【第一章】†ep.2 それぞれの理由†
「どっ、どうぞっ…」
少女の返事とともにゆっくりと開かれたドアから姿を見せたその人物は、地位のある者である事を認識させる小さな称号バッチを胸につけ、枯れ葉の様に茶色いローブを身に纏った老人――、この人物の名は『レイモンド』といった。
白い髪の毛に白い眉と同様に白く長く伸びたりっぱな髭を撫で、鋭く厳しい目つきで既にターゲットである少女を捕らえていた。
エンブレミア王国宰相大臣であるレイモンドは、様々な国の抱えてきた問題の策を練ることにかけては右に出る者はいないといわれており、国王エリックはもとより先代の代より、レイモンドが若き頃より何度もエンブレミア王国の危機を救ってきた影なる英雄であるともいわれている。身は老いてもその才は衰える事を知らず、現在でも絶対的な信頼を得ている宰相である。
また、心理戦ではこの者に勝てる者はいないだろう――。
“エンブレミアの白き虎眼”とも恐れられるその目つきで沈黙を保たれれば、相手の精神は多分長くは持たないだろう。
少女も困った様に笑顔を作り、焦っている様に見えた。
「…ほぉ、ちゃーんと約束通り9時には部屋に居られたようですな、姫様――」
“姫様”と呼ばれた目の前の少女が、困ったように笑顔を作りレイモンドに向けている。
男は何かを察した様子の後、笑いをこらえ始めていたのを少女は見逃さなかった。
意味ありげに少女に目を向けた後、すぐにレイモンドの方に向き直った。
それを少女が不穏に思わないはずもない。
…こ、こいつ…何を言うつもりなのだ…!?
「――恐れながらレイモンド様」
レイモンドの名を口にした時点で、そもそもおかしいと気付くべきだっただろう。
だがこの時の少女は、何が起きているのか理解も出来ず、男の様子を見守るしかなかった。レイモンドに頭を垂れているその男の後姿に、食い入るような視線を注いでいた少女の脳裏では、様々な考えが浮上して来ていた。
その中で恐れている事はひとつだけ――。
それだけが怖れと焦りの根源であり、それ以外は何も考えていなかった。
焦っていても作り笑顔は崩せないといった少女を他所にして、レイモンドは事もあろうか男に微笑みかけこう言った。
「おや、“リュシファー殿”もご一緒でしたか。いやいや、何ゆえ、そのように床におられるのです。・・・そんな床になどにお座りにならずに、どうぞこちらへ――」
「!」
少女は二人の様子にさらに困惑していた。
今日、自分が初めて顔を知ったこの謎の男はどうやら“リュシファー”と言うらしい。
宰相大臣であるレイモンドが知っているということは、この者は何か重要な役目を担う用があったためにこの城に来ていたのだろうか――。
様々な考えが、少女を窮地に追い込んでいく。が、実際のところ、男が『リュシファー』という名前であるという事くらいしか明確な理由などわかる筈もなかった。
少女は、焦る気持ちを抑え、しばし二人の様子を見守ることにした。
レイモンドは、「ささ、どうぞどうぞ」とリュシファーと呼ばれたこの男をソファーの方へ促した。
途中、少女の方をレイモンドは厳しい目で一瞬睨みつけた。
まるで虎が牙を剥き出しにし、いつでも襲いかかれるようその姿を茂みの陰に隠しているかの様なレイモンドの厳しい目つきには、さすがの少女もさっと目を逸らしている。
少女にはその真意は聞かなくとも、わかっていた――。
――また、それは確信に繋がった。
そのリュシファーの隣に腰掛けたレイモンドは、世間話でもする様に口を開いた。
「…どうやら姫様が礼儀も何もない様子で…申し訳のうございますじゃ」
やはり予想通りであった事に、少女は少し困った様に苦笑をしていると今度はリュシファーが口を開いた。
「――あ、いえいえ。姫様が少し足をお痛めになられた様ですので、先程診て差し上げておりましただけですから…お気遣い、感謝致します」
申し訳なさそうに謝っていたレイモンドが、少し驚いて少女の足に目を配る。
「なんと! これはこれは、さすがはリュシファー殿。…で、姫様はその、大丈夫なのですかな…?」
