【第ニ章】†ep.3 聞かれた呟き†
「………!」
リュシファーの身は固まっていた。
階段を駆けて行く音が聞こえなくなるまでの事だった――。
固まったまま、階段の壁に思わず寄りかかって座り込んでいた。
もう誰もいない階段の踊り場で、リュシファーは驚愕の表情を浮かべてしばらく動けずにいた自分に気づいた時には、自分の耳に触れていた。
少しぎこちないような笑みを浮かべながら、照れくさそうに耳元の地肌を少し掻く。
――今日は……ありがと――…
脳裏でその言葉が、たった今言われているかの様に何度も再現されていた。
更にもうひとつ最後に言われた言葉の続きを、リュシファーはその口で呟いていた。
「――ちょっと、かっこよかったぞ……か」
それはこの階段の踊り場でつい先程、レティシアが言い残した言葉だった。
リュシファーは立ち上がると自分も部屋へと歩みを進めながら、自然と少し微笑んでしまう自分に少し呆れながら、ため息をひとつ吐く。
「はぁ…珍しい事もあるもんだ………」
階段を上がり終わる直前に、そうリュシファーは呟いて言った。
…………
一方――。ここはレティシアの部屋。
「はぁ…」
レティシアは部屋に戻ってドアを閉めるなり、ドアノブに手をかけたままその背をドアにぴったりとつけ、ため息を吐いていた。
ドアから真正面に見えるバルコニーの窓の外を遠くから眺めていたが、そのまま歩みを真っ直ぐと進め、バルコニーの格子に飛び上がり座った。
帰り道、レティシアとリュシファーは時々言葉を交わすものの、互いに何か考え事をしている様子でほとんど無言だった。
リュシファーは多分、私の眠っているという魔力について考えていただろう。
それは自分自身も同じだった。
リュシファーの言う通り、魔法を使おうとすれば、自分の手の中に法術の源を発生させている事は、ちゃんと感じ取れていた。しかし、発動させようとすれば幼い時のあの思い出が蘇って怖くなり、途中で抑え、発動しないようにしてしまう事の繰り返し――。
“お前には高い魔力が眠ったままになっている”とリュシファーに言われた事は、未だに信じ難い。しかし、その証拠と言われた――瞳の中に揺らめく不思議な妖しい光を自分が見れてしまうことを、ミグに話した事があるがミグには見えないと言われた事…。
――それが、瞳で力量を見抜く高等魔術師が見えるものだったとは……。
レティシアには全く思いも寄らなかった事だった。
「…次学期から、やるのかぁ……」
と、ため息を吐いた時だった。
「よっ! レティー」
「!?」
突然聞こえた元気な声と、目の前に現れた突然の人影に驚いて後ろに倒れ落ちそうに慌てふためいていた所を、冷静にぱしっとその人物が手を掴んでくれたお陰で、レティシアは危機を免れた。
「はぁ~…た、助かったぁ…お、落ちるかと思ったじゃないかっ」
「はははは、悪い悪い。いや今日これ覚えたから使ってみたくてさぁ~」
その姿はミグの姿だった。
部屋のドアをノックもなしに開けるだけじゃなくて、いつも現れるのは突然だ。
“コレ”と言われて不思議そうにミグを見たレティシアは、そういえば自分は外に身体を向けて格子に座っていたというのに、ミグが現れたのは前方である事に気づき、ミグの足元を見る。勿論、そこに地はない――。
ミグは宙に浮かせ、空中で腰に手を当てて得意げにしていたのだった。
驚いているレティシアの反応にうんうんと頷くと、ミグは言った。
「そーなんだよ。今日空中浮遊魔法ってのを覚えたんだ。お前にもかけてやろうか?」
相変わらず得意げなミグの様子に、レティシアはため息を吐く。
「…フリシールだか何だか知らないけど、かけて貰わなくてもその位なら私でも、きっと使えるから教えろ」
その言葉にミグもため息を吐いてレティシアに言った。
「…お前もさぁ、時々こうやって俺に習ってるだけじゃなくて、まともに勉強したらいいのに…。ま、フリシールは風の魔法の一種だからお前も使えなくもないと思うけどさ、ちょっとばかり扱うの難しいぞ?」
そう言って、ミグは異次元空間から本を出した。風の魔法の教本である。
「えーと…どこだっけなぁ」
ぱらぱらとページをめくって中間辺りで見つけたらしく、開いてレティシアに見せた。
「あった。これだ。まず、この呪文を覚えればいい」
「…ん? えーと…? …風の精霊に纏いし吹き荒れる風よ、今ここに我と契約の元に、その風と力を捧げ…天に近く…我が身とともに舞い踊り賜え…?」
レティシアは棒読みでそれを読み上げた。本に書いてある文字をレティシアは覚えようとじっと目で何度も追う。
ミグがその様子に、後は力を集める場所を説明し始めようとしていた時だった。
