【第一章】†ep.9 言えぬ言葉†
ちゃぷん・・・
「レティシア様、本日はラ・ヴェンダーというリラックス効果のある花の湯でございます。いかがです??」
底が見えない様な、濃い薄紫色をしたその浴槽には小さな紫の花が沢山浮いている。広々とした浴室中たちこめる湯気とともに、このラ・ヴェンダーという少し青臭い様な不思議な花の香りがむせ返るほど匂ってくる。
レティシアには正直、その香りにリラックス効果があるのかわからなかった。
「……悪くはないな」
しかし、いい匂いである事には変わりなかったので、レティシアはそう返事をした。
湯の温度は調度よく、昨日は熱があり入れなかった風呂のお湯に浸かりながら、手でそのお湯に浮かぶ花を湯とともに少しすくい上げては、目の前でちょろろろという音をたてながら流し落とし、手に残った小さなその花を手に取って、レティシアは見ていた――。
「――ある国では、それを香油にして髪や肌にも使うそうですよ・・・」
浴槽に一番近くに立っている侍女がふふっと笑いながら穏やかに微笑んでいる。
「へぇ・・・」
――レティシアは、幼い頃から侍女たちに髪や身体を洗って貰っていた。
シャンプーやらトリートメントから、身体の隅々まで全て侍女に洗わせるというのが、この国の慣わしなのである。無論、王族であり成人するまでの女性に限ってという話である。
15歳で成人が認められるこのエンブレミアでは、もちろん王女であるレティシアがその一人であった。
とはいっても、女王フレイアが治めていた3代前の時代にまで遡っても、ここ何代か何故か女の子は産まれていないのであった――。
レティシアは、この王国にて久しぶりの王女なのである――。
そして、問題児ではあったが今回ついにエリックが激怒するまで、少しは甘やかされて育てられていたというのも、そのせいという背景があったのである――。
侍女達は、既にレティシアの隅々までを洗い終わり、あとは入浴が済むのを待ち――、身なりを整えるだけなので、その内の1人は浴室に待機させ、残りは全員タオルなどをせっせと準備し始めていた。
…リュシファーにちゃんと礼を言わねばならぬなぁ……。
と、レティシアは湯に浸かりながら考えていた――。
ちゃぷんっ……
「あ、姫様もうおよろしいですか――? ではこちらへ・・・」
湯から出ると侍女たちがレティシアの身体を拭き、髪をぱんぱんっとタオルで水気を拭き取ったら、後は髪の乾燥とセットは、風属性の応用であり身支度を整えるためなどの“簡易魔法”の一種で行うのであった。
――『簡易』とはいっても、これは一般には知られていない魔法であり、高等魔法を扱える者でもなければ知らないものが多数である。
魔法があまり上手く使うことが出来ないレティシアであっても、応用と言えどその視点を変えれば基礎を知らずとも使えるという簡単な魔法なので、幼い時よりレティシアは教えられ、少ない中でも使える魔法の一つである――。
この簡易魔法以外はというと、基本魔法である『火』『水』『雷』といった魔法は上手く使えず、『風』に関しては攻撃するレベルではないものであれば少し使えるといった具合で、レティシアにはさっぱり魔法が使えないようなものであった――。
というよりも、それは、魔法を習い始めた頃にレティシアの使った火の魔法が、子供とは思えない程その威力を発揮してしまったことが背景にあった。その時のレティシアの魔法は、城の敷地内の木を一本全焼させてしまったのである。
そして、子供というのは無垢なものである――。
それまではミグと一緒に興味深々で魔法の勉強をしていたにも拘らず、その一件以来、レティシアは一切魔法に興味を示さなくなり、少しレイモンドに厳しく魔法の勉強をさせられた際も、集中できずに失敗に終わるといったあり様だった。
――怖くなったのである。
そのため、レティシアは魔法よりも剣術に興味を注いでおり、国王エリックは、そんなレティシアの様子に剣術は教えないようにと剣術を教育させていた兵士長テヴァンに、剣術の授業を辞めさせたのである。
しかし、どうしても剣術を習いたかったレティシアは、密かに『アレン』という一人の若くありながらも、可能性を秘めた利き腕の若い兵士に現在も時々剣を習っているが、その事は誰も知らないのであった。
もともと習っていた頃からレティシアの剣の腕はかなりのものであり、実戦経験はないものの、おそらく外に一人で出てもエンブレミア周辺に現れる弱い魔物であれば、余裕で戦えるであろうと兵士長テヴァンは教えている時に、国王に話していた。
そしてこっそり水曜の真夜中から早朝にかけてだけ、アレンはレティシアに剣術を教えていただけだが、レティシアは上達が早く剣の腕はテヴァンが知る時より上がっているなと、アレンは密かにレティシアの腕を見込んでいた。
この事は、ミグにさえレティシアは話していないので誰も知らない。
――話はそれたが、簡易魔法の種類の中には、この髪や身体の乾燥と髪型を整えたり変えたりする事以外に、そんなに使う機会は多くないのだが、“髪の色を変えたり瞳の色を変える”といった『変装』のためのものまである。
実用的なものでいうと、持ち物が持ちきれない際にしまっておく異次元空間であろうか。
ゲートの様なものをその空間につなげ、その空間の範囲内ならば物をしまえるといった異次元に用意された道具箱のような役割を持つものといった魔法も存在している――。
レティシアに着替えをさせるというのも、これら簡易魔法の一種を使うのだが、着替えに関してはその者のセンスが問われるという重大な業務でもあった。
