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08.幸枝と趣味

 トントン。軽くノックの音がする。

「幸枝。ねぇちょっといい?」

 そう言って、こちらの返事も待たずに、私の自室に園美姉ちゃんは入って来た。

「幸枝。いい? ちょっと話があるんだけど」

 と園美姉ちゃんは切り出したが、大事のように話の前振りをするが、大概どうでもいい話だ。同じB型同士だからか。そこら辺の匙加減は手に取るように分かる。

「あのさぁ。今日幸枝、家のお菓子にチョコパイ買って来たでしょ? あれ六個入りだよね」

 ホラ。やっぱりしょうもない話だ。夜半のもう眠りに就こうかという人がちらほらいる中で、全く取るに足らない話の切り口だ。そんなもの、明日の朝にしてくれよ、と幸枝は内心思ったが、そこを表立たせると却って面倒臭い。一応園美の話を黙って最後まで聞くことにした。

「六個入りってことはうちは五人家族だから一個余るわけでしょ。その──」

「お姉ちゃんニ個食べていいよ」

 何をか言わんや。話の大筋が把握出来たので割って入った。

 この大食漢。食い気だけは誰にも引けを取らない。

 ……全く。家事を終えて一息吐いて漸く手にした、自由時間。寝る前のささやかな至福の時間。

 そんな要らんことで(わずら)わしたくない。園美姉ちゃんとの話を切り上げて、幸枝は机に向かって一時中断した作業を再開した。

「さぁーて。ど・こ・ま・で、進み・ま・し・た・か・ね」

 と一人(うわ)ついて、ドキドキを(たずさ)えながらコマ割りをしていく。

 独言がアカペラなのも、浮かれている証拠だ。

 幸枝は漫画を読むことが一番好きだが、それに追い付くぐらいまで今、伸び代の大きい好奇心を狩られる時間が、この同人漫画雑誌の制作だ。

 漫画愛好家、の肩書きを捨てたわけじゃない。それに併せて自主制作の面白さも経験値を積むごとに分かってきた。

 テーマを決めて、あらすじを考え、プロットを作って、ストーリーの土台をこれまでに作る。それに併せてキャラクターの適性を決めて、人物像を実際に描写して、人間像を決めて、場面設定を決めて。と、やり出したらキリが無い。そこからネーム、背景描写、ペン入れ、ベタと実際の漫画に仕上げていくのも、これまた奥深い。

 私も最初は、一読者でしかなかった。しかし、漫画を読んでいくと……。

 ラブロマンスだと思っていたのが、横道に外れたり、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)だと思っていたのが、最後主人公がぞんざいに扱われたり、と想定外の着想が思い浮かぶことが重なるようになった。

 そんな思いつきがひとつ、またひとつと浮かび上がるにつれて、

 ──あ? これは何かのお告げだ。

 と私の第六感が天啓(てんけい)だ、と示した。

 それから始まった。

 私は処女作から、パロディーでなくオリジナルで挑むことにした。以前からの同人誌の(つて)で、サークル参加で販売することとなった。

 イベントやコミケなどでの一般参加の方々の反応は、まちまちだ。しかし売り上げとは反比例に積み上げられた感想はご丁寧にも、的を得ている。

 第一作目は読者から製作者へと階段を上がったことに高揚して、がむしゃらに書き殴った。けれど、今思い返すと裏付けする参考文献が、要所要所に茶殻(ちゃがら)のように違和感を与えて、漫画というよりかは、不出来な小論文のような物が出来上がった。

 二作目は緻密(ちみつ)な下調べでよく出来たとも私は思ったが、野良育ちの我流の著者である私は、アカデミックな本流の漫画ではなかった。そこを、漫画の形式に乗っ取っていない、とのことで批判を受けた。

 三作目は、出来は良かったが、過度に作品のクオリティを上げようと余計な部分を省いていったら、全体が短くなってしまった。またテーマがニッチで、ニーズがほぼ無い、世間では求められていない作品、だとしてこれも駄目だった。

