の手から、テオフィルの手へ渡しました。渡すとき、白い指先だけが少し震えていました。息子は両手でそれを受け取り、ようやく顔を上げました。
サロンの主が、扇を開いて口もとを隠し、わたくしの夫のほうへ首をかしげました。
「それで、侯爵様のお分は」
夫は答えませんでした。答えられなかったのだと思います。百人の目を受けて、勲章の下で、夫は二十年ぶりに一人で立っていました。
*
翌朝、わたくしはリュエンヌ河岸を歩きました。
菓子屋は七時に鎧戸を上げていました。店主がわたくしを見て、奥へ入りかけました。
「今日は、白箱は」
「いいえ」
店主は少し目を見開き、それから丁寧に頭を下げて、わたくしを見送りました。
領地へ下がらせる話は、それきり出ませんでした。サロンで妻に同情が集まった翌日に妻を下がらせれば、風刺画のとおりの男だと自分で認めることになります。夫はそういう勘定のできる人です。
家を出るとき、わたくしは夫に一言だけ申しました。
「旦那様のぶんは、旦那様が」
夫は返事をしませんでしたが、翌週、一人で宮廷へ出かけていきました。外務卿の奥方のところへ。新報の次の風刺画は、首だけを深く落とした、不格好な礼服の少年でした。
フォンタニエ家の門の前で、わたくしは呼び鈴の紐を引きました。
扉を開けたのは、侍女ではありませんでした。マリエット様が、ご自分で開けてくださいました。
「オノリーヌ様」
この方に名で呼ばれたのは、初めてでした。
「お茶を淹れたところです。どうぞ」
わたくしは門をくぐりました。
手ぶらで人の家の門をくぐるのは、二十年で初めてでした。両手が軽くて、少し、心もとのうございました。