しかし、クローゼットの様に異次元空間に何着か服をしまって置き、パチンと指を鳴らしただけでさっと着たり着せる事が出来るのはセンスさえあれば楽である。今回の“王女の入浴後の着替え”という場合に関しては、レティシアやミグのお世話を任されている侍女マリアが、きちんと着替え用の服と下着を事前に用意してあり、後は侍女に任せて『着せるだけ』という作業なので、センスがなくともパチンと指を鳴らして簡易魔法を使えば済むことなので、楽なものだ。
それには、身体と髪を拭いた後は侍女が一人残れば十分なので、それ以外の者は後片付けに取り掛かるため、更衣室を退室して行けるほどあっという間である。
「ありがとう。おやすみなさい」
レティシアがそう言って浴室を出ようと扉に向かうのを、残された侍女が見送る。
「――おやすみなさいませ、姫様」
こうして、レティシアは浴室を後にしようと扉に手をかけ開けた時だった――。
「あ」
「あ」
――二つの声が、ほぼ同時に響いた。
城の浴室場の男湯と女湯の扉は向かい合わせに位置している。
偶然、レティシアが出たと同時に男湯からも人が出て来たのだ。
…それも、よく知ってる人物が――。
髪はタオルで拭いただけで、まだ濡れたまま漆黒の様な色。肌を紅潮させ、見下ろす様にレティシアを見るその人物の瞳だけは、いつもの様に明るい青空の様な色に澄んでいる。それは意外そうな表情を浮かべている。
そして、そのよく知る人物が、その白いバスローブに身を包み出てきたのだった。
「リュ…リュシファーも風呂か――」
その様子にレティシアが先に一言口を開いた――。
「あ……あぁ。レ、レティシア様…。病み上がりで風呂なんか入って大丈夫なのですか?」
周りに聞かれる可能性も考え、丁寧にそう言ってからリュシファーがレティシアの額に手を当てるが、熱はない様である。
「――安心しました。でも、医学の心得のある身としては、『それはあまり好ましくないですね…』としか言葉が出ませんねぇ…」
「だ、大丈夫だ…。もう熱もない――昨日から汗もかいていたし、やっとさっぱりしたんだ。そう固い事言うな――……」
少しだけ昨晩からのリュシファーへの感謝の気持ちを言おうとしたのだが、やはりそれを口にすることは出来ず、入浴して少し紅潮していたその顔をそらし、レティシアは先に歩みを進めた。
――何を私は苛々と…。この者には昨晩の礼を言わねばならんというのに……っ。
もう言えなくなってしまったことに、レティシアは内心後悔していた。
もともとお礼を言うのが苦手で照れてしまい、つんとした態度を取ってしまう事が多かったレティシアは、今回こそはと入浴中には思っていたがもう出来なくなっていたのである。
男湯にはない香料の漂う空気の乱れがリュシファーの方へ流れてくる。
「――『ラ・ヴェンダー』、か…………」
一言そう言うと、リュシファーは自分も歩みを進める。
「………!」
自分はさっき知ったのに、知っていた事が気に食わなかったレティシアは、振り向かずに一瞬、動きを止め不機嫌そうに口を開いてからまた歩みを進め出す。
「よくご存知で………っ」
少し間を開けてゆっくりと歩きながらリュシファーは、周りには聞こえないほどの声でこっそりと「……まぁな」と独り言の様に一言返事をした。
浴室のある廊下から、レティシアが自分の部屋ではない方向に歩みを進めるので見ていると、どうやらマリアに飲み物を入れて貰っている様だった。
つきあたりにあるレティシアの部屋へ繋がるドアは、自分の部屋を通り過ぎたところにあり、帰る方向は同じだったので、リュシファーは少し待つ事にした。
レティシアの足音が近づいてくる――。
その方向とは反対方向である自分の部屋の方を向き、近づいてくる足音を確認しているリュシファーの目の前に、おもむろに氷と薄紅色の飲み物が入ったコップが差し出された。
「……!?」
驚いた様にそれを差し出したレティシアを見上げながら、とても好意的に言われたものとは思えないレティシアの次に言った一言に、リュシファーはしばし唖然としていた。
「――その先のテラスで少し涼むから、暇なら――ちょ、ちょっと付き合えっ……」
予想外――。
唖然としながらリュシファーがコップを受け取るなり、レティシアは“その先”という、先程マリアに飲み物を貰った方向に向き直り、歩みを既に進めている―――。
しかし、熱が下がったとはいえ体調を崩される訳にもいかないので止めようとしたが、既に自分が受け取ったそれを見つめながら、自分が買収されたというような気分になり、肩を落としてからリュシファーも歩みを進めた。
「はぁ~……しゃぁないな…」
とは言いながらも、レティシアが可愛気もない言い方ではあるものの、“一応”テラスでの湯冷ましに誘ってくれたことに、リュシファーは少し嬉しかった。
――メイドが駐留しているミニバーカウンターの前で、マリアが微笑んで『病み上がりですから』とブラウンの暖かそうなブランケットを2枚渡してくれたので、リュシファーは軽く挨拶した後それを受け取り、もう姿が大分遠くに見えるレティシアの後を追っていく――。
その最中、昨晩のエルトとの会話の言葉を思い出していた――。
『素直に礼は言えぬがコイツなりに感謝はしてる』――か。
そうその場で思い出すまま呟いたリュシファーの口元は、少し微笑んでいた――。
――――……
………
つづく。
素直じゃないので少しカチンと来る事があると、レティシアはつい言えなくなってしまいますが、感謝はしていた様ですね。
というのがテーマ回ですが、少々説明も入りました。
ちなみに簡易魔法…私も使いたいです。(BY月葉りんご)