 一般参加者は熱心に一読してお気に召したので、ご購入、かと思ったら、愛想を振り撒いて買わずに立ち退いたり、あーだこーだと難癖やら講釈を並べて、食い合わせが悪かったと見えても、意外と買って帰ったり、と想定内の反応が帰ってくるとは言えない。基本オタクの集まる会場だから、個性の寄せ集めのようなもので、一括(ひとくく)りに出来ない。

 しかし彼らもメタな漫画愛好家であるから、オタクなんて、と過小評価してはならない。

 私は現代漫画しか読まないが、彼らは手塚治虫先生や萩尾望都先生らの、少年、少女漫画の黄金時代の頃からの愛好家であるからその見解は高次元だ。時代を渡り歩いて総評するので、核がある。だから真摯に受け止め作画に反映させていく。

 新作はSFものでいくことにした。

 以前、宇多田ヒカルが音楽番組で、「量子もつれ」や「マイクロキメリズム」という、二つの結びつきについて語っていた。

「量子もつれ」とはニ〇二二年のノーベル物理学賞の発見で、一度、二つの粒子に「量子もつれ」の関係が出来ると、どんなに離れていても何故か互いのことが分かる、ということ。

「マイクロキメリズム」とは、妊娠中に母と子の胎盤を行き来した細胞が、生まれても尚、母の細胞が子に、子の細胞が母に残る、と言うものだ。

 この説明の付かない、二つの結び付きに宇多田ヒカルは影響を受けて、『Electricity』という曲を作った。

 私はこの『Electricity』を、和歌で言うなら本歌取りのようにして、スピリチュアルも絡めた、異世界と現世との結び付きをテーマに描こうという茫漠(ぼうばく)たるテーマだ。

 この着想に幸枝は、奢っていた。書き出す前から酔っていた。

 まだ誰も創出したことのないであろう、科学と精神世界の融合。そう、森羅万象と前世と来世。幸枝はあらすじも書き出せぬまま、じっと机に向かっていた。

 次のイベントまで二ヶ月、切っていた。

 次の日。

 夕食の食器を片付けをしながら、いよいよ本格的に創作に向かわないとダメだな、と焦りを覚えた。まだ枝葉を描き殴っているだけで本筋も決まっていない。

 一つだけ分かっていたのは科学の二つの繋がりを示す、「量子もつれ」と「マイクロキメリズム」に関しては、参考文献は大したことはないだろうが、精神世界の奥深さ。そこを紐解くには、とてつもない、量の資料を読み漁らないと駄目だろうな、ということ。異世界とはなんぞや? その問いをまだ高二の私が突き付けられている。その底知れない課題にどこか、(ひる)んでいた。

 難儀だと思いつつ、まずは前世、来世について知らなきゃお話にならない。と、前世、来世に関しての資料を集めようと市の図書館のインターネットサービスで検索した。

 すると、該当しそうな文献などそうも簡単には見つからず、「前世からの現世」「来世はこうありたい」「来世こそは」などと、()()()()()()、の抽象的な話が跋扈して期待外れに終わった。

 貴重な自由時間を浪費して、無駄骨で一晩終えたことを心底惜しんだ。その夜は悔しくて、なかなか寝付けなかった。


 次の日。学校を終えていつものように買い出しを終え、夕食の準備に掛かろうとした時だった。園美姉ちゃんが台所に顔を出した。そして、

「幸枝。牛乳は?」

 と私のエコバックを(あさ)った。「牛乳」と突っかかって来た。私は買い忘れたことに気付いたが、自分に非があるとは素直に認められず、「まだあるでしょ」と返す刀で応じた。しかし、園美姉ちゃんは食べ物に関しては抜け目なく、

「昨日の朝には空になってて、『夕方買うね』って幸枝言ったよね。それで昨日買い忘れて、『ごめん。明日必ず買ってくる』って言ったの幸枝だよ。ねぇー。また今日も忘れたの? 何、『まだあるでしょ』なんて言い逃れしてんのさ。ちょっと、ちゃんとしてくんない?」