「!」
本から目を離していないレティシアの周りを、優しく小さな風が渦巻き始めていた。
そしてその風がミグの頬に微かに触れる。ミグは驚愕の表情を、その顔に浮かべてレティシアをただ見ていた。
「で? 次は何? …え? 何? 変な顔しちゃって…」
ミグのその様子にレティシアが気づいた時には、その風はレティシアの足元に降りていき、ふわりとレティシアの身体が浮かせ始めていた。
「!?」
ミグが唖然とそれを見ていると、ふわふわと宙に浮く自分の身体に、レティシアは慌ててあたふたと暴れている。ようやく落ち着いて宙でバランスを取ったレティシアは、きょとんとした後、怪訝そうな顔でその現象に頭を悩ませている様子だ。
「――お…おい。俺、これ覚えるのに、1時間かかったんだけど…」
「へ?」
「…風の渦が巻き起こって、それを下に持っていく感覚も掴まないといけないし、宙に浮いてもバランス取るまで大変だったりしてさぁ…そ、それなのに………」
努力の過程を説明した後、ミグはへたっとバルコニーの床に座り込んでしまった。
いつも元気なミグが珍しく落ち込んだ口調で言ったので、レティシアは困った様な笑みを浮かべながらこう言った。
「あ…いや、ほらっ。か、風の魔法なら私も唯一使える魔法のひとつだし…精霊が力を貸してくれやすいのかも…っ。う、うん。きっとそうだ…ははは……はは」
ちらっとレティシアを恨めしそうな顔で見たミグが、また俯いている。
どうやら得意げに魔法を見せようとやって来たというのに、レティシアがまともに詠唱もせずに使えてしまった事で、少しいじけた様子だった。
「…もー、いつまでいじけてるんだ…いいからどうやって進むのか教え――」
と、そう言いながらミグの方へ向かおうと思った時だった。
レティシアの身体はミグの方へと簡単に動いて進んでいったのだった。
「あ…れ? 動いた……」
レティシアがそう呟いてから、歩く時に足を前に踏み出そうとする様に、その方向に向かおうと心に思うだけで、その通りに身体が浮いたまま進める事に気がついた。
その様子を床から眺めていたミグは、もはや驚かなかった。
はぁ…とため息を吐くと、首を横に振っている。
「…頭の中で進もうとすればその通りに動く――今やってる通りだ」
「そ、…そうか。そう落ち込むな――ま、まぐれだ」
「ろくに魔法も使えないのに、簡単に使えちゃうんだもんなぁ…まともに魔法勉強すれば俺より使えるかもしれないのに、はぁ~あ…」
ミグのその一言でレティシアは複雑な気持ちになっていた。
詠唱という詠唱はしていないのに、ミグが覚えたばかりという魔法を自分が簡単に使った事――。そういえば、安全そうな魔法で自分が興味が湧いたものだけ、ミグに少し教えて貰ええば割とすぐに使える様になっていた事を、レティシアは思い出す。
さらに、リュシファーが言っていた事……。
レティシアは引きつったまま、ミグを見つめていた。
リュシファーと初めて会って警戒しながらその目を見た時――。
怒られた時などに、相手の目をじっと見た時――。
揺らめく光を見たのは、真剣に相手の目をじっくりと見つめた時である。
それはミグの瞳にも、さほど大きくない光だが、鋭く見通すように透き通ったものが、その奥に携えて存在していた。レティシアは苦笑を浮かべていた。
“お前は高い魔力を秘めている”――“その証拠”。
リュシファーの言葉が頭から離れない――。
そんな筈は、――ないのに…。
しかし、棒読みでただ呪文を覚えるために呟いていただけで発動した、フリシールの法術は確かに自分の身を浮かせている。前は、こんな事はなく、ちゃんと意識を集中して呪文を唱えないと、効果が発動する事はなかったのだった。
風の魔法は唯一、レティシアが使える魔法だった。リュシファーの使った竜巻などといった危険な魔法も存在するが、大体は大した威力を持たない風を吹かせたりする程度の物が多いためそんなに恐れずに使えるので、レティシアは何個か覚えているものがあった。
しかし、レティシアがミグに言った『精霊が力を貸してくれやすい』というのは、根拠も何もない――。
リュシファーに自分の力に気づかされる様な言葉を言われたせいで、自分の中で眠っていた魔力が目覚め始めているとでもいうのだろうか…とレティシアは考えていた。
「ん? な、なんだ…?」
ミグが変に思って聞いたその言葉で、レティシアははっと気がついて答えた。
「あ、いや、別に…なんでもない。はは……ちょっと疲れたから夕食まで少し休む」
「そ…そうか、じゃまたな」
少し様子がおかしかったレティシアを、ミグは気にならなかったわけではなかったが、とりあえず大人しくそれを見送ることにした。