と、リュシファーとレイモンドが、軽い捻挫なので大事には至らない事などを会話している――。
会話する二人のその様子に、少女にはある不安が過ぎっていた。
リュシファーという名前だけで何者かはわからないがレイモンドと会話しているこの男は、時折少女に何か意味ありげな意地悪そうな視線を送って来ていたのである。
それが何を意味するというのか――。
怪我についての話を、爺が事細かに聞いているこの話の流れだけでも、身の危険を感じているというのに・・・。
その視線が余計に少女の精神を追い詰めていた。
冷静に考えてみれば――…
この状況下において少女は、このリュシファーという男に弱みを握られているのは一目瞭然であった。
リュシファーは少女が、
“9時に部屋にいなかった事――…”
“何故、いなければならなかったか――…”
“時間通りにいなかったらどうなっていたか――…”
という事を、たった数分で全て理解しているだろう。
……まずい……
そこで、少女の脳裏をかすめるのは、
ただ1つ―――。
“――反撃するつもりに違いない…!!”という事だった。
“敵に背中は向けてはならない”
とはよく言ったものだ――と、少女は思っていた……。
既に少女は目の前の敵には背中を見せ、いつ斬られてもおかしくはない状況だがそれを引き伸ばしあざ笑うかの様に、リュシファーは楽しんでいる。
――そう。
たった一言言われてしまえば、全て“終わり”……。
額からは嫌な汗がにじみ出ている様な気がした。
その少女の顔からは自然と先程まで取り繕われていた笑顔が、すでにその姿を消していた――。
この――絶体絶命のピンチに立たされている少女――。
その名を“レティシア”という。
(正式名称は、レティシア=ミールティア・オーグロンド・リーディア・マールシェスタ・オブ・エンブレミアと続くが常用はしない)
レティシアは、――エンブレミア王国国王エリックと王妃リーディアの間に生まれた第一王女で、歳は13歳。
容姿は王女そのものといった感じの美しく可愛らしい少女だが、ちょっとばかばかり難があり、城中の者の手を焼かせている問題児で、一国の王女として生まれたにも拘らず、王女らしい振舞いをせず、その口調は男兄弟しかいなかったためか、上にいる第一王子エルト、双子ではあるが兄である第二王子ミグという兄たちが話す言葉使いをそのまま真似し、周りが注意して直そうとするも虚しく、身に染み付いてしまい現在に至る――。
更に性格は素直さにかけ、勝気でプライドが高く負けず嫌いといった誇り高さを感じさせるその性格だけは、唯一王女らしいといえば王女らしいものといえるだろうか。
特に、“自分の事を子ども扱いする”という事は、レティシアにとって最も嫌いな事だった。双子という立場でさえも一番下。ミグ王子とは同年代だというのに、レティシアの方が子供扱いされる事も多かった事が原因だった。
勉強は真面目に取り組まず、教育係が諦めて辞める者さえ何人かいた程で、おまけにこっそり城を抜け出す事もあるという――これ以上、問題を挙げれば切りはない。
そこで国王エリックは、幼い頃より問題児であるレティシアを厳しく躾けるべく、自分の側近で宰相でもあるレイモンドに、『姫の目付け役としても活躍してはくれまいか――』と話を持ちかけたのだった。
威厳を持っているレイモンドならば、レティシアも言う事を聞くだろうと考えた。
そうして、このレイモンドの存在は脅威的に、周りから“エンブレミアの白き虎眼”と恐れられながらも、その傍らでレティシアからも“目付け役”としても恐れられる存在となった事は言うまでもない。
レイモンドは何かあればその事を逐一、国王であり父上でもあるエリックに報告していたため、ついに昨晩。夕食が済み、部屋に戻ろうとしていた時――。
「―――待て。レティシア」
威厳ある声が、レティシアを呼び止めた。それは、国王であり父上でもあるエリックの声だった。
そして、日頃の行いについてお説教が始まり、こう言ったのである。
『明朝、朝食後午前9時。もしお前が部屋にいなければ、一ヶ月!
…いや、私が良いと言うまでお前に監視を付けさせ、行動を全て報告させる!
