2
昨日の夢は跡形もなく、無事朝を迎える事ができたので今日此の頃は別段変わりなく登校しているのだが、首筋を撫でるような視線を朝から感じるような気がしてならない。しかし人の思い込みとは強い力を持つものである。流石に気の所為だと首を振れば気にならなくなった。
と、そんな事を気にしている内、背後から聞き馴染んだ声で「おはよう」と言われた事に気づき振り返る。予想通り其処には友人の崎原 結月 が立っている。飽きるほど長い腐れ縁の女だ。
「おはよう。愉快な朝にゲロぶち撒けられたような気分だが挨拶はしてやる。」「女の子を吐瀉物扱いとはなかなか...」僕はこの女のことをあまり好いていない。理由は単純明快そのもので、ちょっかいばかりかけてきてウザいからである。鬱陶しく感じることが多い間柄なので所謂犬猿の仲という言い方が的を得ていると思われる。
「今朝を良く眠れたようで、いつものクソでかい隈が無い。」「皮肉なもんで良く眠れた。極上のノンレム睡眠だ。」「皮肉って?」「なんでもない。」あの夢のことなんて別段話題になるほどの事柄でもないため相談する気にもなれなかった。もう一つの理由はこの年になって悪夢が怖くて困ってるだなんて幼馴染に相談してしまったが最後、羞恥で死ぬ。ということであろうか。
「今日提出物とかあったっけ。」「確か数学で宿題が出ていたはず。そこまで難しいもんでもなかったが。」出たのは三角定理。別段特別な問題はなかったし容易なタスクである。
「私やってないな~。」「それは見せろというニュアンスの言葉か?まあ別にいいが自分でやる事も覚えたほうが良い。」「美馬様マジ感謝~。」僕の忠告には聞く耳を持ってくれないようで、呆れが僕の身体まで怠慢にするようで、怠さが襲いため息が出る。
ホームルームが始まる前にすべての答えを写し終えた結月は何故かやり切ったような雰囲気の中ふんぞり返っていたので苛ついて「結月なのに全問正解なんて明日は夏の雪だな。」と揶揄ったら腹を蹴られた。痛い。
救いがあるとするならば、僕は陰キャで彼女は陽キャということであろうか。学校内での接点は少なくとどまっているため僕自身が悪目立ちするようなことは今のところ無い。
しかし今日のクラスの様子は少しばかり落ち着いていた。それはクラス一のお調子者である芦田 彰俊が大人しくしていたことが起因であろうか。いや、おとなしいと言うよりも怯えているような印象を持つ様子であった為、彼の友人は皆、心配の意を表していた。
特に面白いような事もなく帰りのホームルームが始まると、学生たちは欠伸をしたり体を伸ばしたりと、疲れ切ったような仕草をした。実際の疲れは程々であろうがやはり授業など退屈なものを受けたあとは体がつかれたように感じるだろう。僕も例に漏れず小さくため息を吐いた。
「模生類って知ってるか?」
その声を聞いて帰路につこうとする足を止める。それは、芦田 彰俊の声であろうか。いや彼に違いない。声のする方には芦田が居たと共に彼と 会話する人が知らないと答える様子が見えた。
アイツは今模生類と口にしたのか。したのだとしたら。いや、したとしたらどうなのだろうか。説明がつかない。付くのかもしれないが。僕が夢でしか聞いたことのない単語を何故彼が知っている。本当は模生類というものが存在しているのか。あまり有名でないようだが。いやしかし考えにくい。新しい生物が見つかったらニュースなりで名前位聞くはずである。何時しか聞いたのを僕が忘れたのかもしれないが...。いや、わからない。兎に角、わからない。謎の中身がそもそも謎に包まれている。 同じ夢を見たとでも言うのだろうか。
「いや、模生類は居るはずだ!この体で体験したんだ!自分の肉が食いちぎられる感覚を!信じてくれ!お前も襲われるかもしれない!」
さてあちらはと言うと少しヒートアップしているようで、芦田がキチガイじみてきた。周りも反応に困ったように苦笑いを顔に浮かべて後ずさっている。芦田は夢を信じているのだろうか。彼の夢にも実態的な痛みが有ったとすると、彼と僕のシチュエーションが完全に重なっている(何処かに体をぶつけた)か、夢自体にスピリチュアルな力があるか、ということになる。後者に関しては可能性が圧倒的に低いが。