レティシアは浮いたまま、部屋に戻っていきベッドに入っていく。
そして、既にしっかりフリシールの魔法を使いこなしている様子に、ミグはため息を吐いた。
「…………変なの」
ミグはそう呟くと、屋上へと更に高く上昇していった――。
―――…
そして、今から少し前の事――。
「……っ」
リュシファーは部屋を飛び出していた。
――向かった先は屋上だった。
風が少しひんやりし、少し湿気を混ぜた様な匂いがかすかに感じる。
独り言をつぶやいたようにリュシファーは、遠くに見える灰色の雲を発見して、ため息を吐く。
「あんなに……天気良かったのにな……今夜も雨、か」
見晴らしのいい誰もいない屋上の床に、リュシファーは座り込み後ろに手をついて、真っ直ぐ空を見上げていた。
一方、その様子を影から見ていたエミュ~は、レティシアの言葉を思い出していた。
“知らない人が来たら隠れて出てこない事、いい? 特に、白髪の爺ちゃんみたいなのが来たら絶対隠れてないと駄目だぞっ”
リュシファーは一度ここに来たこともあり、知らなくはなかったのだが、血相を変えた様子で屋上に来て床に座り込んだので、最初は少し怖い気がして警戒していた。
しかし、平静を取り戻していったリュシファーの様子に、エミュ~は少しずつ近づいていった。
「ん?」
自分の腰あたりに温かい何かの体温を感じ、後ろを振り返ってリュシファーは微笑む。エミュ~はリュシファーの後ろに丸くなって横になったのである。
「みゅぅ?」と、顔だけエミュ~はリュシファーに向けて鳴く。
「やっと出てきたか……はは。勝手に邪魔して悪いな…」
我ながら良くやるなと思いながらも、エミュ~の家に不法侵入した事を詫びたのだった。
だが、エミュ~はそれに答えるかの様に、リュシファーの腰にすりすりと顔をこすりつけて、何となく歓迎されてないわけでもない印象を持ち、それを撫でてやった。
そして、リュシファーは考え事をしていた。
完全にその場に眠りこんでしまったエミュ~を撫でる手を止めたかと思うと、リュシファーは再び空を仰いだ。
白い雲が東の空から流れて視界から消えていき、少しずつ先程遠くで見えた筈の灰色の雲が、すぐそこまで現れ始めていた。
リュシファーはそのままエミュ~を潰さない位置に仰向けに横になると、空を見上げながら、ぼーっとある事を思い出していた―――。
先程からため息が出る程に、それが頭にまとわりついて離れずにいた。
―――――…
――…
…………
――部屋に戻ってすぐに、レティシアの城下での騒動ですっかり忘れていた成績表の報告をしに、大広間へ向かっていたリュシファーは、中三階の大広間に着く前の階段の踊り場にて、少しだけ外を眺めて疲れた気分を落ち着かせていた。
「?」
その時、声がした―――。
多分、普通の人間であれば聞こえない程小さな声だった。
声は、大広間横にある本棟の上階層へ上がるための階段のある扉内から聞こえてくる様で、忍び足で階段を数歩登って扉をよく見ると、その扉がわずかに開いている。
しわがれた男の声と女の声……。
時折、女の声の方は興奮気味に通常の声量に荒げられては、また弱々しく抑えられていて、一方、男の方は常に同じトーンで静かに口を開くよう、気を配っている様子だ。
「!」
とっさにリュシファーは、踊り場の柱の影に身を隠した。
聞こえてくる声が、知っている人物の名前を口にしたのだ。
立ち聞きなどいけないこととは知りつつも、リュシファーはその声に耳を澄ましていた。
「レティシアにはいつ…?」
「……今夜、夕食後にと陛下は申されました…」
「ついに…、ここまで来てしまったのですね――」
「――まだその様なことを……。三代姫が産まれておらず、過去のダムルニクス王国との盟約は、未だ果たされてはいないのです…。やっと陛下の代になり、姫様がお産まれになられ…、14歳になられたら婚約の儀を――、そして、成人になられる15歳でご結婚をと、お生まれになる前からお話した筈でございますぞ…?」
「!?」
リュシファーはその言葉に驚愕していた――。
その後も二人は少し話を続け、三日後がレティシアの14歳になる誕生日である事。
その盟約が交わされて両国が同盟国になったというのは知っていたが、密かに盟約の証として、“お互いの王国に姫を嫁がせる”という約束をしていた事。
しかも、エンブレミア王国は三代にも渡り姫が産まれず、その盟約の証としての義務は、未だに果たされていない――。そして、やっと産まれた姫というのがレティシアであるという事を、リュシファーは余す事なく聞いてしまった。
こ……こここ――…
婚約――――!?!?