 同人誌のことで完全に失念(しつねん)していた。お姉ちゃんの言う通り、昨日も今日も忘れた。

 けれど、牛乳ぐらい何だってんだ。忘れた所で命が取られるでもない。たかが、一日、二日……。私は腹の虫が治らず、

「そう言うんだったら牛乳、園美姉ちゃんに担当してもらおうかな。牛乳管理。家族で一番飲むのお姉ちゃん何だから。自分で管理したら? 私、他にも買い物あるから牛乳嵩張(かさば)るし、重いし。お姉ちゃん月末精算するから、変わってよ」

 そこまで言うと、園美姉ちゃんは面倒なことになりそうだと思い、去り際に、

「明日。お願いね」

 と二階に戻って行った。

 私は口喧嘩には勝ったが、砂を噛んだようにジャリジャリした感覚が心の内に残った。

 駄目だ。酷い逆ギレだ。完全に自分に問題があったのに、園美姉ちゃんに擦りつけた。言い逃れしたしっぺ返しに幸枝は心の内に、後悔と自責の念に駆られていた。

 その夜も資料探しに時間を費やしたが、園美姉ちゃんへの反逆に、寧ろ尖った剣先は自分の心を突き刺して、園美姉ちゃんとの関係の修復に頭は持っていかれていた。

 集中力を欠いた幸枝は、またも一晩無駄にして、その上姉妹喧嘩という負債も抱えた。更には進捗も振るわないという、不安も伸し掛かってきた。

 ここ何日か睡眠不足だ。ボーッとして陰気で不安が(まつ)わりついている。翌日は集中力を欠いたまま家事をこなした。一人でここ何日かなんとか切り抜けようと家事と同人誌の両立を試みたが、どうやら無理があるようだ。悶々として一人悩みを抱え込んでいたが、自体はタイムリミットが迫り、精神衛生は悪き方へと流れていった。

 そして、また翌日。もう一人で抱えきれないと、自分に見切りをつけて平日休みだった貴実子姉ちゃんに相談した。

 ちょうどトイレで二階から降りてきた所を話しかけた。

 今、実は漫画を読むだけじゃなく、書くことも楽しみの一つだということ。

 しかし、同人誌の出版の締め切りに追われている、ということ。

 その新作の、具体的な本筋も浮かんでいないこと。

 そしてその状況を改善すべく、寝る間を惜しんで作業に追われているが、(はかど)っていないこと。

 そうした精神が不安定なことで、家事で失敗してそれを(とが)めた園美姉ちゃんに、八つ当たりしたこと。と、余すことなく伝えた。

 貴実子姉ちゃんは「まず。トイレ行かせて」と言って、「幸枝。お茶の間で待ってて」と告げた。

 そうして待っていると、トイレを終え茶の間に足を運んだ貴実子姉ちゃんは斜向かいに座り、まず、

「いつも家事を率先してやってくれて、ありがとう」

 と声を掛けてくれた。そして、

「幸枝は真面目だね。私がもし高校生だったら家事なんてなおざりにして、自分のしたいことしてたと思う」

 と労ってくれた。そして、

「幸枝。幸枝はそんな、家事を抱え込むことなんてない。もっとしたいようにすればいい。生きたいように生きればいい」

 と親身になってくれた。理知的で瀟洒(しょうしゃ)な大人の貴実子お姉ちゃんの言葉は、重みがあった。その一言一言に、真心と情が感じられた。

 そうしていつ取って来たのか? 階段下の荷物置き場からスーパーのチラシを用意してきた。それを裏にして、これまたいつ取ってきたのか? マーカーを取り出し、「家事分担表」とチラシを横書きに、一番上にタイトルを記した。

「まずは幸枝の負っている家事を洗い出そう」

 と併せて持って来た半紙のチラシに「まずは『買い物』」と、箇条書きに洗い出していった。次いで「料理!」とちょいと貴実子姉ちゃんは嬉しそうだ。

 貴実子お姉ちゃんは、慎ましやかで派手さを好まず、控えめであることを享受としている。だから、このように慕われると、承認欲求が満たされて心地よく感じるもようだ。

 私はマイペースなので、人に頼られると煩わしい。だから、貴実子姉ちゃんの気持ちは分からない。

 ──千差万別、ってこういうことを言うんだな。

 と胸の内に唱えた。そして掃除、洗濯、備蓄品の保守、点検。和葉のお世話、ジュジュのお世話。家計簿を付けて、金融機関へ赴く。役所に赴く。時候の慣わしの確認、支度、片付。家電などの保守、管理。家財の保守、管理。と矮小(わいしょう)な細やかなものまで全て洗い出していった。慎重な貴実子姉ちゃんは、