確かに裂傷の感覚。引き裂かれた筋肉の筋一本一本をこの神経で感じたのは確かだ。腕の付け根から引きちぎられ、太腿から膝の外にかけて食い破られた感覚はリアルだが、それはもう、狂ってしまうほど痛く苦痛ではあるが。いや、今言った通り、夢で得体のしれない化け物に食われ痛みまで有るとなれば、狂うのも仕方ないか。
「お前ら信じないってのか?クソ、いやお前らが模生類かッ、そうに違いない!きっとではなく、間違いなくッ、此処にいる全員があの化け物なんだろッ!」
ヤバそう。狂いも狂ってここまで百里的な感じだろうか。う~ん異常者極まりない。話を聞こうとも思っていたがこれは雲行きが怪しい。太陽の子の発売日くらい怪しい。
周りの生徒も一気にザワ付いた。
さっさと帰ってしまおう。リュックサックを取ろうとした。
そしてすぐ目を見開く。瞳孔が開いた感じがした。
ワンフレームの出来事だった。赤い飛沫が横から飛んできたのだ。それはリュックサックを濡らし、僕の手を濡らす。生暖かく生気を感じるその温水は僅かながら鉄の匂いを発する。
横を向きたくない。
紛れもなく血が、波のように地面を伝って、視界の端に見えた。
キャーッ!という声と共に教室中でバタバタと音がした。悲鳴、過呼吸、転ぶ音、何かを倒す音、ついでに嘔吐。そんな音たちがひしめき合いとんでもない轟音となって耳に届いた。
何がおきた。この血は何だ。赤い。甘そうに熟したイチゴのような赤。しかしそれに向けられる感情は美味しそうではなく恐怖である。
意を決して横を向くと其処には変わり果てた姿の芦田がいた。そう、あの夢の化け物と同じ姿。違うところがあるとするならば、芦田の腕に相当する部位は身体の2倍ほどの長さで、片側は刀の刀身のように鋭く研ぎ 澄まされた光沢が見えるということ。芦田、奴の隣には噴水の如く血を過ぎ出し続けるセーラー服姿の首無し人形。吐き気が込み上げるとともに、本能でやつは危険だと判断する。
斬られる。奴の腕に斬られた死体がそこに有る。
奴は腹に空いた穴から「イイイイイイギギギギギギ」と甲高く鳴いている。あれが口なのか。完全なる異形の口。虫の脚のような突起が蠢き合い、穴の中から伸びる無数の触手を隠すようにしている。
んなこと分析している暇はない。早く逃げなければならない。死ぬ前に逃げなければ。
焦れば焦るほど手際は悪くなるのと同じように、リュックサックをうまく背負う事ができない。舌打ちをしたあと衝動的にリュックサックをあらぬ方向に投げ捨て、さっさと教室のドアに向かう。早く出たい生徒たちでドアの前はごった返しもみくちゃ状態の大騒ぎである。窓から飛び降りる生徒もいるほど。そして逃げ遅れその場にへたり込んだ一人の生徒が今頭を吹き飛ばされる。
また生徒の喧騒がうるさくなる。
そろそろ全員逃げたかというところ。人口密度は下がり始め逃げやすくなったと思ったらドンっと僕の体は押し倒された。
「お前は囮だッ!食われてやがれッ!」
クラスのヤンキーだった。ふざけるなとかの憤りより先に、一寸先の絶望で僕の視界は今にもブラックアウトしそうな気分だった。
ああ、終わった。死んだ。死にたくない。死ぬんだな。と意味のない施工を反復するのが僕の脳内活動の最後なのかと残念に思った。
目をつぶってその時を待った。
その時。
美馬!
僕の名前を呼ぶ声。それと共に影ができる。誰かが、奴と別に誰かが僕の前方にいる。
「さき...はら...?」 「安心...してよね。私も怖くて脚震えてるけどさ...なんとかして逃げよう...?ね?」 そんなこと言って、矛盾している。だって彼女は今僕を守るようにし
て、庇うようにして立っているのだから。
「崎原ッ!さっさと逃げ」その言葉を言い切る直前、先程から振り上げられていた奴の右腕は、
振り下ろされた。