よいな! レティシアッ!』
国王エリックの妻、穏やかな性格の王妃でありレティシアの母上でもあるリーディアが、おろおろとして自分をかばう様にエリックを止めていた。
だが、それでもエリックは激しくレティシアを怒鳴りつけ続け、ふてくされて部屋に戻ったレティシアの元へリーディアが来て、どうやら、今回ばかりは父エリックは本気で激怒している様子だと聞かされた…という理由で、レティシアは現在リュシファーに窮地に立たされていた。
今日という今日だけでも、部屋に9時にいなければ監禁の様な生活を強いられ、トイレに行くにも、屋上に行くにも、全て監視付き生活の中――城下に出るなど論外である。
――…何としても、この流れを回避しなくてはならない…!
窮地を脱すべくして、レティシアは閉ざしていた口を開いた。
「――じ、爺っ。この者は忙しいんじゃないのか? お引き止めしても悪いし、その…っ」
明らかに焦っている様子を見て、レティシアが“爺”と呼ぶレイモンドとリュシファーは目を見合わせている。
リュシファーはふっと微笑んだ気がした。もちろん、その目は意地悪く意味ありげだ。レティシアは、レイモンドの目を盗んでその自分に向けられた視線に懇願の眼差しを送ってみるのだが、困った様に笑顔を作り変えたリュシファーは、次に、とんでもない言葉を口にした。
「おや、レティシア様。お気には及びませんので、ご安心を。大事な用があって参ったので…。早めにお目にかかれてご光栄でしたよ。ねぇ?レイモンド様?」
「…えっ――…っ?」
男の言葉に、レティシアは耳を疑った――。
――は、早めに…? お目に…かかれて? ごっ…光…栄……!?
何かあるとは思っていたものの、その予想を遥かに上回る理由が存在する事に、レティシアは驚愕の色を隠せずにいた―――。胸を騒がせる何かが渦巻くこの状況に、レティシアは痛恨の精神ダメージを受け、軽く放心状態になりかけていた。
その時――。
「おぉ、そうであった。姫――――!」
思い出したかのように、声を少し荒げたレイモンドが自分を見て次に言った言葉で、レティシアは少しの間動けなくなるほどの衝撃を受けることとなる――。
そのレイモンドの言葉を聞いた時のレティシアの脳裏では、こう思考が浮かんでいた。
頭が真っ白になるというのは――――――――。
――――――こういうことであったのだろうか……。
…………えと…
…嘘――――――――……
…だよね―――?
―――――………
レイモンドはレティシアにこう言ったのだ――。
「姫っ! こちら、今日から姫様の教育係兼お目付け役を引き受けて下さったリュシファー殿ですじゃ。あの難関であるエルフィード王立学院を若くしてストレートに首席で卒業――。頭脳明晰、礼儀正しく、おまけに医学の心得も取得しており…陛下自らが候補の中から選抜された――、何とも、優れた者ですぞ! リュシファー殿はエルフの一族の生まれでですなぁ、いやぁ、エルフと言うのは素晴らしく博学で魔法にも長けており、わが陛下が仰る様に、いい加減に女だてらに剣などと危ないものを振り回さず、これを機にっ! 魔法の習得に励み、今度こそ、今度こそ…! 一国の姫たる意識をきちんと持っていただきですなぁ――…」
――恐らくレティシアは、レイモンドの小言部分はもう半分も聞いていなかっただろう。自分の耳を疑いながら驚愕の表情のまま、レティシアは目の前のリュシファーの方をゆっくりと見た。
面白いものを見させて貰ったと言わんばかりに、リュシファーは平静を保ちながらも笑いをこらえている様子だ。
――エルフの一族であるのは見た目でわかっていたが、エルフィード王立学院といえば超難関で有名で、1年から4年まであり4年まで行けなくても超優秀と見なされるあの学院を、ストレートに首席で卒業…
これは父上も、一筋縄では行かない頭の切れる教育係を連れて来たな――…と、レティシアは思った。
そして、父エリックの「どうだっ」と言わんばかりのニヤけ顔までもが今にも目に浮かぶようなその経歴に、『どこから見つけて来たんだ』と、深いため息を吐いた。
しかも、相手には既に弱みさえ握られている――。
人生の終わりがすぐそこまで告げに来られているような気持ちになりながらレティシアは引きつっていた。
“聞き間違いであって欲しい――。これは悪夢か何かだ――。”
その言葉から始まった思考は、進んでいく――…。