「他にない? ど忘れしてるとか、ない?」

 と何度も確認を取った。余りに用心深い貴実子姉ちゃんに、今度は私が辟易(へきえき)して来て、

「まだ何かあったらそれは私が受け持つよ」

 と言った。すると貴実子姉ちゃんは、

「そういう何気ないことが重なって、今の事態になってるんじゃない。安請け合いするから重石になったんでしょ。ここは幸枝。用心深くなる所。今を逃したら、次の機会までまた幸枝の負担が増える。もう少し付き合いなさい」

 と、年長者らしく訓示を垂れた。

 そして二度、三度と確認を取った後、漸く実務の家族への割り振りを行うことにした。

 私は喉が渇いたので一旦腰を上げ、インスタントコーヒーを入れることにした。一応貴実子姉ちゃんにも飲むか? 確認を取ると、「私も」と応答した。

 ──何だ。私の家事の負担を、軽くしてくれるんじゃなかったのか?

 と心の内で思ったが、こんなことで揉めても仕方ない、と思い二人分用意した。

 そうしてマグカップに二つ、粉ミルクと砂糖を入れたインスタントコーヒーを茶の間に持って行くと、半紙に洗いだした箇条書きの家事の項目の後ろに、幸、父、貴、園、和と家族の名前の頭文字を書いていった。

 この頭文字は、それぞれの担当者。仕事の全体像をきめ細やかに把握した貴実子姉ちゃんは、裁量に偏りがないように、振り分けた家事の質に応じて割り振りを決めて、なるたけ均等な仕事量になるようにした。

 只、お父さんとお姉ちゃんは仕事で家を空ける機会が多く、和葉は幼子で出来ることが限られている。そういうことで、必然的に大学生というカリキュラムで時間の捻出出来る園美姉ちゃんと、高校生の私に家事負担がのしかかることとなった。

 そうして箇条書きにしたものを清書し、その夜貴実子姉ちゃんの号令で家族会議が開かれ、家事の分担が申し付けられた。

 貴実子姉ちゃんと私のごり押しのような形で、一方的に皆に荷を積ませることとなったが、義母さんの死後、皆が皆、私に甘えていたと反省して、家事分担に異論は出なかった。

 そうして私は荷が軽くなったことに安堵して、その日はぐっすり眠りについた。


 翌朝、早速家事分担が始まった。早起きのお父さんが皆を叩き起こしに回った。

「幸枝。朝だよ。起きなさい」

 と起こしてくれたのは良いが、いつもより三十分も前に起こされた。私だけじゃなく、園美姉ちゃんも早く叩き起こされたようだった。和葉は今まで通りジュジュの散歩で、早くに起きていた。

 貴実子姉ちゃんは平然と朝食の支度をして、味噌汁にご飯。そして目玉焼きと塩昆布と胡瓜の和え物、を各自のテーブルに並べていった。

「目玉焼きは各自好みの味付けで。ご飯のお供も好きに用意してね」

 と言い添えて。そうしてテーブルに着くと寝覚めの悪さから、お父さんに一言、物申した。

「お父さん。起こしてくれるのはいいけれど、ちょっと早くない?」

 園美姉ちゃんも同意見で首を縦に振った。するとお父さんは、

「今まで各自自分の起きたい時に起きて、簡素なトースト何かで朝食を済ませていたけれど、お父さん前から『これじゃ駄目だ』、って思ってた」

 そうしてお父さんの訓示が始まった。

「園美は大学。幸枝は高校。和葉も保育園とみんな組織の一員として一日を務めあげる。園美、幸枝とも出発時間ギリギリまで寝て、簡単に支度と食事を済ませて出ていく。会社勤めのお父さんからしたら嘆かわしい」