――――…
…………
――そうしてリュシファーは、とりあえず陛下に成績表は報告に行っては来たが、部屋に戻っても何故か心が乱れ、落ち着かずに屋上に来ていたのだった―――。
婚約の儀を交わせば、それは正式なものとなる。
世間一般では婚約しても、破棄することだってあるが、国と国同士の問題が絡んでいる王室で、そんな事は許されない。
「…あの馬鹿姫が、婚約―――か……」
と、呟いた時だった。
「――ナーニやってんだっ??」
突然、足音もせずにその声は聞こえて来た。
「!?」
慌てて起き上がるとそこには、魔法で宙を浮いたミグが、その後スタッと屋上の床に着地した様子だ。
レティシアと同じ翡翠の様な澄んだ緑石色の髪が、肩につくかつかない位で風に吹かれてなびいている。それと同色の綺麗な瞳を持つ突然話しかけてきたこの少年――ミグの顔立ちは、さすが双子――レティシアによく似ている。
片や美少女。片や美少年といった感じで、その美少年の口元は得意気に微笑んでいた。
「何だびっくりした顔してー。もうすぐ雨降りそうだから、エミュ~を部屋に連れてってやろうと思ってさ、今日覚えたばっかの魔法使って、飛んで来たんだ」
――どうりで、物音がしないはずだ。
リュシファーはそう思い、苦笑を浮かべた。
空中浮遊の魔法を今日授業で取得したばかりだと言うミグは、続けて言った。
「まさかお前がこんな所で横になっているとはな~、いや、意外意外」
意外そうな表情を浮かべて、ミグはリュシファーのすぐ横にそのまま座り込んだ。
すると寝ていたエミュ~がミグに気付き、起き上がってミグの周りをパタパタと喜んで飛び回る。
「…あ、いや、ちょっと今日は色々あって疲れてな……少し気晴らしに来ていたんだ」
そう口を開くとリュシファーは立ち上がって、尻についた砂埃を払う。
エミュ~がミグの肩に止まる。
「………ふぅん」
辺りが暗くなりだしたのか、ミグの姿が少し影を作っているように見える。
先程からずっとリュシファーは、ミグに悟られまいと作り笑いを浮かべていたのだが、ミグのその様子から脳裏を嫌な考えがかすめていく。自分の方を向かずに呟く様にそう返事をしたまま、ミグは一点を見つめている様子だ。
「て、天気も今夜は崩れそうだし、そろそろ俺はもう行こうと思ってたとこだ。じゃあ…またな――」
そう言って、気まずい様な変な間から逃げる様にその場を立ち去ろうとするリュシファーを、ミグの声がそれを引き止めた――。
「…………」
リュシファーは少し焦っていた。
立ち止まり、少し間を開けて振り返った自分に向けられるミグの瞳は、少し自分を睨む様に真っ直ぐと向けられている。
「――で…さっきお前呟いていたの…あれ、何――?」
更に少しの間を開けてミグが言った言葉だった――。
木々がざわめき、空には先程遠くに見えていた雨雲が、湿り気を帯びた強い風によって、既にこの辺りまで流れている。その時、雲に隠れて見えなかった太陽が、その全貌を完全に隠し始めたのか、辺りは一気に暗くなり始め、屋上の床には、一つ、二つ、と水玉模様が描かれ始めていた。
レティシアの様に吸い込まれそうに澄んだ翡翠の様な緑石色のミグのその瞳は、鋭くリュシファーに向けられ続け、自分が潔白ではない事を全て見通している様な突き刺す程のその視線は、捕らえて離してはくれない――。
誰もいないと思い呟いた言葉を、ミグは聞き逃していなかった――。
答えないリュシファーに、再びミグは口を開いた。
「…いいから言えよ。……もう遅い。聞こえたから――」
「……っ」
その言葉にリュシファーは、沈黙を保ったままその場にがくっと座り込んだ。
一瞬、目がちかっとする程の白い光が辺りを照らし、轟音が鳴り響いた。
床に静かに水玉模様を描いていた雨は、ザアっと音色を変え激しく降り注ぎ、二人を濡らしていく。それでも、二人はその場から動かなかったのだった――。
――――……
…………
つづく。
レティシアの力が少し目覚め始めているのを少しずつ自覚し、一方で第一章の終わりで何かが密かに動き始めていましたが、それが明るみになろうとしていました。聞いてしまったリュシファーがふと呟いた一言を、偶然聞いた双子の兄ミグ……さて、一体どうなっていくんでしょうか。という回でした。