こ、こんな…無礼な男が、教育係なわけないじゃないか…
そうだ。聞き間違えだ――はは…はははは………
「…えと、爺。――今、なん…て言ってたんだっけ?」
かろうじて、現実逃避まで始めていたレティシアが発した第一声が、それだった。
しばし間の抜けたような空気が漂い、二人があっけにとられている。
そのうち、レイモンドがわなわなと震え出して、白き虎がついにその牙を剥いたかの様なその怒りを爆発させた。
「姫っ! 何を寝ぼけた事をおっしゃっておられるのですっ。ですから先ほどから姫の新しい教育係兼目付け役として、任命されたリュシファー殿じゃ! と言っておるのです! 聞いていなかったなどとふざけた事を仰られるなどと、大体、姫は一国の王女としての自覚がないのじゃ…!! この爺、姫様のお目付け役を陛下から仰せ遣って苦節7年という年月が経っているにも拘らず――――…」
レティシアが下を俯きながらその剣幕に耐えて聞いていると、次第に牙を剥いた様な白き虎の様な声を荒げた口調は、物思いにふけるように変わり始めた―――。
「――…まだ、姫様が可愛い可愛い…子供の頃よりずっと手を焼かされ続け、やっと、やっと…! 姫の目付け役をリュシファー殿に引き受けていただいて、解放されるというのに………っ! …その様なことではこの爺は、まだまだ大目付け役として姫が何か問題があればですな? 結局、面倒をかけさせられるのじゃっ…いつまでたっても、この爺の体の休まる日はありませんのですぞっ…! 一体、いつになったら姫は、この爺に楽をさせていただけるのですか…っ… うぅっ……」
――レイモンドが感極まって嘆き出すというのは、ここ数年時々あることだった。話は長いのは相変わらずだが、レティシアへの怒りよりもそのせいで苦労してきたという自分の人生の方を物悲しく語ってしまうのは、歳を取っていくと、時折誰でも悲観的に感傷に浸ってしまうことも増えるのだということなのだろうか。
エンブレミア王国の白き虎眼と呼ばれた男もその点は、老いたということの様だ。
そしてその様子に、今度はレティシアとリュシファーの二人が、顔を見合わせ、あっけにとられたのか苦笑いを浮かべている。
「わ…悪かったよ……爺っ。ちゃ、ちゃんと聞いていた。…そう嘆くな…はは……」
“――現実はそう甘くなかった……”とレティシアが落胆しながら爺をなだめているその時、リュシファーがソファーから立ち上がった――。
次に再びちらっと嘆いている爺が気付かないのをいい事に、面白がっている様な嫌な笑みをレティシアに一度向けたかと思うと、口を開く。
「…そろそろ、ご挨拶させて頂きますが――。よろしいでしょうか…? レティシア王女様、ただいまご紹介に預かりました通り、エルフィードより参りました。リュシファーです。以後、お見知りおきを。お噂は、かねがね聞き及んでおりますが、この度、教育係兼目付け役を仰せ付かった以上、厳しく――。そして、しっかりと務めさせて頂きますから、きちんとこれから真面目に勉強してくださいね」
リュシファーが先ほど自分に話しかけていた口調ではなく、しっかりと敬語でそう言って来た事が、なんだか悔しかった。
しかも“厳しく”という部分が妙に力が入っていたので、レティシアは心に少しダメージを受けた――。
父エリックだけではなく、敵にも勝ち誇られている―――と、下唇を少し噛んだ。
ただレティシアは、ここで憎まれ口を返したり気に入らないとか騒ぐわけにはいかなかった。
「…よ、よろしく………」
そうして、落胆と屈辱の色を隠せないといったレティシアはなんとか言葉を発したが、その作り笑顔は引きつっていた。
その後、レイモンドがちゃんと挨拶も仰れないのですかとか騒いでいたが…、レティシアにはどうでもよかった。
レティシアはこれが精一杯の抵抗といった感じで――、手も足も出ない――高い壁の前に成す術もなく立たされ、屈辱の眼差しでその頂を見上げている様な…そんな気分だったのであった――。
何故なら、もう――――。
いつものように逃げることも出来ないという事には気づいていた―――。
それに――。
この者には、
“切り札”があるのだから――――……
レティシアは何故焦っていたのか。
リュシファー何故城をうろうろしていて、何者だったのか…。二つの謎を語る回でした。
ちなみに、レイモンドが話が長いのは仕様です。
すみません…。