 そう言って、ひと足先に朝食を済ませたお父さんはお茶を飲みながら、講釈を垂れた。

「貴実子以外、社会人じゃないから分からないだろうが、組織の一員足る者、始業時間を守ることは必須だ。不慮の事故でもない限り、始業時間の五分前には自分のデスクに着座して、待っているものなのだ」

 そう言ってご飯を食べている貴実子姉ちゃんへ、お父さんは視線を配った。

「貴実子を見なさい。昨日の今日、朝食の担当になったと言うのに、しっかり和定食の用意もして、着替えもしてある。多分、昨日の晩から事前に準備していたんだろう。社会人とはこういうものなのだ。約束の時間を守れない者は信用を一気に失う。深夜のTVが面白いから夜更かしした。スマホを寝落ちするまで(いじく)っていた。それで時間ギリギリに出勤した。登校した。もしくは、遅刻した。そんなのはただの甘えだ」

 お父さんは朝方だから弁が立った。

「じゃあギリギリに来たらどうする。遅刻したらどうなる。スムーズに行かず、同僚やクラスの仲間。先生の時間を奪うことになるんだ。いいかい。ちょっとした甘えで自分も、人様の寿命も無駄遣いしているんだ。一度失った時間は二度と戻って来ない。時間に甘いと言うことは、何につけても信用ならない、と社会では色分けされるんだ。そして、失った信用は容易には戻らない」

 お父さんは最後締め括った。

「お父さんと貴実子が朝の仕事の当番になった以上、三人とも子供扱いしない。時間に余裕があるように登校してもらう。寝足りないんだったら、夜更かしせずに早寝すること。いいね」

 と言って湯呑みを洗いにお父さんは席を立った。

 家事分担で負担が軽くなったと思っていたが、想定外の横槍が飛んできた。これじゃあ夜更かし出来ない。家事の分担は、自分の時間を確保する為に貴実子姉ちゃんに泣きついたものだったが、真理を知らないお父さんには通用しなかった。

 体質なのか夜型の幸枝にはお父さんの目覚ましは(こた)えた。そうは言っても負担が減った分自分の時間が出来た。数日経ち、家事分担で学校帰りにスーパーに寄って牛乳をまとめ買いしてきてくれた園美お姉ちゃんが、台所に立っていた。そうすると何か浮ついた様子だった。ダイニングテーブルに荷物を置き、

「幸枝見て。見切り品のプリン、五つ。安かったから買ってきちゃった」

 そう言ってリュックを探ると、クリーム色と焦茶のもはや液状の()()()、が出てきた。「あぁー。リュックに入れてたから。揺れて崩れちゃったんだね、プリン。でも食べれば味は一緒。ねぇー良い買い物でしょ?」

 と園美姉ちゃんは同意を求めた。そら見たことか。案の定やらかした。家計を預かっていない園美姉ちゃんが財布を握ると、勝手気ままに買い物すると思っていた。見切り品だから安く買った? そう言った小金の積み重ねで家計をやりくりしているのに。

 幸枝はため息が漏れた。しかも取り扱いに気が回らなかったことで、せっかくのプリンを台無しにした。

 肥満体の園美姉ちゃんにとっては只の一食のお菓子でしかないかもしれないが、私達らの体系を維持する人間にとっては貴重な贅沢の、甘味処(かんみどころ)のスイーツなのだ。図っている物差しがそもそも違うのだ。

「お姉ちゃん。牛乳だけ頼んだよね。後の物は私が管理するから」

 と注意すると、

「見切り品のプリン五個だよ。まとまって値引きされること何て滅多にないよ。形を駄目にしちゃったのは謝るけど、けど割安だよ。お得だよ」

 と返してきた。そうすると私は頭に血が昇って、

「園美姉ちゃんは家計をやり繰りしてないから、そういう甘い考えで物を買うの。お父さんと貴実子姉ちゃんのお給料でも家計はカツカツなの。余計な買い物しないで!」

 と声を荒げた。すると、

「幸枝だって。煎餅だったりチョコパイだったり買い物してくるじゃん。プリンと煎餅の何が違うの? 何が悪かったの? そんなにムキにならなくたっていいじゃん!」

 と園美姉ちゃんも喧嘩越しになった。

 こうなると家計の管理をしていない園美姉ちゃんには、水掛け論でしかない。私は諦めて、

「とにかく。お姉ちゃんは頼まれたものだけ買ってきて。余計な買い物はしないで。お姉ちゃんと私とはお金に関する考え方が、根本から違うから。また揉めるだけだから。頼まれたものだけ買って来て。お願いします」

 と言って頭を下げた。園美姉ちゃんは煮え切らないようで、早速液状になったプリンを持って、自室に上がって行った。

 私は揉め事が基本的に嫌いだ。口論に勝っても負けても、後味が悪い。貴実子姉ちゃんの家事分担は平穏な生活を約束させてくれるものと思ったが、また不和を引き起こした。

 そんな火種を抱えながら、同人誌の制作に夜間向かった。だが、虫の居所が悪く集中出来ず、また作業も捗らず、またもや眠りにつけなかった。

 次の日の朝、雨だった。そこで早朝のジュジュの散歩を終えた和葉に、

「夕方の散歩終わってジュジュの体拭いたら、ジュジュのタオル、流し台に出しておいてね。手洗いした後、別で洗濯機に掛けるから。お願いね」

 と伝えた。その日一日雨模様で、ジュジュは朝に継いで夕方も体を拭くこととなった。

 明日は快晴だ。朝と夕方の二枚のジュジュ用のタオルを(まと)めて洗えば明後日には乾くだろう。そうして私も夕飯の買い物を終えて、ご飯を作る前に流し台を覗いてみた。そうするとタオルは出ていなかったので、父と共有の、茶の間兼、寝室でタブレットで動画を見ていた和葉に、

「ジュジュの洗濯物。別洗いだから早く出してね」

 と声を掛けた。そうして台所で夕飯の支度をした。そうして夕飯を作り終え、忘れると悪いので再度、流し台を確認した。それでもジュジュのタオルはまだ出ていなかった。

 もう、これ以上は待てない。ジュジュの洗濯を先にして、風呂上がりにみんなの洗濯をするからだ。和葉に、

「先に手洗いするから、早くジュジュの洗濯物出してって言ったよね。ジュジュのお世話は和葉の受け持ちのはずでしょ? 私にも都合があるの。言われたらすぐやるようにしてよね!」

 とキツく言った。そうすると和葉は縁側から湿ったタオルを仕方なし、持って来て、

「なんかお姉ちゃん。最近怒ってばっかりだよね」

 と言った。ものの見事に言い当てられて口を(つぐ)んでいると、

「怒ってる幸枝お姉ちゃん、嫌い」

 とはっきり言われた。

 これまでであったら奔放(ほんぽう)な和葉のことなので、タオルを出し忘れるなんてのも愛嬌で受け止められていた。しかし仕事を割り振ったことで、かえって、和葉の一挙手一投足が癇に障り、いきり立つこととなった。園児相手に本気になっている自分に、嫌気が差した。


 園美お姉ちゃんとも揉めて、和葉とも揉め、最近鬱々と何でも嫌気が差して来た。

 こんな役割分担などせずこれまでの方が、ストレスなく過ごせていたように思えた。

 寝起きが悪い。学校も面白くない。家事も億劫だ。趣味の漫画も面白くない。同人誌は全く捗らず、寧ろ重荷になっている。明日から休みだ。そこでなんとかしなければ。着想のヒントだけでもいい。家事をとっとと終わらせて、同人誌の制作に当たろう。その為にも家族の協力が必要だ。そういうことで家事を一通り終えた夜、寝る前にお父さんにお願いにいった。

 明日、明後日の休みに家事は最低限(こな)すが、その分自分に自由な時間を与えて欲しい、と。そのようにダイニングで寛いでいるお父さんに話をした。お父さんは、

「今日の夕飯はちゃんと食べたかい?」

 と的外れの質問を投げ返してきた。意図は解らなかったが充分食べたので、

「食べた」

 と答えた。そうすると、

「じゃあ。歯を磨いて、すぐ寝るように」

 と言われた。お風呂がまだだ、と伝えたら、

「お風呂は明日でいいから。とにかく寝ること。そして目覚ましは掛けないこと」

 と言った。とりあえずお父さんの言い付けなのでその日は歯を磨いて、すぐ寝た。家事はみんなで分担してくれたようだった。

 翌日、昼近くまで寝入っていた。

 お父さんは私だけ起こすことなく、私の朝食はラップに包んでダイニングテーブルに置いてあった。私は寝過ごしたことを詫びようと、お父さんのいる茶の間に向かった。そうして慌てて家事に掛かろうと思っていた。そうしたら、

「朝ご飯は食べたかい?」

 と聞かれた。私は、

「まだ、食べてない」

 と伝えると、

「お腹いっぱい食べて。また寝なさい」

 と言われた。私は家事も(ないがし)ろに昨日からしていたし、お風呂も入らなかったし、何よりも同人誌の制作に時間を傾けられるのが今しか無い、と伝えた。ところがお父さんは、

「そんなことはどうでもいいから。お腹一杯食べて、歯を磨いて、お風呂は夜でいいし、家事はみんなでするから、昼寝するように」

 と答えた。お父さんは私の訴えなど空耳のように受け流し、「とにかく寝るように」と念押しした。お父さんはものの道理に反したことを言ったことはこれまでない。私の要求も聞き流しているわけじゃない。普段押し付けがましく言わないお父さんが、

「とにかく食べて、寝るように」

 と、しつこいぐらいに唱えていた。そうして土曜が過ぎ、日曜日も同じように食っちゃ寝を繰り返し、日曜日の夜半になった。

 するとどうだ。これまで(こだわ)っていた家事を完璧にこなさなくちゃと言う責任感も、家族との折り合いの悪い不和も、同人誌に対する切迫感も全部綺麗に忘れ去られ、清々しい気持ちになっていた。

 そうして夕飯を食べてお風呂に入り、歯を磨いてダイニングから自室に向かおうとする

所、父は待ち望んでいたかのように、

「幸枝。掛けなさい」

 と私を座るように促した。お父さんはいつも通りホットミルクを。隣で貴実子お姉ちゃんは晩酌していた。そして、

「どうだい。調子は?」

 と聞かれ、

「なんか。頭がスッキリした」

 と答えた。そうすると、

「それは良かった」

 とお父さんは嬉しそうに応じた。そうして、

「父さんはね。『酒は百薬の長』って(ことわざ)があるけれど、あれになぞって『寝るは百薬の長』だと思っている」

 と言って息を吹きかけ、冷ましていた。

「家事も、幸枝の課題も、それに対する不安も、家族との喧嘩も全部、心の問題だ。そして心の問題の大半が、寝不足からきている場合が多い。お腹を満たして寝たいだけ寝て、頭がすっきりすれば大方(おおかた)瑣末(さまつ)な取るに足らない、小事(しょうじ)であることが多い」

 そう言って、マグカップの縁をなぞった。

「家事に神経質なことも、自分でハードルを高くしたプレッシャーも、他人に対して抱く不満も全部、心の問題だ。お父さんは若い頃心を病んで、精神科に罹ったことがある。そのお父さんの血を受け継いだんだろう。幸枝も真面目で責任感が強く、それに神経質だ」

 そう言ってホットミルクを飲んだ。

「その時言われたのが、とにかく、余計なことを考えず療養すること。何も抱え込むことなく食べて寝ること。そうすれば大抵なんとかなる」

 そうお父さんは言い終えた。そこを観て貴実子お姉ちゃんが、

「前、幸枝が言っていた異世界と現世の結びつき? あれね。『高天原』っていう神話の空間があるの。古事記に書かれているみたい。丁度今度、『高天原』についてBSーTVで特集やるそうだから。見てみたらどう?」

 と放送予定のメモを、寄越(よこ)してくれた。お父さんの箴言(しんげん)と貴実子姉ちゃんの心配りで、道が開けた。私は嬉しくなって、

「園美お姉ちゃんと和葉に謝ってくる」

 と言って、二階へ掛けていく所、

「もう遅いから。手短にね」

 と階段下から貴実子姉ちゃんの通る声が聞こえ、私は、「はーい」と返事をした。

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